君の植木鉢
君の植木鉢
「俺さ、花になっちゃうんだって」
昼下がり、柔らかな日差しがカーテンを抜けて差し込むとても暖かな部屋。
机を挟んで向かい合った君は、日差しが差し込む方を眺めながら、すこし目を細めて言った。
僕は君の言葉に目を丸くして困惑した。
突然の君の言葉は、まるで頭に入ってこなかった、数秒という一瞬の出来事だったはずなのに、部屋に広がる沈黙と静寂に気づくまでに、とんでもなく長い時間が流れたように感じた。
「花?一体何の話をしてるの?」
当然の疑問だった、君が言っていることを理解できなかった。花、それに君がなる?何かの冗談なのかと思った。
「なんかさ、こういう病気なんだって、俺の家系だけの変な病気だって」
君は俯きながら、マグカップを手で包み込みながら話す。
「俺も言われた時はびっくりしたんだ、ついこの前実家に帰った時、母親が青ざめた顔して急に肩を掴んできて」
「『まさかあなたが罹るなんて』って言って話し始めるもんだから、受け入れるのにめちゃくちゃ時間がかかった」
君はマグカップに入ったコーヒーに口をつける。
僕が淹れたコーヒー、自分の手元にあるものはすっかり冷めきってしまっていた。
「代々、たまに誰かが罹るんだって」
ぽつりぽつりと君は切なげな表情で話す、なかなか核心に至らない話に思わず言葉が喉から出そうになる。
だけどそんな君の表情を見て、グッと言葉を飲み込んだ。溢れ出しそうな気持ちを押し殺して必死に話してくれているんだろうなって思ったから。
「なんかさ、少しずつ花になっちゃうんだって、大体半年くらい先に」
「つまりさ、俺じゃなくなっちゃうんだ、花になって、意識なんか無くなっちゃって」
君の手に力がこもっているのに気づいた、その表情も今では伺うことができない。
にわかには信じられない話だった。
だけど、それが真実だってことを君から溢れ出る言葉ひとつひとつから伝わった。
また静寂が顔を出した。
今度は痛いくらいの静寂、自身の細かな体の動きにすら気持ちの悪さを感じるほどに、静まり返っていた。
必死に頭の中を掻き回して、僕はやっと口を開くことができた。
「でも、君は花になっても僕と生き続けてくれるんだろう?」
紡がれた言葉は君への慰めと僕自身が絞り出せるやっとの言葉だった。
口にしてすぐ自分は君の気持ちに寄り添えていないと言ってしまったのではないだろうかと、不安でいっぱいになってしまった。
君は少しの間目を瞑った。
そして、目を開くと僕の方を向いて口を開いた。
「そうだな、というか信じてくれてありがとう」
さっきまでと打って変わって、いつもの明るい笑顔を見せてくれた。まるで花が咲いたかのように。
その後、その病気について詳しく教えてくれた。
半年くらいの時間をかけて、徐々に肌が植物のようになり、やがて一つの球根になってしまうという。
その病気は治ることのない病気で、要因もわからなければ、予防をすることもできないらしい。
「だけどその球根を育ててくれると、すごく綺麗な花が咲くんだって」
君は自慢げに言いのけた、その笑顔の目元に少しの緊張が見えた。きっと強がっているのだろう。
「だからさ、俺がどんな花になるか、お前に育てて欲しいんだ」
君は突然、僕の目をまっすぐに捉えて言った。
僕は少しびっくりして目を泳がせてしまった、だけどその言葉は僕への最期の、心の底からの確かな願いだと心から伝わった。
あらためて君を見つめ直す、その真剣な表情にどこか寂しげな気持ちが感じられた。
「わかった、君を大事に育ててみせるよ、そして、立派な花にしてみせる」
僕は精一杯真剣に、君へ伝えた。
その言葉を受け取って、君は安心したような顔をしていた。
「よし、そうと決まれば、準備しないとな」
君は唐突にスマートフォンを取り出して、何かを調べ始めた。
「一体どうしたの?」
僕はテーブルを乗り出して、君に問いかけた。
「俺を育てるんだから、そりゃ格好いい植木鉢を買わないとって思って、あとは土とか肥料とか...」
君は夢中になって画面を操作する。
さっきまでとはまるで雰囲気が違う、無邪気な子供のように、ワクワクした様子だった。
僕も一緒になりたくて、君の隣へと座って同じ画面を眺めた。
春の風はまだ優しく、僕たちを包んでいた。
あれやこれやと一緒にやっていると、いつのまにかいつもの日常に戻っていた。
共に夕食を済ませて、眠る。
君は寝息を立てて安らかに眠っている。
だけど僕は眠れなかった、君の話を反芻していたからだ。
君が花になる、いなくなる。
死ぬわけではないと思うが、どうしても『それ』を意識してしまう。
人は誰しも最後は死ぬ、そんなことは誰だってわかっているし、僕らだってそんな日がいつかは来ると思っていた。
だけどこんな形で、君と別れるなんて。
いや、別れるわけではなくて、一緒にいられるんだけど、やっぱりどうしても離れない『死』という意識。
君が君でなくなって、話すこともできなくって、だけど君の命はずっとここにあるという。
不思議で、奇妙で、訳が分からなくて。
ふいに目元が熱くなり、手で目を覆う。
どうして、君がこんな目に遭うんだ。
ふいに心がぐしゃぐしゃになる、あらゆる気持ちが混ざり合って声が出そうになる。
布団の端を顔に当て、小刻みに息を振るわせる。
少しずつ息と共に気持ちを吐き出して、心を整えていく。
気持ちを一つずつ紐解いていき、整理していく。
そうしているうちにゆっくりと息が落ち着いてきた。
すると、ふいに君の肌が僕の腕に触れた。
いつも触れる君の肌、温もり、君が生きていてここにいるという証拠。
いつもの日常がここにある、君はいつも通りのまま。
僕はなんだかほっとして、急に体の力が抜けてきた。
どんどん、瞼が重くなっていく、ああ、僕は幸せなんだなと、遠のく意識の中でそう考える。
そうしているうちに、僕は眠りについた。
目を覚ますと、君は隣にいなかった。
僕は慌てて起き上がると、香ばしくていい香りが鼻のあたりに漂ってきた。
僕は慌てて布団を抜け出し、リビングへと駆け込んだ。
そこにはいつもの君の姿があった。
「ふふ、どうしたの?もう少ししたら起こそうと思ってたんだけど」
僕は目をまんまるにして君を呆然と見つめてしまった。
そんな僕を見て、君はキッチンでにっこりと笑った。
「ほら、歯を磨いておいで、朝ごはんはこっちで準備しておくから」
君はフライパンのほうに目を移す、僕ははっとして慌てて洗面台に向かった。
鏡を見る、ぼさぼさだ。
自分の姿を見て、なんとなく昨日の出来事が夢で、たった今現実に戻ってきたかのような気分になった。
僕は歯を磨き始める、ぼーっと自分の顔を見ながら磨く。
少しずつ目が覚めていき、昨日の出来事はやっぱり夢なんかじゃなく、現実のことなんだと思い直し始めた。
きっとご飯を食べた後、君のための「準備」をすることになるんだろうと思った。
それを嫌だとは思わない、だけど不安なんだ、寂しいんだ。
昨日の話を反芻して、どんどん暗い気持ちになってくる、目元が緩むような感じがした。
なぜなんだろう、なぜ、君なんだろう。
歯磨きをする手が止まる、僕にもっと何かできることはあるんじゃないんだろうか。
実はなんとかすれば花になるまでの時間を延ばせたりとか、何か治療方法があるのではないかとか。
きっときっと、続け様に頭の中を『きっと』が巡り回る。
そしてどんどん深い沼へと沈みそうになる、意識が現実から離れていく。
「おーい、そろそろできるから準備手伝って!」
ぱちんと音が鳴るような感覚、君の声が遠くから聞こえて現実に帰ってきた。
僕は泡だらけの口で、声にならない声をあげて返事をした、遠くから小さな笑い声が聞こえたような気がした。
慌てて口をゆすいで顔を洗う、ふきあげた顔はなんだかいつも通りだった。
今はとにかく、君の元へ行きたい。
そう思うとなんとなく、心が軽くなったような気がした。
僕はリビングへと戻った。
君は2人分の皿に朝食を盛り付けていた、ふと君がこちらを見る、なぜか吹き出して笑った。
「頭、ボサボサのままだよ」
ああ、忘れていた。
食事を終え、2人で食器を片付ける。
僕は食器をまとめて、君が洗う。
鳥が鳴き、風がそよぎ、かちゃかちゃと食器を奏でる、暖かな空間の中で僕たちはいつも通り命を営む。
ふとよぎる現実から目を背けながら。
一通り片付けを終えた僕たちは、リビングのソファへと座った。
静かな空間、君はいつも通りテレビを眺めてはスマホに目移りをしている。
そんな君を見るのが、僕はなんとなく好きだった。
何気ない日常を君と共に過ごせること、それだけ、むしろそれが僕にとっての最高の幸せだったんだ。
こうやってぼーっと何かを考えていると、いつも悪いことが頭をよぎる。
君は、いつも通りの君は、本当にいつも通りの君なのか。君が今何を考えているかわからない。
君は今不安なのか、それとも楽観視しているのか、いや、後者はありえない、不安でいっぱいのはずだ。
だけどなぜこうもいつも通りなのか、僕はもどかしくてたまらない。
君の声が聞きたくてたまらないんだ。
「なあ」
急に声をかけられて、体が跳ねてしまった。
それを見て君は笑った。
「この後、花屋に行こうよ」
君はスマートフォンを片手に、ワクワクしたような顔で問いかけてきた。何かを見つけたのだろうか。
「花屋...昨日言ってた植木鉢とかを買いに行くの?」
「そう!ちょっと遠いけど観葉植物関連のものを多く取り扱っている店があるんだって」
君は目をキラキラさせながら、僕に身を乗り出して顔を近づける。
「じゃあ決まりだね」
君は僕の上から離れて寝室の方へと向かった。
着替えをしに行っているようだった。
僕も服はそこにあるので、後を追って寝室に向かった。
玄関のドアを開けると、涼しげな風がドアをすり抜けていった。外は暖かく、空模様も美しく、煌びやかに太陽が灯りを灯している。
君はすっと、僕の後ろを通ったかと思うと、すぐに車の運転席へと乗り込んだ。
僕は慌てて助手席へと回り込む。
君はカーナビを操作して、目的地を設定している。
「よーし、じゃあ行こうか」
一通り設定を終えた君は、オーディオからいつものお気に入りのプレイリストが流れ出す。
行き先はここから20分位の場所にあるそうだ。
車は走り出す、車内は音楽が流れるだけで僕たちにとっては静寂だった。
暖かな車内、涼しい風、うっかりうとうとしていたところに君は大声をあげた。
「おっ、見て見て、桜が満開だよ」
目を擦ってフロントガラスの脇を見る、そこには見事なまでの満開の桜が辺りを彩っていた。
「いいなあきれいで、俺もあんな感じに咲ければなあ」
僕は咲かせてみせるよと言いたかったが、心の底に残る希望がそれにしがみついてしまい、何も言えなかった。
君もそれっきりで、目的地までそのままだった。
お店は住宅街の一角にあった。
店先に並んだ花は美しく、色とりどりで元気に咲き誇っている。
まるで一枚の絵を見ているような感覚だ。
昔、こんな風景を歌った曲があったっけ。
僕たちは車を止めて、その店へ顔を出した。
「こんにちはー」
君は明るく店内に向かって言った、すると奥から白髪の女性が現れた、どうやらこの店の店主のようだ。
「あら、いらっしゃい」
店主の女性はこちらを見るなり柔らかな笑みを浮かべた。
「こちらで植木鉢を多数扱っていると聞いて」
「あら、植え替えでもするの?どれくらいの大きさのものかしら」
思わず君の顔を見る、君はえーっとと呟きながら右目の眉あたりを掻いて軽くはにかむ。
「そうですね、大体僕くらいの大きさくらいの...植物です」
少し言葉を詰まらせながら言った、店主はまた笑みを浮かべた。
「へえ、そうなると大きめの鉢が必要になりそうね、こっちに色々あるから、ちょっと見てみましょうか」
店主は手を行く先に向けて、僕たちを案内してくれた。
そこには様々な形、色とりどりの植木鉢が並べてあった、どれも個性的で、じっくり吟味できそうだ。
「いろいろあるでしょう、ゆっくり見ていっていいからね」
店主はそう言って、店の奥のカウンターの椅子に腰掛けた、小声くらいならちょうど聞こえないほどの距離だ。
「さて、どうしたもんかな」
君は小さく呟いた、その表情はワクワクしているようにも見えて、どことなく真剣な様子が感じられる。
僕も君の隣に並んで、植木鉢を眺める。
君に似合う植木鉢ってなんなんだろう、色とりどりで綺麗な植木鉢、個性的な見た目の植木鉢、君の性格や普段の装いなんかを考慮しながら、これは違うこれも違うと、一つ一つじっくり吟味する。
ある植木鉢に視線を取られる、それは石から削り出したかのような見た目で、白を基調としていて、すごく素朴で落ち着いた印象だった。
ふと、君の顔を見ると、君もこの植木鉢を見ていた。
「それ、気になるね、近くで見てみようか」
君はゆっくりと瞬きをして頷いた。
僕はその植木鉢に近づいた。
おっことして割れちゃったりしないかななんて考えながらも、恐る恐る手に取ってみる。
それは見た目通りずっしりと重く、そしてひんやりしていた。
君もこの植木鉢に手を触れている、中を覗き込んでみたり、いろんなところをベタベタと触ってみたり。
「それ、なんかいいね」
君は植木鉢に手を触れながらこちらを見て言った。
視線を合わせ、なんとなくお互いの気持ちが通い合っていることを感じた。
「僕もそう思う」
何がいいとははっきりとはわからない、ただこの植木鉢に、君という人を、花を納めるということに違和感を感じなかったんだ。
「これにしよう」
君はそう言うと、店主さんに大きな声ですみませーんと呼びかけた。
店主さんはハイハイと腰を上げて、こちらに来てくれた。
「これにしようと思います」
君は僕が持っている植木鉢を指して言った。
「ずいぶんとしっかりしたものを選んだんだね、すごくいいと思うわ」
店主さんはそう言うと、植木鉢を一旦預かってカウンターまで向かった。
そこで綺麗に包装をしてくれた、万が一割れないようにしっかりと丁寧に。
支払いを済ませ、君はその植木鉢を受け取る。
少しの間君は、その植木鉢を見つめる、その表情は何かを思い、感じているような、柔和でありながらも真剣な表情だった。
僕たちは、店主さんに礼を言って店を後にしようとすると、店主さんが声をかけてきた。
「きっと、とても大事なものを育てようとしているのね、大切にしてあげてね」
そう言って、僕たちを店先まで送り届けてくれた。
僕たちは店先で店主さんに頭を下げて、店を後にした。
車の中、君の横で僕は布袋に包まれた植木鉢を抱えていた。
先ほどの店主さんの言葉を心の中で反芻する。
大事なもの、そう、大事な君を育て上げるための大事な植木鉢だ。
車内は沈黙、いつものプレイリストはかかっていなかった。
ただ、エンジンの駆動音、車がすれ違い風を切る音、そんな音に耳を傾けながら、僕は物思いにふけながら帰路を辿っていった。
一つの区切りを終えたかのような気分だった。
夜風にカーテンが揺れる、リビングにそよ風が吹き込む。
居間の机にポツンと置かれた植木鉢、白く落ち着いた見た目は、そのままでも美しいと感じるほどに存在感があった。
だけど、そこに圧を感じるようなものではなく、落ち着いて僕を見守ってくれているような、そんな不思議な感覚を覚えた。
「ご飯が炊けたから混ぜといてくれる?」
君の声で僕は我に返った、今日は君が晩御飯の当番だった。
僕は若干植木鉢に目を見据えながら炊飯器の方へ向かう、君と背中合わせだ。
突っ張った肩が背中に当たる、狭いキッチンでやや不便なのだけど、この時はなんだかこれでよかったんだと思った。
僕はご飯を混ぜながらわざとらしく君の背中を肘でこついてみる。
何度かやっていると流石に気付いたようだ。
「やめろよ、今味噌汁よそってんの」
君は笑いながら僕の背中を仕返しのようにこついてきた。
2人はくすくすと笑いながら、食事の準備を進める。
食事は全て食卓に並べられた。
暖かく湯気立つそれらを前に僕らは向かい合って座った。
「いただきます」
手を合わせて、僕らは味噌汁から啜り始める、そういえば、こんな些細なことでも似たもの同士だったんだな。
おいしいね、と僕が君に投げかけた言葉、それにありがとうと返す、それっきり静かな食卓だった。
なんだろう、いつもこんな感じだったっけ。
黙々と食べる君を見つめる、君はそれに気づかない。
何かを思いつめたような表情、いや、上部の空といった感じだろうか。
力の入っていない瞼は、君の内情が複雑に絡み合っていることを物語っていた。
いつのまにか君は自分の皿に盛られた食べ物を全て食べ切っていた。
「おっとごめん、なんか黙々と食べちゃってたね」
君はハッとした表情でかつ、薄らと笑みを浮かべて言った。
「いや、大丈夫だよ、なんならそのままにしといて!僕が洗っておくから」
「いや、それは...」
君は申し訳なさそうな顔をしているが、あとひと押しが欲しそうな顔をしている。
「いいからいいから、なんか疲れてるみたいだし、今日は貸しだよ」
「いいね、このお返しはまたするよ」
すると君は居間のソファーに深く座り込み、植木鉢をじっと見つめ始めた。
僕はあらためて自分の前に残った料理に口をつける、少し冷めてしまっていた。
水の流れる音、食器が重なる音、それだけが響く空間の中、僕は洗い物を続けており、君はぼーっとソファに寝転がっていた。
「そういえば、お風呂先に入ったら?今日は運転してくれたし、疲れてるでしょ?」
僕は洗い物に目を向けながら、君に言った。
「えっ、あっ、うん、そうだね...」
意表をつかれたように君は僕の方を向いて頷いた。
何かを考え詰めている様子だった、その表情はあまりにもわかりやすくて、僕自身もあまり洗い物が進んでいなかった。
「......」
深い沈黙が僕たちの空間を包む、ただ無闇にこびりついたフライパンの汚れなんかをスポンジで擦るけれども、その沈黙は破られることはない。
水の流れる音に耳を傾けて、沈黙から逃れようとするも、君自身がこの沈黙の意味を知る限りは、僕は逃れることはできない。
どちらかが歩み寄らねばならなかった、ただお互いにわかっているつもりだった、その内容も、この状況も。
その沈黙を静かに、か細く突き破ったのは君の声だった。
「言っておかなくちゃって」
「...」
再び沈黙がこの場を包みそうになるが、君はすぐさまそれに気づいて言葉を発した。
「見てほしいんだ」
君は唐突に、Tシャツを脱ぎ出す。
わけもわからない僕はどうしようもなく、慌てて水を止めて君の行動に注目した。
君はTシャツを放り捨てる、僕は目の前に現れたものに大きく動揺してしまった。
君の胸に、大きな緑色のあざがあったんだ。
「症状は、結構早く進んでいるみたいでさ」
君はそのあざを撫でる。
「親は、あざが出てくるまでは大丈夫だって言ってたけど、こうも早いなんてな」
君はソファに再び腰掛ける、深く深く。
「結局、死ぬのとおんなじだよ、突然やってきて、全てを奪っていく」
「俺は、俺として生きていきたかったのに...なんで、俺なんだよ...」
君は頭を机に打ちつけるくらい深く頭を抱えた。
その表情は伺い知ることはできなかったが、カーペットにぽつりぽつりと黒い影が落ちるのが見えた。
僕は手を拭って、君のもとへ歩み寄る。
君と同じ目線で、君の一番近くで、君に伝える。
「でも、僕はいる」
「僕は君ではない、だからこそ、一番近くにいる」
「だからせめて、その思いを僕にぶつけてほしい」
僕の頭を君の頭にくっつけて目を閉じ、君の漏らす声に耳を傾ける。
啜り泣く声はとめどなく、嗚咽を混じらせて、君は、君自身だけの感情に立ち向かっている。
ああ、やっぱりそうだよな。
君が一番、辛いに決まってるよな。
僕は君を失う悲しみにしか目を向けられていなかった。
本当に辛くて、悲しくて、苛立って、むしゃくしゃして。
それでも笑顔で僕を見つめてくれていたんだよな。
僕はただ、君のそばにいることしかできない。
そうではないな、君のそばにいたいんだ。
一番近くで、君の感情を知りたい。
君たちの言葉を逃したくない。
君を一つも見失いたくないんだ。
だから、自己中心的だけど、今の君のそばに居させてほしい。
君はコップに余った水を飲み干すと、そのままベッドへ向かった。
僕を見返すことなく。
取り残された僕は、ただ君の背中を見つめるしかなかった。
静かな空間、なぜか僕は冷静になってしまった。
これからどうすべきなのだろうか。
変わりゆく君はもっと我を失うだろう。
ただ、それを支える、それだけが僕にできることなのだろうか。
考えは思いのほか捻れることなく、結論に至った。
そう、今僕にできることは君に寄り添うことだけだったんだ。
翌朝から、君はいつも通りの君に戻った。
いつもと変わらない笑顔で、朝目覚めた僕におはようと声をかけてくれた。
朝日に照らされるこの空間、2人だけの神聖な空間、止まっていた時計の張りが動き始めたかのように、僕は君の手を取った。
毎日は目眩く流れてゆく、僕たちはそれぞれ仕事に行って、帰ってきたら2人だけの時間を過ごす。
変わらない日常で、いつも通りの日常。
くだらないことで笑い合ったり、2人でご飯を食べて美味しいねって言い合ったり、ただ2人で同じ空間で何をするわけでもなく、2人の存在を確かめ合ったり。
いつも通りの日常に戻っていた、2人の幸せを噛み締めていた。
だけど君は、その笑顔の裏で、着々と蝕むその病気を隠し続けていたんだ。
季節は、その色を儚げに変えるような頃になっていた。
「なあ」
君はベッドに寝転がり、天井を物憂げに眺めていた。
僕は君の手を握りながら同じように、虚空を眺めた。
「たぶん、今日だと思う」
君はいつもの活気なんて嘘のような声で言う。
「そっか」
僕は渦巻く心の中から、唯一の言葉を拾い上げて口にした。
ほとんどが手をすり抜けていったけど。
しーんと静かな夜、いつのまにか冬ももう直ぐと言う時期になっていた。
君は仕事をよく休むようになっていた。
今日はなんかダメだなんて言って、ベッドで横になって、ボーっとしている、そんなことが多くなっていた。
それから何日が経って、急に仕事を辞めたと言ったんだ。
それ以上は特に何も言わなかった、君も僕も。
理由なんて分かりきってたから。
ベッドから出て来ない日が多くなっていた。
なんとなく、顔もあまり見る機会が少なくなっていったような気もする。
そして、君は僕に肌を見せることもなくなっていった。
これも理由なんてあからさまなものだ。
たまに立ち上がって、ふらりと何かをする時、君のシャツの袖からちらりと緑色のあざが見えた。
僕は、何も言えなかった。
部屋の中も、肌寒いと思えるほどに時間が過ぎていた。
握りしめる君の手は、冷たいとも温かいとも言えなかった。
ただ君を強く感じている、それだけだった。
静まり返った空間は、耳が痛くなるなんて言うけど、そんなことはなかった。
君の隣にいることで、痛みなんてそんな小さなこと、気にもならなかった。
「なあ」
君がまたポツリと声をこぼす。
「楽しかった」
君の手が先ほどよりも強く、僕の手を握り込んでいた。
痛いくらい、だけどそれが君がここにいるという証明だった。
「うん、僕も楽しかった」
なんでだろう、僕たちは離れ離れになるわけではないのに。
お互いにそれは理解していたはずなのに。
溢れ出す言葉は、そんな心と矛盾していた。
「なあ」
君の声は本当に溢れるかのようだった。
「任せるからな」
「うん、ずっと一緒だ」
互いに手を強く握りしめる、決して僕たちは顔を見合わせることはない。
噛み合わないような会話、それは全て、互いに理解し合っているから故に必要のない言葉を捨て去っているからだ。
不思議と僕は安心感を感じていた。
君はここにいる、これからもずっと、僕が君の面倒を見る。
だから、寂しくなんかない。
何も不安はない。
だから、大丈夫なんだ。
夜は更ける、音もないこの空間で、2人はただお互いを感じ合って、時間を過ごしている。
もう、何も言うことなんてないよね。
いつの間にか、眠りについていた。
温かな日差しがカーテンからすり抜けて、僕の顔を眩しいくらいに照らす。
ゆっくりと体を起こす、時計は8時を差していた。
静かな空間、遠くで鳥の囀りが聞こえるくらいだった。
ふと、周りを見渡す。
足りない。
明らかに足りない、この空間、この世界に。
その時、手に違和感を感じた。
何かが握られていた、それを力強く、とても大事にしっかりと握っていた。
恐る恐る、それを目の前に近づける。
それは、小さくて、真っ白なかたまり。
正体はすぐにわかった。
胸の辺りに痛みが走る。
頭から変な、キーンと音が鳴り響く。
手汗が滲む。
この手に握られているのは、間違いなく。
「あ、ああ」
溢れ出した、喉から、心から。
顔が熱くなる、頭の中がぐしゃぐしゃになる。
周りを見渡す、僕が1人だけ。
慌ててベットから飛び出す、そのかたまりを抱えて。
リビング、キッチン、トイレ、お風呂、ベランダ、全部、全部探した。
クローゼットを開けたりなんかした。
電話もかけたが、枕元で聞き慣れた音が響くだけだった。
これだ。
これが、君なんだね。
真っ白なかたまり、これが君なんだよね。
膝の力が抜けて、床に崩れ落ちた。
そのかたまりを胸に抱えて、僕は床に転がった。
突如として溢れ出した感情、何故だ、覚悟はできていたはずなのに。
現実は、こうだ。
向き合ってやっとわかった、これが現実なんだ。
溢れ出す涙、鳴り響く嗚咽、痛みに堪えられずに吐き出される叫び。
君が、いなくなった。
君はこれなのに、君はここにいない。
違う、これが君なんだ、君はここにいる。
だけど、これは君なのか、君と言っていいのか。
繰り返される葛藤、終わりの見えない絶望。
正気を取り戻そうと脳は叫ぶが、心はまるで聞いちゃいない。
ただ強く、君を、君じゃないかもしれない君を、強く、強く抱きしめた。
温かな日差しが、少しずつこの部屋を去っていった。
また眠りについていた。
床に転がって、服は乱れ、頭なんかくしゃくしゃだ。
抱き抱えられていたのは、君だった。
僕は、立ち上がって、リビングへと向かった。
植木鉢、君と一緒に買った植木鉢は机の上に鎮座していた。
僕は君をそこに納めようと思った。
君との約束を守ろうと思ったんだ。
植木鉢に石を詰めて、そこに土を流し込んだ。
淡々とした作業だ。
どこで知った知識なんだろうか、そういえば君が言っていたんだったか。
半分くらい土を入れたら、君をそこにそっと置いた。
そこにまた土をかける。
少しずつ、君の姿が見えなくなっていく。
大丈夫、またひょっこり顔を出してくれるよね。
植木鉢に充分の土が詰まったら、少しだけ水を上げた。
少し遅いけど、ご飯だよ。
時計はいつのまにか昼前を示していた。
これだけでいいんだろうか。
本とかネットの情報によると、寒い時期は日当たりのいい時期に外で陽の光を浴びさせて、日が暮れたら家の中に帰してあげるとかなんとか書いてあったな。
とりあえず、今日は比較的暖かい晴れ渡った日なので、ベランダの日当たりのいい場所に置いてあげた。
そういえば、こういう日にベランダで他愛もない話をしてたっけ。
ねえ、暖かいかな、寒かったら言ってね、なんて思ったけど返事なんてあるはずもないんだったね。
暖かい日差しの中、涼しげな風が髪を揺らす。
なんとなくさっぱりとした気分だ。
君の花を咲かせる、そんな決意を心に刻んで、前へ進もうって思えるようになったからだ。
「ねえ」
君はだんまり、でも、返事なんかなくてもいいんだ。
君は確かにここにいる、それだけでいいんだ。
「いい天気だね」
日はあっという間に暮れてしまい、僕たちは部屋へと戻った。
すっかり小さくなってしまった君をテーブルの真ん中へと置いた、ゴトっと重々しい音が部屋中に響いて、部屋の静けさに気づいた。
いつもだったら気にかからないくらいの静けさ、互いにやることがあって、2人してダンマリと自分の時間を過ごしたりすることもあるが、今はそんな沈黙を破ることもできない。
独りだ、いや、独りじゃない。
心の中で渦巻く強迫観念を押し戻す、しかしそれはどんどん大きくなり溢れそうになる。
それを無理やり押し込めては見ないようにしようとする、だけどそれは明らかに体を押し返し、その存在を強く主張し始める。
心が胸の中で跳ね返る、鳥肌が立つ、額と手に汗がにじむ。
止まらない震え、詰まりそうな息、独り、独り、声がする、背後で大きな気配が僕を包み込もうとするのを感じる。
僕は部屋を飛び出してトイレに入る、そのまま勢いのままに便器に激しく嘔吐した。
涙が、鼻水がとめどなく溢れる、何度も何度も胃の中のすべてを吐き散らかす。
「独りじゃない、独りじゃない」
うわごとを叫びながら、また嘔吐する。
受け入れられない現実を胃が、体が拒否する。
君はもういないんだ、これが現実なんだ、受け入れなくてはならない。
いくら姿形が変わっても、僕の知る君はもういないんだ。
死じゃない、だけどこんなおかしな別れがあってたまるものか、いや別れてなんかいない、だけど君はもういない。
トイレのドアに倒れこむとそのままドアは開いて、雪崩れるように廊下へと転げ出た。
激しく体をぶつける、痛み、この痛みすら自信を誤魔化すには心地よいくらいだった。
ひたすらに泣きじゃくる、みじめな姿で廊下に転がったまま、ただ溢れるものをすべて吐きだしていく。
行き場のない悲しみ、怒り、すべてを混ぜ込んで体を搔きむしる。
痛み、この感情すべてを誤魔化すために、心地よい。
すべて忘れられる、すべて、非情な現実をすべて。
その時、一瞬だった、なぜか冷静になった、本当になぜかはわからない。
視界が一瞬はっきりとした、居間の光に照らされる植木鉢が目に映った。
「あ、ああ」
僕は床を手でつかみ、足で蹴り飛ばして植木鉢のもとへたどり着く、そしてこの手で包み込んだ、しっかりと、力強く。
そうだ、確かに君はいないんだ。
だけど、君は僕に託してくれたんだ、この小さな命を。
忘れてはいけない、この現実を、君を。
だから立ち上がらなくてはならない、この現実を踏みしめて、しっかりと。
この小さな命、絶対に育て切って見せる。
僕の中で決意が力強く実り始めていくのを感じる、さっきまでの恐怖などすべてを押し返して。
だけど、今だけは、このままでいさせてほしい。
これが本当の君との最後の別れ、だから。
それから、君に何ができるかを日々模索しながら毎日を過ごした、暖かい日には外で共に過ごし、寒い日は共に窓の外を眺めた。
いつの間にか桜は散っていた、花を失い儚くもありながら、次の春を待ち逞しく佇むその姿を見て、僕もこんな風に強くあろうと思った。
もうすぐもっと暖かくなる、そうすればきっと君はそこから顔を出すのだろうか、楽しみで仕方がない、僕は君の隣で空を眺めながら思う。
日々はゆっくりと流れていった。
ある日だ、春を終えるくらいだろうか、日差しが顔を照らして僕に朝を伝えていた。
部屋の中の空気は暖かく、肌寒い季節はすっかりと終わりを迎えていた。
日差しのもとをたどる、居間のベランダから一筋差し込む日差しのもとに君がいる。
違和感を感じた、僕は瞼をこすりながら起き上がり、君のもとへと歩む。
茶色い土の上にポツンと小さな緑色が見えた、僕はその正体を慌てて確認する。
それは間違いなく芽だった。
君は芽吹いた、君の命は確かにここに生まれたんだ、僕は植木鉢を抱え込み立ち上がる。
強く抱きしめる、君がここにいる、確かにここにいるんだ。
本当は不安だったんだ、いつまでも土の中に隠れている君は『もしかしたら』なんて考えて怖かったんだ。
でも、答えが今わかった、君はその姿を見せてくれた、君の力で、力強く。
カーテンを思い切り開けると目の前が真っ白になった、思わず目を瞑った。
少しづつ目を開いていく、暖かな日差し、それをもたらす太陽、青々とした空に草木、命が輝いている。
そんな中に僕たちもいるんだ、僕たちも生きている、そしてこれからも確かに生きていける。
窓を開けて外に出てみる、命の営みが空気や音として伝わってくる。
希望に満ち溢れた、そして改めて君とともに生きていくことを決心した。
「絶対に君を咲かせてみせるよ」
そうささやきながら君を見つめる。
小さな命が確かにここにある、僕たちは改めて二人で生きていくんだと確信した。
季節が暖かくなるにつれ、君はすくすくと育っていった。
その芽は葉となって開き、その中につぼみがあることに気付いた。
きっとこれがいつしか花となり、君の本来の姿になるんだと思うと毎日が幸せでたまらなかった。
日が進むにつれて葉は植木鉢を飛び出すほどに大きく開き、つぼみもどんどん背を高くしていく、まるで子供の成長を見守っているような気分だ。
これからも元気に健やかに、君が成長してくれることを心から願う。
もし君が本当に子供だったらどんなふうに育ってほしいとか願うのだろうか、優しい人だとか偉い人だとか。
でも、君にはそんな願いをする必要はない、というよりもできないんだ。
でも、ただ僕のそばでいつまでも元気に生きてほしい、いつまでも僕とともにいてほしいんだ、ただ、それだけなんだ。
『君』の願いももちろん覚えている、それは僕の願いにも繋がるから。
僕は陽だまりの中、君に触れる。
優しい植物の手触り、だけどしっかりとしていて命の力強さを感じる。
大丈夫だ、君は僕が育て切って見せる。
心に一層の力をこめて、僕は君とともに生きていくことを再び決心した。
季節は移り変わり、梅雨になった。
ほとんどの日に雨が降りしきり、じめじめとした空気が漂う。
雨は嫌いではないが、君にとってはどうだろうか。
『君』ならばゆったりとソファにでも寝転がって、雨をやり過ごしていただろうに。
日差しが少なく、多湿な空気は君にとってはあまり気持ちのいいものではないだろう。
僕は心配しながらも、頑張って背を伸ばす君を見守っていた。
そんな中の、とある日だった。
君がしおれているのだ。
本当に突然だった、暗い室内で君がうなだれているのを目撃した僕はすかさず近寄った。
伸びたつぼみはいくら支えても自立することはなかった。
僕はじわりと汗をかく、体がむずがゆく熱くなっていく。
どうしよう、何が起きているんだろう。
スマートフォンを取り出して、調べてみる。
「病気」「枯れる」「手遅れ」「処分」
いろんな言葉に僕はどんどん溺れていく。
僕はやってしまったのか、君を、育てることができなかったのか。
手汗がにじむ。
そして、あの時の、『君』を失ったあの時の記憶が蘇る。
「ああ、ああ」
ダメだ、しっかりしろ。
僕は決心したじゃないか、君と生きていくと。
だから、こんなところでまたぐしゃぐしゃになってはダメだ。
僕は模索する、何か、どうにかする方法があるのではないか。
ふと、君の植木鉢に目が留まった、真っ白な石製の植木鉢、そうだ、あのお店、あの店主さん。
僕はすぐに電話をかけた、あのお店の店主さんに。
しかし繋がらない、どうしたんだろうか、何かあったんだろうか。
なら、とにかくお店に向かおう、どうにか少しでもこの状況を打開するために。
僕はお店までの時間を計る、一時間もかからないくらいか。
僕は君を抱えて外に飛び出す、そして君を自転車のカゴに積んだ。
隣には君が乗っていた車が置かれている、僕は車を運転できない、だからこれしか方法はないんだ。
僕はゆっくりと君を支えながら走り出す、はやる気持ちを抑えつつ確実に君を連れていく。
ガタガタとカゴが揺れるたびに冷や汗をかく、だけど進まなくては。
もうすぐだ、きっとあの店員さんなら、何か知っているはず。
ふと道のわきを見ると、以前お店に向かった時に見た桜の木があった。
思い出が蘇る、だけど当時と違って桜は散っていた。
もうあの日々は戻らない、だけど僕は進まなくてはならないんだ。
僕は遠くの街並みを見据えて走る、君の様子を見ながら、自転車をこぎ続けた。
お店についた、するとそこにはあの店主さんがいた。
シャッターを開けている、そうか今からお店を開けるのか、だから繋がらなかったのか。
そういえば焦っていて時間を見ていなかった、ちょうどここまで来る間に開店時間になっていたようだった。
店主さんはこちらに気付いたようだった、驚いたような表情をしている。
僕はすかさず声をかけた。
「すみません、お聞きしたいことがあるんです」
僕は自転車を店先の近くにとめて、君を抱え上げた。
「この・・・この子を診てもらえませんか?」
「これはただ水のあげすぎだね、季節も相まってこうなっちゃったんだろうね」
店主さんは優しく君を診てくれた。
「大丈夫、少し根をきれいにしてあげて新しい土にしたらまた元気になると思うわ」
「少し待っててね」
店主さんは店の奥へと入っていった、僕は茫然とそれを眺めていた。
すると、店主さんが植物用の道具と思われるものと大きな袋を持ってきていた。
そのまま店主さんは君を堀り出して、根元を診る。
「やっぱり少し腐ってるね、大丈夫、ここをきれいにしてあげたら大丈夫だから」
店主さんはテキパキと根を切っていく、そして植木鉢に新しい土を入れてそこに君を戻してくれた。
まるで手術を見ているような気分だった、手に汗を握りながらも、どこかなんとかなるんだと心に余裕が少しづつ生まれていく感覚があった。
「よし、これで大丈夫、この時期はすこし水を少なめにしてあげて」
僕は肩から力が抜けて安堵した、よかった、本当に良かった、君は助かったんだ。
「もし、また何かあったらこっちに連絡して」
店主さんは私物と思われるスマートフォンの電話番号を見せてくれた。
「えっ、いいんですか?あと、お代・・・」
僕は尋ねる。
「いいのよ、こんなにこの子を大切にしてくれているような人を放っておけないし」
僕は頭を下げてお礼を言いつつ、その電話番号を自分のスマートフォンに登録した、どうしてここまでしてくれるんだろう。
「あの時のこと、覚えていたの」
あの時のこと、僕たちがここに植木鉢を買いに来た時のことか。
「あなたたちの幸せそうな雰囲気が心に残っていてね、だからあなたがここに来たときにすぐ思い出せたの」
「そういえば、もう一人の彼は?」
僕はその言葉を聞いて反射的に顔をうつむけてしまった、店主さんは何かを察したような顔をした。
「・・・うん、その子のこと、大切にしてあげてね」
店主さんは優しく声をかけてくれた、僕は思わず泣きだしそうになった、だけどさすがに人前では我慢できた。
「ありがとうございます、本当に」
僕は頭を深く下げた、店主さんは優しく僕の背中をたたいた。
「頑張って、あなたならできるわ」
僕は涙を我慢するので精いっぱいだった、だけど、溢れた涙を機にしゃがみこんでしまった、すすり泣く声が店内に響く、店主さんはそばでずっと背中を撫でてくれた。
優しい手つきに少し『君』を重ねた。
それから、家に着いて君をまた窓辺に置いた、まだ少ししおれている、でも大丈夫なはずだ。
君は必ず僕が育て切って見せる、心に刻んだ言葉を反芻する。
暗い部屋の中、君を見つめて僕はそう思ったのだった。
梅雨が終わり夏が来た、その時には君はすっかり元気を取り戻していた。
暑くなってきたら乾ききらない程度に水をあげて、と店主さんに話を聞いていたので、こまめに君の様子を眺めた。
うん、大丈夫だ、君はしっかり育っている。
毎日毎日、君とともにいる、君のそばにいる。
だから、大丈夫。
僕は開いたベランダの窓辺で君と並んで座る、セミが鳴いている声がけたたましい、だけどそれがなぜか心地よい。
『君』といるときもこうやって外を眺めたっけ、暑いのにわざわざ二人してこうやって。
どうでもいい話をしながら、ただ時間をつぶしたっけ。
懐かしいな。
もう戻らない日々だけど、今はこうしていられる。
少し変わっただけで、ほとんど変わらない。
君と共にいる、ということが変わらないんだ。
僕は幸せだ。
いつまでも君といられることに、この上ない幸福を感じるんだ。
ありがとう、僕とずっと一緒にいてくれて。
ふと、君に目線を移す。
そこには大きな花があった。
真っ白で大きな、きれいな花が。
僕は驚いてどうしようもなかった。
ただ、君を見つめていることしかできなかった。
君が咲いた。
僕は震える足を抑えながら立ち上がる、君が咲いたんだ。
僕はぼろぼろと涙を落とす、声が漏れる、だけどしっかりと君を見据える。
すごくきれいだ、純白のその花はまるで『君』の心を映すかのようだ。
五つの花びらが大きく開き、僕を見ているように見えた。
僕はそっと両手で花に手を添えた、『君』の顔に手を添えるように。
額を近づける、優しい香りが鼻をくすぐる。
僕は成し遂げたんだ、君を育て切った。
君の願いをかなえることができたんだ。
僕は涙を流しながら微笑んだ、うれしくてたまらなくて。
だけど、それで終わりじゃない、これからもずっと君とともにいるんだ。
君が咲き続ける限り、いや、どんなときでも君といよう。
だから、これからも頑張るから、君と精一杯生きていくから。
ただ、ひとつ言わせてほしい、心から君に伝えたいんだ。
『君』と「君」、これまでのすべてに心から伝えよう。
「ありがとう」
いつまでも、君と一緒。
