掌編小説「声が聞こえた」1500字
最近、拠り所にしている声がある。
スマートフォンでアプリを起動し、フォローしている番組名をタップ。すると気の抜けた眠たそうな声が聞こえる。声の主はマイカビーンズさん、番組名は「おつまみラジオ」。音声配信アプリ「スマートウェーブ」で配信している、個人のラジオ番組だ。
「はーい、みなさんこんにちは〜、今日もおねむぅございます」
マイカビーンズさんがお決まりのあいさつをする。この一言だけでリラックスできるから不思議だ。
「みなさんはいかがお過ごしですか? 3時のおやつを食べながら、洗濯物を畳みながら、おやすみ前のひとときなどに、まったりしながら聴いていただけると嬉しいです」
スマホ画面に表示されるサムネイルには枝豆がうたた寝しているイラストが描かれている。マイカさん本人の姿はない。どんな顔かも、どんな仕事をしているかもわからない人なのに、ただ声のみに引き込まれる。
「私は今日もおつまみをいただきながらしゃべりますので、みなさんもお手元に何か用意してね、一杯やりながら聴いてやってくらはい」
だいたいあくびを噛み殺している。そして話はとにかく中身がない。どうでもいいのになぜか耳がこの声を求めている。営業をしていると相手の話を漏らさず真剣に聞こうとする癖が付いてしまうが、何も考えずに耳を素通りしていく言葉は、聞いていると落ち着いてくる。声と話の内容から、私はマイカビーンズさんの顔を勝手に想像していた。
「いやぁ最近仕事が暇でねー。みなさんは仕事って忙しいのと暇なのとどっちがいいですか? 私なんかすぐ眠たくなっちゃうから。ある程度、動いてた方がいいんですよね」
興味があるようなないような、どうでもいい話が続く。聴いているうちについウトウトしてしまうから、通勤途中の電車で聴くのはちょっと危険だ。
「はーい、今日はここまでです。最後まで起きてられた人もおやすみなさーい」
この言葉を聞けば、一週間の疲れが少し軽くなった気がするのだ。
私はその日、仕事で普段は訪れない土地に来ていた。得意先との打ち合わせを終えると、次の電車まで少し時間ができたので、座って仕事ができる場所を探した。あまり大きい街ではなく、地図アプリを使ってもチェーンの喫茶店が引っかからない。仕方なく⭐︎3.2を獲得している聞きなれない名前のカフェに行くことにした。
看板には『うまやどカフェ』とある。コーヒー600円か……、個人経営なら妥当な値段か。店の前で少しためらったが他に行くところもない。私は思い切って店内に入った。
「いらっしゃいませ」
その声に耳を疑った。眠たそうな気の抜けた声に、聴き覚えがあったのだ。そう、マイカビーンズさんだ。
そんな偶然があるだろうか? そもそも声が似ているだけでは? 推しに会う心の準備ができていない。顔を見てしまっていいのか?
一瞬のうちに様々な思いが去来した。入らずに扉を閉めてしまおうかとも考えた。
「おひとり様ですか? 空いてる席どうぞ〜」
次々と声の矢が放たれる。いつも耳元で聴いているあの声だ。私は意を決して店内に足を踏み入れた。
顔を上げると店員さんはマスクをしていた。目元は笑っている。一度見てしまったら、頭の中で勝手に想像していた顔はもう思い出せなくなっていた。
店内を見るとお客さんは誰もいなかった。暇そうだ。私はブレンドコーヒーを注文して席に着いた。
ラジオ聴いてます、なんて言うのは野暮だろうか。そもそもまだ人違いの可能性はある。アプリを起動させてスマホを机に置いておこうか? 気づいてくれるだろうか。でも顔も仕事も表に出していないんだから、知られたら嫌なのかな。
またしても頭の中はオタクみたいなことばかりが巡っている。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーでごわいわふ……」
店員さんがコーヒーを運んできた。あくびを噛み殺しながら……。
「え?」
私は思わず声に出してしまった。それは、そのあくびがあまりにもマイカビーンズさんと似ていたからだが、向こうはただ咎められたと思ったようだ。
「あ、失礼しわひは。あ、あははははは」
お詫びがお詫びになっていない。結局店員さんは照れ隠しの笑い声を残して口元を押さえながら去っていった。
私は口の中の笑いの衝動をなんとか落ち着かせて、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。600円のコーヒーも気の抜けた味がした。
そのとき私は小さなルールを決めた。今度から「おつまみラジオ」を聞くときはコーヒーを淹れることにしよう。
