【ユーゴスラビア】民族融合を目指した代表チーム
1994年、Jリーグの名古屋グランパスに、ユーゴスラビア代表のゲームメーカー、ドラガン・ストイコビッチが加入した。
彼は2001年途中に引退するまで、実に7年半もの間、持ち前の攻撃センスやテクニックを駆使してJリーグのファンを魅了し続けた。
私が毎年買っていた選手名鑑に載っていた彼の当初の国籍はユーゴスラビアだったが、引退後の2003年にセルビア・モンテネグロに変更になり、最後はセルビアとなっていた。
コロコロと国名が変わる背景には、ユーゴスラビアと言う国の複雑な歴史が関係している事が分かった。
ユーゴスラビアは連邦国家だったが、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、スロベニアなどの地域をつなげた多民族国家で、民族、言語、宗教もバラバラないわゆる「モザイク国家」だった。
それぞれが独立を働きかけた事がきっかけで、1990年代には内戦が勃発した。
結果として各自が独立して新しい国家を築く事となり、ユーゴスラビアは解体され、ストイコビッチの国籍も都度変わっていた事を知った。
時は1990年。
ストイコビッチがキャプテンを務めたユーゴスラビア代表は、イタリアで開催されたワールドカップに出場した。
監督はあのイビチャ・オシムさん。
ジェフ市原(現ジェフ千葉)や日本代表でも監督を勤めたヨーロッパでも名高い名将だ。
バラバラのユーゴスラビアが民族融合のきっかけになる事を願い、快進撃を続けたユーゴスラビア代表はベスト8の過去最高成績を収める事に成功した。
多民族国家だろうと、一致団結すればまとまりが持てる事を結果で示して見せた。
これぞサッカーの力かと思われた。
しかしながら、ユーゴスラビア国民の反応は常に冷やかだった。
本大会前にクロアチアで親善試合を行った際、試合前にユーゴスラビア国歌が流れるとホームであるはずの会場からはなせがブーイング。
観客のほとんどを占めるクロアチア人は言った。「ここはクロアチアだ。ユーゴスラビアではない」
他の民族も誰もが自身のアイデンティティを主張し、自らをユーゴスラビア人だとは言わなかった。
だからユーゴスラビア代表はどこに行っても常にアウェイだった。
翌年内戦が勃発。
故郷ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボが空爆された事をきっかけにオシムは監督を辞任した。
辞任を表明した会見において、その目には涙が光っていた。
内戦勃発による制裁で国際大会からの締め出しを受けた後、ユーゴスラビアは1998年のフランス開催のワールドカップへも出場を果たす。
ストイコビッチは引き続きキャプテンとしてチームを牽引。
その後各地域が独立した為ユーゴスラビアとしてはこれが最後のワールドカップとなったが、母国の情勢が不安定ながらも、ユーゴスラビアの代表チームは変わらずまとまりを保てる事を証明してみせた。
やはりサッカーの力は偉大だ。
現在の旧ユーゴスラビア圏内では、クロアチアがワールドカップなどの国際大会では圧倒的な成績を残している。
ボスニア・ヘルツェゴビナは強豪イタリアをプレーオフで撃破して先般の北中米ワールドカップに出場した。
元々自力のある地域だからこそ、代表チームだけはまとまる事が出来たのだろう。
日本で言うなら、自らを「道産子だ」「関西人や」「九州男児ばい」と主張し合っていると言ったところだろうか。
だからと言って日本で戦争が勃発する事は無い。
日本の当たり前は決して世界では当たり前では無いのだ。
私もサッカーに興味が無ければ、ユーゴスラビアの歴史など気にする事も無かっただろう。
ちなみに、今でも旧ユーゴスラビアの国同士の対戦の際は、激しい肉弾戦になる事が多々あるが、選手間においては、「争いはピッチの上だけで」と言う事が暗黙のルールとなっているそうだ。
サッカーには世界を平和に出来る力がある。
今後も継続して貰いたい。
