[スピリチュR](15)「自我の私」が今までの逆をやると「全体的な私」に戻る
先日、夜中に目が覚めてトイレへ行った時、ボーッとする中、私が空間とつながっていることに気づきました。
いや、私が空間とつながっているというより、空間が私なのだという感覚でした。そして、「今」とはこの全体的な感覚のことだと分かりました。
その後、半分眠りながら、思索を進めました。
「私」とは部分的感覚
「空間が私」だとしたら、通常の私、「自我の私」は何なのでしょう?
空間の私というのは、全体的な意識の感覚です。「本質的な私」のことであり、そこは常に「今」でしかありません。
対して、「自我の私」は部分的な感覚です。
部分的な感覚は、特定の部分に集中した結果、生じるものです。
特定の部分とは、思考、イメージ、感情、体感、外界の刺激であり、それらへ集中することで、部分的な感覚が現れます。
例えば、昨日起きた嫌な事を思い出すと、全体的な空間の中で、そのイメージの部分が滞り、部分的な感覚となるのです。
私と時間
空間の私、全体的な私は、「今」に在るのですが、自我の私は、部分的で「時間」の感覚を伴っています。
その「時間」の感覚は、部分的集中によって生まれたものです。
イメージに集中すると、イメージに注意が向きます。この時、意識の「ベクトル」がパソコンのカーソルのように、イメージへ接近しています。
すると、そのベクトルが「ブレーキ」として働き、イメージの流れを遅くさせるのです。
このベクトルによるブレーキがなければ、イメージは現れてすぐ消えて行きます。しかし、ブレーキがかかると、イメージの流れは滞り、そこに「滞留時間」が生じるのです。
全体的な私は「今」にいるのですが、部分的な私は「時間」の感覚を有することとなります。全体的な私からすれば、「時間」と「部分」は、ズレであり、違和感でしかありません。
それは、本来は「全体的」なのに「部分」を感じていること、本来は「今しかない」のに「時間を感じている」こと──に対する違和感です。

「私」が作られるメカニズム
①本質的な私は「全体的な意識=今」
②思考やイメージなどへの集中が起こり、集中のベクトルが接近し、その部分にブレーキをかける
③ブレーキのかかった部分は、流れが遅くなり、「全体的=今」から置いて行かれる
④「全体的=今」から置いて行かれた部分が「私」という自我の感覚になる
自己観察では救われない
私は、長いこと、内向きのベクトルを使って、自己観察を続けていました。しかし、この観察すること自体がブレーキになり、「今」からズレさせていたと思われます。
自分が書いた過去の記事を否定するようですが、自己観察で救われることはないでしょう。
「救われる」と書くと大げさですが、要は、部分的、時間的ズレを解消し、「全体」「今」へ戻ることを指しています。
次の今
では、どうすれば、「全体」「今」へ戻れるのでしょう?
自我の「私」は、今、起きたことや、過去に目が向くものです。人に何か言われれば、その意味に思いを巡らし、外で物音がすれば、何の音か確認しようとする。また、何かを思い出せば、それについて妄想する‥‥。
このように、「私」には過去を振り返る習性があります。
この過去を振り返ることをやめ、一歩先の「次の今」に目を向けるように、ベクトルの向きを変えるのです。
「次の今」とは、目の前の現実のことです。現実は「今」以外にないのです。
「次の今」は真新しい未知のものであり、認識も確認もできません。「次の今」は、認識や確認をする以前のものだからです。認識や確認は、過去を振り返り、理解把握しようとする行為であり、ベクトルが逆なのです。
置いて行かれないようにする
「次の今」に目を向けるとは、過去を振り返るのをやめ、ほんのわずか未来方向に向かって、「次の今」「次の今」「次の今」‥‥‥と意識し続けるということです。
今までは、見たもの、聞いたもの、考えたこと、思い出したことを認識し、分かろうとしていました。この時、ベクトルは過去方向を向いています。
それを、瞬間瞬間、「次の今」──つまり、目の前の現実に意識を向けて行くのです。そして、その現実を認識する前に、また、「次の今」を意識する、さらに、また、「次の今」を意識する‥‥‥新しい今を更新し続け、「全体的な意識=今=現実」に置いて行かれないようにするのです。
つまり、心の向き、ベクトルを、今までとは逆にすること、今まで自我が行ってきたことの逆をやるということです。
断言はできませんが、うまく行けば、部分的、時間的ズレを解消し、「全体」「今」へ戻れると思います。
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