同年9月18日(火) ドイツとロシア
25年前のベルリン滞在は93年の11月から94年の8月までの10ヶ月。この期間における最後の歴史的出来事は、旧東ドイツからの旧ソ連軍の完全撤退だった。
そのことを、ドイツ・ロシア博物館のカタログの最後にあった一枚の写真が思い出させてくれた。旧ソ連軍の西部分隊の兵士たちが、(ベルリンの東側にあるトレプトウ公園のソビエト顕彰碑まえ)でお別れパレードをしている(日付は1994年8月31日)。
主権をもつ或る国家に他国の軍隊が駐留しているというのは矛盾にほかならない。旧ソ連軍が撤退しても、ドイツはその「矛盾」を今なお抱えている。米軍の基地があるからである。敗戦国の宿命をいぜんドイツは負っている*。
ソ連の崩壊はここにも、不公平な状況を許す口実をあたえているようだ。じっさいそのパレードには、敗戦国ドイツを共同で占領統治してきたアメリカ、イギリス、フランスの軍関係者は参加していない。だからソ連軍の退去といっても片面的撤退というべきである。
旧東ドイツにたいする旧ソ連の影響力が絶大であったことくらいはだいたい想像がつく。だが、ほんらいその力はドイツ全体に及んでいてもよかった。しかし、そうなってはいない。
ナチス・ドイツを無条件降伏に追い込んだのは、いいかえれば、ドイツをナチズムから解放したのは、ほかでもなくソ連であり、アメリカではない。ましてイギリスでもフランスでもなかった。1945年の5月にドイツと降伏文書を交わした主役も、もちろんソ連軍の最高司令官ゲオルギー・ジューコフだった。そのときの建物がいま「ドイツ・ロシア博物館」になっている↓。ロシア旅行後もベルリンに滞在しているKoさんと電車を乗り継いでおととい行ってみた。入場は無料。

第二次世界戦争の犠牲者は厖大な数になるが、最も多い国はソ連である。その次に中国が来る。日本の犠牲者数とは桁がちがう。百万(ミリオン)ではなく千万の単位になる。その中国人の死をだれが引き起こしたのか。加害者はほとんど日本人である。ではソ連における数え切れない犠牲はどうなのか。ほとんどがドイツ人によるものである。
ナチスの戦争犯罪をユダヤ人にたいするものだけに限定することはできない。数からいけば、その倍以上の被害者をロシア人のなかに生みだしている。ロシアにたいするかつてのドイツの行動をみると、じつは中国にたいする日本の非人道的態度がみえてくる。たしかに、中国にたいする三光作戦を民族の絶滅と比べるのは飛躍であるように見える。しかし、ロシアにたいするドイツの殲滅作戦と重ね合わせるなら、日本の三光作戦も一気に普遍性をもってくるし、しかも、スラブ民族をユダヤ人につぐ〝劣等民族〟とみなしていたナチスの差別意識を考慮すると、中国にたいする日本の蛮行をユダヤ人の虐殺に関連づけることも無理ではないと分かってくる。山室信一は、軍国日本の操り人形だった満州国を「アウシュヴィッツ国家」とまで形容したが(『キメラ――満州国の肖像』)、ここに飛躍はないのである。
ヒトラーはソ連との戦争を「殲滅戦(Vernichtungskampf)」と呼んだ。これはいいかえれば、一切の戦争法規をあえて無視する、つまり従来の戦争にはありえなかった〝皆殺し〟を意図的に実行する、ということである。殺し尽くし(殺光)、焼き尽くし(焼光)、奪い尽くす(奪光)という日本軍の三光作戦は、このヒトラーの殲滅意志を名実ともに10年も先駆していた。日本が中国との戦いを「戦争」と呼ぶことを嫌ったのは当然である。戦争をするにはそれなりに厳しい決まりにしたがわなければならないが、そんな縛りがすべて邪魔だったのだ。戦前、戦中における「~事変」、「~事件」、「~動乱」などによって、私たちは夢にも戦争「以下」の出来事を理解してはいけない。それらはみな、正規の戦争すら非合法に超えた〝なんでもあり〟の殲滅戦、すなわち無差別大量殺戮、つまりは戦争「以上」の残酷であることを同時に想起しなければならない。
殲滅戦に「捕虜」の概念はない。この言葉からソ連によるシベリア抑留を連想するのは、あまりに一面的である。連想するなら、ソ連には曲がりなりにもその「概念」がまだ生きていたこと、つまり国際法が通用していたことを考え合わせなければならない。ナチス・ドイツや軍国日本に、そもそも捕虜という普遍概念は存在しなかった。かりに日露戦争や第一次世界戦争の時代にはあったとしても、それ以降の〝戦争〟ではもはや存在しないのである。ナチスはソ連兵の戦争捕虜の名簿を作ることすら放棄した。日本とて同じである。中国人捕虜の名簿など、たとえあっても犯罪者に見立てて(憲兵を含めた)警察が記録したケースがほとんどであろう。中国の東北部には、通称「万人抗」と呼ばれる、名前も分からぬおびただしい人骨の〝集積地〟、ゴミ捨て場ならぬ「ヒト捨て場」が無数に存在する。犠牲者のほとんどは一般市民である。侵略戦争を物量的に支える日本企業の出先機関に強制的に駆り出された中国の人々の屍が大量に、あまりにも無惨に眠っている。彼ら彼女らに名簿はなく、だから正確な人数すら判明していない。
これにたいし、シベリアに抑留された兵士たちには、日本人であれドイツ人であれ名簿が残っている。ソ連は彼らを戦争捕虜として扱ったから。ソ連はドイツや日本に戦争はしたが、殲滅戦をしかけなかった。つまり敵国として遇しはしたのである。が、ドイツにとってソ連、日本にとって中国は、敵「以下」の存在だった。
ナチスの戦争犯罪を語るときにアウシュヴィッツに象徴される虐殺を思い浮かべるだけでは不十分である。と同時に、アウシュヴィッツを語るときに、日本軍および軍属による犯罪も比較の対象にしなければ不公平である。原点に民族差別が存在していたことでは共通するのだから。
ドイツに引導を渡したのがソ連軍だったというだけではない。それに先だつ45年の1月にアウシュヴィッツを解放したのもまさしく彼らだった。しかしながら、その後の〝世界史〟は、ドイツがなによりソ連=ロシアに敗北した事実をただしく直視していない。それは、日本によって引き起こされたアジア・太平洋戦争が、なにはともあれ中国に敗北していたことを、とくに日本人が強固に認めたがらないのと似ている。
裏を返せば、戦後の世界史では、アメリカとそれに従属する勢力が過大に評価されているのである。その後の冷戦に勝利したのだから当然だろうって? ならばこういおうか。日本および(とくに旧西)ドイツは否応なく戦争の敗者に「された」のではない。早くも戦時中から、戦争の〝勝者〟を(どれにしようかなと)「選んだ」のである。「その後」の戦いの勝利までとうに見通していたのなら大したものだが、たぶんそうではない。ドイツでは財界のトップが、日本では(日本一の大金持ちでもあった)昭和天皇が(財界の意向をも反映して)、ただ自分が生き残るためだけに、(真の勝者たるソ連や中国ではなく)アメリカに負けることを選択したのである。昭和天皇が戦争をやめる決断をずるずると遅らせたのは、アメリカを勝者に仕立てるための時間稼ぎだった。それほどまでに〝赤の脅威〟を恐れていた。日本を共産主義国家にしないために、まず植民地だった朝鮮半島を捨て、沖縄を捨て、ヒロシマ、ナガサキを捨てた。これでもけっきょく元は取れた、というのだろうか。そういいたい人々にとって「永続敗戦」という蔑称は痛くも痒くもないだろう。たしかに45年に敗戦はしたが、後の冷戦に勝利しただろう、表向きの試合には負けたが、蔭の勝負には勝ったではないかと、そういって。こうして奴隷根性を自由と履き違えるのである。
しかし、そうした自発的隷従の選択をする余裕すらなかったのが旧東ドイツだった。東ドイツの国民は、真の勝者による当然の報復を、西ドイツ国民とは比べようもないほど赤裸々に引き受けざるをえなかった。勝利のためにソ連が払った莫大な犠牲を考えれば、敵国ドイツにたいする復讐感情の強度がどれほどであったかは想像すらつかない。それだけではなく、「アウシュヴィッツの罪」にしても東ドイツは戦後すぐから重荷を担わされた**。西ドイツ国民がこの責任を自覚するようになったのは、学生運動が激化した1968年以降になってからだ。ここにも、東/西ドイツの理不尽なギャップが厳然とある。
こうした東ドイツの経験と記憶を現在のドイツはどれほど生かしえているだろうか。長く首相を務めるメルケルは、むろん「その」東ドイツの出身である。 ↓ 手 前がいわゆるT4作戦による犠牲者を追悼する記念碑。奧はフィルハーモニーである(晩はここでベルリン・ドイツ交響楽団の演奏会を聴いた。フィルハーモニーは17年ぶりである)。

かつて安楽死管理局がこの場所にあった(Tiergarten 4)。ここで安楽死とは、国家にとって無駄な人間を苦しませずに殺すということである。あの相模原事件の植松容疑者は、生きるに価しない命があるという優生思想の正しさを今なお疑ってはいない。ナチズムは私たちのすぐ隣で微笑んでいる。逮捕された時の彼も、連行される警察の車の中でそうしていたように。
*)同じ敗戦国・日本もそうだと並べたくなるが、大きなちがいがある。ドイツにおいて米軍はドイツの法律の支配下にある。たいして日本は米軍に治外法権をあたえている。〝思いやり予算〟の金額も群をぬく。日本にはドイツ以上に主権は存在しない。アベ内閣が定めた「主権回復の日」はお笑いである。
**)事情はもとより複雑である。共産党(正式にはドイツ社会主義統一党)が主役になった東ドイツは、ナチの時代の自分たちはユダヤ人と同じく迫害「された」側にいた、という口実を盾に責任追求から逃がれることもできた。被害者意識から加害者意識への転換はここでも困難を極めた。しかも、ソ連は旧ナチスの官僚の多くを統治機構にそのまま採用した。
