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【あたしンち】「おかずの法則」から考える、家族の理想郷

私は『あたしンち』が大好きだ。単行本は『あたしンちSUPER』含め全巻持っていて、古いものは小学生の頃から20年以上読み続けている。毎週日曜、読売新聞の朝刊連載分はできるだけ取っておいた。その回が単行本になったら「このセリフがちょっと変わってる!」「色の感じが新聞のときと違う」などと観察して楽しんでいた(そんな私に黙って、両親が新聞を読売新聞から他社に変えたときは憤慨した)。

役に立つか分からない自己紹介:
・『あたしンち』の存在を強く意識したのはアニメ初回放送(2002年4月)から。
・その後、コミックスを揃えるようになる。初めてコミックスを買った当時の最新巻は8巻だった。
・最初に買ったのはなぜか5巻。そこから1巻→2巻→3巻……と順に集めていくように。
・特に好きな巻は2巻、5巻、9巻、10巻。
・好きなキャラクターはユズヒコ、スドーちゃん、のばら。
・みかんと岩木くん、藤野とスドーちゃんの恋路を熱烈に応援している。
・原作で一番好きなエピソードは、みかんが夏前にズボラな衣替えをし、理想の服を探すため買い物へ行く回(9巻No.22)
・二番目に好きなエピソードは、みかんの帰り道の回(5巻No.11)
・けらえいこ先生のエッセイ「セキララ」シリーズ4部作と、『おきらくミセスの婦人くらぶ〜』(ハヤセクニコさんとの共著)も所持。
・みかんと岩木くん、藤野とスドーちゃんの恋路を熱烈に応援している。

大事なことなので二度言いました

今回は『あたしンち』大好きな私が、その中でも特に印象的なエピソード「おかずの法則」をもとに、『あたしンち』から見える理想の家族像を考えていく。


人気エピソード「おかずの法則」を紐解く

今回考察していく「おかずの法則」は、アニメの中でも人気の高いエピソードだ。YouTubeチャンネルの視聴回数は(エピソードまとめ回を除くと)全体の7位くらいにランクインしている。
注目すべきは、動画に付いたコメントの多さである。一話のみのエピソードには珍しく、1,100件以上のコメントが付いているのだ(同じくアニメ第1期人気エピソードの「タチバナ家、朝昼晩ごはん」は、コメントは480件ほど)。
個人的な体感だが、温度感高めのコメントも多い気がする(「専業主婦でこれはない」とか「自分の母親は良かった」とか「今じゃネグレクトの域」とか)。
それだけこの「おかずの法則」には、心動かされる視聴者が多いのだろう。

「おかずの法則」どんな話?

エピソードはこちらから⬇
<アニメ>
https://youtu.be/Wvd3ABHnk5U?si=RV9HOwXGCn2oN8S3

<マンガ>
原作:8巻No.23

<アニメのあらすじ>
晩ごはんで出てくる質素なおかずに対し、以前まで文句を言っていたユズヒコ。しかし彼は「変えようのないおかずの法則」を発見したと言い、それをみかんに解説する。しかし、あるとき法則性に沿っていないおかずが登場し、ユズとみかんは困惑する。そんな二人に、父は「もう一つのおかずの法則」を語るのだった。

※この記事にはあたしンち「おかずの法則」ネタバレがあります!


ユズヒコ≒父:「観測者」である息子と父

この「おかずの法則」アニメ版で、ストーリーのほぼオチになる父のセリフがこれだ。

「晩飯は雨にも左右される」

このセリフに関して、コメント欄に「『あいつは雨に弱いからな』みたいな言い方じゃないのが良い」というものがあった。なるほどそれは言い得て妙だと思ったので、この父のセリフの妙を考えてみる。

アニメでは「お父さんの給料日の2日前なんだよ、今日は」というユズのセリフにも、特に表情を変えることなく食事を続ける父が描かれている。

普通、子どもが自身の給料日を把握し、「お金がないから給料が出るまでは質素なおかずなんだ」と自分の前で言ったらどうだろうか。マトモな親だったら、そんなことを子どもに考えさせて申し訳ないと思うだろう。嬉々としてビールを持ってくる伴侶に対して「ビールはいいから、もっとマシなおかずにしろ」くらい言うかもしれない。

嬉々としてビールを持ってくる母。(アニメ第107話)
なぜちくわ1本でこの顔ができるのか…。

しかし、自身のビールが出てきさえすればおかずはどうでもいい(ようにも見える)アニメでの父は、なかなか無慈悲とも思える。

父というキャラクターは、母やみかんからは「(母に)甘えてる」と評されている。『あたしンち』の父が、母以上に厄介な存在かもしれないと思うのはこういう一面からだ。母は「(父が)ぐちゃぐちゃ小言いわないのは美学」と捉えているようだが、基本的に父が無口でコミュニケーションが取りづらい人物として描かれているのは間違いないだろう。

しかし、一つ言っておきたいのは「父がビールをおかわりし、母が上機嫌にビールを持ってくるシーン」自体は、完全アニメオリジナルだということだ。

この話の原作にある、おかずがなめたけオンリーの日のコマに注目してほしい。

「!」(8巻No.23)

一番左端の「!」は、紛れもなく父のセリフだ(音としての言葉はないが)。原作にはビールを要求する父はいない。また、質素なおかずに開き直る母もほぼ描かれていない。

少なくとも原作の段階では、父もこの質素なおかずの「被害者」なのである。ユズやみかんと同じように。冷静に、口出しをせず状況を見守る。父もこの「おかずの法則性」を、ユズと同じように「外的要因による(自分ではどうしようもない)事象」と捉えている面が大きいのかもしれない。

アニメの父の「晩飯は雨にも左右される」は、父とユズが同じ「観測者」の立場であったことが明らかになるセリフだ。ある意味で趣深いシーンである。うるさい母とみかんに囲まれ、ユズが状況を静かに分析するタイプに育ったのは父譲りのものも大きいだろう。


アニメで強調されるキャッチーさ

アニメでは、ユズがみかんに法則を解説する形で作られている「おかずの法則」。だが、原作はかなり雰囲気が違う。原作では完全にユズの事象分析、独白の形を取っており、まるで研究結果を学会で発表されているような空気すら感じる。

終始ユズヒコの独白で進む(8巻No.23)


アニメではユズの独白を原作より減らし、反応が大きめなみかんをリアクターにする構図で作られている。これにより原作特有の「(ユズヒコの)閉じた世界」感は薄まり、明るさや親しみやすさが取り入れられている。父が家でごはんを食べない日を、アニメでは「X(エックス)デー」と表現するあたりもキャッチーで面白い。

考えようによっては、この「おかずの法則」がそこまで”負の一面”を強調して作られたかどうかすら、微妙なところがある。

この回が放送されたのは2003年6月。当時は今ほど本格的な健康ブームはなかったのではないだろうか。タンパク質が一食に何g必要だとか、炭水化物のみの食事は良くないだとか、一般家庭にどこまでの健康意識が芽生えていたのか、少し疑問だ。栄養の観点から見た一般家庭の食事の浸透具合は、コロナ禍を迎えてから広く知られるようになったのではないだろうか。

そもそも、給料日前におかずが貧しくなるなんて一人暮らしの人間にとっては当たり前だ。家族で暮らしていても、外食や豪華な食材が減る期間であることは間違いない。
つまりこの「おかずの法則」は、どんな人にも起こりうる「あるある」の範疇として制作されていたと考える。


日常作品としての地位を確立した『あたしンち』

まぁさすがに「成長期の子どもの飯にしてはひどすぎる」という意見は、放送当時に出たとしてもごもっともだが。今、地上波でこのエピソードが放送されようものならネットで炎上不可避だろう。

ただ、たとえ炎上するにしても、それが『あたしンち』内での「日常解像度の高さ」が起因していることは間違いない。「こんな親嫌すぎる」といったコメントが温度感高く投げられているのは、観た人が自身の過ごしてきた生活の中に、”言葉にならない(あえて言葉にしてこなかった)何か”を感じるからではないだろうか。『あたしンち』が「ギャグアニメ」ではなく、「日常アニメ」としてのポジションを確立している証拠とも言える。

一方で、こういったエピソードこそ『あたしンち』に『ちびまる子ちゃん』や『サザエさん』、『ドラえもん』、『クレヨンしんちゃん』との違いが明確に出ているところだ。アクが強く、決していい人100%ではない母、自分の機嫌で人を動かす節がある、無口な父。こういった人物像は、お茶の間で放映されるアニメの主人公の親としてはほぼ登場しない。するとしても最近の『クレヨンしんちゃん』のみさえや、『ちびまる子ちゃん』の父ヒロシようにコミカルに寄って描かれる。

『あたしンち』は、あげた4作品のように時代のアップデートの煽りをそこまで敏感には受けきらなかった。それは長い間地上波での放送がなかったのが大きいだろう。『あたしンち』は、「国民的テレビアニメ」の地位は築かなかった。しかし時流を反映し切らなかった結果として、今現在はYouTubeという畑で根強いファンを獲得して生き残っているのかもしれない。


「家族は他人」説こそが理想郷?

主人公家族と、他の家族との明らかな対比

素人が『あたしンち』を語る上で、絶対にチェックしておきたい動画(ライトな先行研究)がある。
オモコロチャンネル「『あたしンち』が好きすぎるから、ちょっと話を聞いてくれないか」だ。作家のダ・ヴィンチ・恐山さんが『あたしンち』の魅力を語っている、めちゃくちゃ面白い動画だ。

この作品に通底している思想みたいなものがあると私は思っていて。それが「家族は他人だ」

該当動画内の恐山さんの発言より

動画で恐山さんが言う「家族は他人だ」という思想。恐山さんはこれがあるからこそ、『あたしンち』は文学作品として魅力的だと語っている。これに関しては完全に同意である。

それを裏付けるのが「他人の家族の描き方」にあると、私個人は考える。

ここで一つ質問したい。
みかんの友人たちの、母親のビジュアルを見たことはあるだろうか?

みかんの友人で、原作とアニメ合わせて母親が(絵的に)登場したのは三人。
親友のしみちゃん、みかんのクラスメートで仲が良いゆかりん、みかんが所属しているテディベア研究会の部員・理央だ。

この三人とも、例外なく娘と母親の顔の作りが似ている。

しみちゃんとしみちゃんママ。(16巻No.4)
そっくりである。


左がゆかりん、左から二番目がゆかりんママ。
(アニメ44話)
目元が同じだ!!


理央と理央ママ。(13巻No.26)
ちなみに理央ママはサブキャラにも関わらず、
メインを張る回が2話もある。

他にも、母の友人・戸山さんと戸山さんの娘の外見も似ている。ユズの友人・ナスオと、ナスオの母親の顔は瓜二つだ。

気になったら調べてみてネ


一方で、母とみかんの(マンガやアニメ作品としての)ビジュアルの似てなさは、議論の余地がない。

みかんと母。(11巻No.25)

ここで見えてくるのは、「人の家族は似ているように感じるが、『自分と自分の家族が似ていること』に関しては無自覚である」ということだ。

もちろん登場頻度が少ないキャラなので、「誰の親か(子か)」を分かりやすくするためビジュアルを似せている可能性もある。だが、ここまで他の親子を似せているとどうだろう。主人公親子の似てなさ加減に作為的なものを感じてしまうのも、無理はないのではと思う。


余談だが、私自身も「母と瓜二つだ」と言われることが多い。初めて人から言われたのは小学校の卒業式だ。私の母を見た友人が、口を揃えて「あなたとお母さんはそっくり」と言った。
しかし、私自身に「母と似ている」自覚はそれまで一切なかった。むしろ母からは「あなたは本当にお父さんに似ている」と言われていた。だから、友人全員が「お母さんとすごく似ている」と評する出来事は、当時の私には衝撃だった。
一方で、私が友人のご母堂に会ったときなんかは「目元がよく似てる親子だな〜」とぼんやり思ったりしていた。

同じような経験をしたことがある人も、たくさんいるのではないだろうか。自分では似てないと思っていても、他人から「あなたと家族はよく似ている」と言われた経験が。


似ている他人の親子、似ていない自身の家族たち。他人の親子の見た目を似せることで、逆に主人公自身と主人公家族は「個々に異なる存在である」ことを際立たせている。ここに恐山さんの言う「家族は他人である」理論が大きく浮き上がっているような気がしてならない。

ひょっとしたらしみちゃんやゆかりん、理央から見た自身の母の姿は、マンガやアニメのようには見えていないのかもしれない。自分と全く異なる見た目で、話し方や雰囲気もあのみかんの母と何ら変わらないように生きているーーーそんな存在なのかもしれない。


「他者への抵抗」ができる家族が理想?

『あたしンち』は単なるファミリーもの、ほのぼの家族マンガではない。

その証拠に、アニメ『あたしンち』のYouTube公式チャンネルには、よくコメント欄にこんなことが書かれている。
「母親にこんな理不尽なこと言われて、グレないみかんとユズすごすぎる」。
全然ほのぼのしてない……。

母の横暴が過ぎる回であればあるほど、この手のコメントは多い。それだけ親からの横暴(にも思える勝手さ、理不尽さ)に振り回され、苦しめられた過去が刺激される人は多いのだろう。
『あたしンち』を通して自身の育ってきた家族環境を見つめ直し、「うちの親はまだマシ」「うちの親もこんなだった」「うちはもっとひどかった」「語るに及ばず」と客観視できる機会を、私たちは与えられているのかもしれない。

みかんは平気で母と喧嘩するし、普段は静かなユズも、のっぴきならないときは母や姉に声を荒げて怒る。子どもたちは父の機嫌をうかがいながらも、たまに言うときは言う(対母と比べたら少なめだが)。また基本「父の機嫌が第一」主義の母も、度が過ぎたら父に激昂する場面もある。父がタジタジになり、旗色が悪くなって逃げ出す姿もアニメではたまに描かれる。また母の横暴さに辟易しながらも、みかん・ユズ・父は母を「母」として頼り、そして甘えている。

タチバナ家の情勢は個々が他者として独立している三すくみならぬ、四すくみと言えるのだ(もちろん、暴力などがない前提の”タチバナ家”の世界だから言い切れるのはあるのだが)。

恐山さんのnoteには、ユズヒコの友人・藤野の「あたしンち」が描かれている回の考察がある。個人的にこの回は「藤野ンちってそうなんだ〜」と思っていただけだったが、この考察を読んで急に現実世界の負の解像度が増したようで、『あたしンち』が少し恐ろしくなった。

みかんやユズヒコが親の理不尽をうまくいなすことができているのは、幸運によるところが大きい。タチバナ家は結果的にうまくいっているけれど、決して平穏無害な家庭ではない。現実のほとんどの家庭と同じように。

「藤野くんの家の『あたしンち』」
2019年12月27日の日記より

そう、みかんとユズヒコが健康に育っているのは本人たちの気質による「偶然」である。二人が中高生にして強い自我を持ち、自身と他者の領域を区別する力が備わっているのは、『あたしンち』がある意味での家族の理想の一面を描いたマンガだから。現実はなかなかこうはいかない、そういう家族が多い。

もちろん、理想ばかりを描いたマンガではない。家族の領域に土足で突っ込んでくるみかんも、きちんと描かれている。

ユズヒコにしつこく質問するみかん(17巻No.2)

酸いも甘いも描く『あたしンち』の度量の広さは、単なるファミリーマンガの域を超えている。

巷で言う「『あたしンち』の親は毒親である」説をただ言い切りで終わるのではなく、「そもそも、家族は他人である」ところまで考えを及ばせれば、少しは胸の内がすく人も増えるのではないだろうか。


家族は他人である。決して、「血が繋がった分かりあえる個人同士」ではない。


おかずを「わが家の金銭状況、及び経過日数に比例して貧困になる」と、客観的事象として観測するユズヒコ。そこに感じられるのは母の怠惰な性格、やりくり下手な人間性を責める姿勢ではない。「自分以外の他者と、それに付随する食」という異物を観測するかのような、研究者のような目線であるかのように思う。

互いに愛があり、家族という信頼を持ちながら「でも、それでもやっぱり他人だよね」という根本的な原理が『あたしンち』の中には流れている。他人であるが故「こういうところはどうかと思う」と意見を交わし続ける。自身の領域が侵害されたと思ったら、激しく抵抗する。

家族としてのある意味での理想郷のようなものを突き詰めると、『あたしンち』に行き着くのではないか。そんな気がしてならない。そしてその理想は、作者であるけらえいこ先生にもたどり着けなかった境地だとも思う。


<参考文献>
・けらえいこ『あたしンち』1巻〜21巻,メディアファクトリー、KADOKAWA
・アニメ『あたしンち』公式チャンネル,YouTube
・けらえいこ『あたしンちSUPER』1巻〜3巻,朝日新聞出版
・けらえいこ『あたしンち公式ファンブック』,メディアファクトリー
・「けらえいこ公式サイト」https://keraeiko.com/works/940.html
・オモコロチャンネル,YouTube
・品田遊「居酒屋のウーロン茶マガジン」,note


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秋海まりこ 日々の思うことを綴ります。エッセイ大好き&多めです!