無知な傲慢は我なり
ある授業研究会での「傲慢」な発言
私は、「無知による傲慢な人」が嫌いでした。
例えば、「やまなし」を教材にしたある研究授業の事前研究会の席で、
「『クラムボンとは何か』という発問が計画されているが、こんな答えの出ない問題を子供に考えさせても意味はない。やめるべきだ。」
と、一刀両断に言い放った参加者がいました。
授業案を読むと、授業者には明確な意図がある発問でした。
確かに、「クラムボン」に「正答」はありません。
しかし、子供たちが「想像」によって読むことができる根拠は書かれています。
授業者は、その根拠を子供たちに見つけさせ、「根拠をもって理由づけて読み合う」学習経験を踏ませることを目的にしていました。
学級の実態やその後の学習展開から考えて、なかなか適切な方法に見えました。
確かに、かつての国語教育では、「答えの出ない問題」を考えさせることは否定されていました。
しかし、読者論の視点から考えれば、この発問は、「現実に存在しない言葉を想像して読む読書の楽しさ」を感じ取らせることができるものです。
作家論の視点からは、「宮沢賢治がなぜ造語を多用するのか」を考えさせる契機になる発問であったと言えます。
件の発言者はどんな知識・授業実践から「意味はない」と発言したのでしょうか。
どこまで考えた上の発言だったのでしょうか。
授業研究の場は「自由」な場です。
しかし、そこでの発言は、合理的な「根拠」と「理由」が求められて然るべきだと考えます。
「無知による傲慢さ」は、授業研究の場でも弊害にしかなりません。
自分もまたその一人
しかし、例えばこのように、「無知による傲慢な人」を嫌っていた私は、自分と向き合わざるを得なくなります。
市川沙央氏による『ハンチバック』が芥川賞を受賞した報道を目にしました。
そして、受賞作に、次のような意味の叙述があることを知りました。
(大変失礼ですが、報道で読み取った内容の要約であり、本文からの引用ではありません。申し訳ありません。)
紙の本は、実は、五つの健常性を要求している。
五つとは、目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が維持できること、書店に自由に買いに行けることである。
その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを私は憎んでいた。
頭を一撃で叩き割られたような気持ちになりました。
私もまた、その「本好き」の一人でした。
紙の本がある種の健常性を求めていることを、感じてはいました。
しかし、当たり前のように紙の本を読むことのできる自分が、それができない人と比べて特権性を有しているとは考えたことがありませんでした。
何という無知。
鈍感。
紙の本が読めることを当然のこととして受け止めていたのです。
そして、その自分は、教育の場でも同様でなかったかと考えざるを得ません。
子供のこと、教材のこと、学ぶということ、教えるということ、保護者のことなどに対して、自分は「ある程度は分かっているつもり」でした。
実は、「無知による傲慢」な教師そのものではなかったのでしょうか。
例えば自分は子供をどう捉えていたのでしょうか。
繰り返しその思いが突き上がってきます。
一から自分を見つめ直さなくてはならないと感じています。
