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途絶えた「武」の天皇

日本の古代史については、古事記や日本書紀(記紀)に基づいた認識が正しいものとされています。しかし、古事記や日本書紀の記述は、それをそのまま鵜呑みにするべきではないと考えます。

正史という語感から、それが「正しいもの」と思われがちですが、実際のところ、必ずしもそうとは言いきれません。例えば、中国の場合、王朝が変わるたびに正史が編纂され、新しい王朝の正統化がなされてきました。つまり、時の権力者によってまとめられるが故に、現王朝の功績が過大に評価され、旧王朝が貶められる、あるいは悪者扱いされることになるわけです。
※「記紀史観への疑問と「正統化」」より引用

記紀は、ある特定の人々の正統化に利用されている可能性を排除することができません。

記紀が編纂される前後の天皇の系譜を示したのが、以下の図になります。

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このなかで、上の赤枠を「天智天皇系」とすると、下の緑枠が「天武天皇系」として、二つに分けることができます。

古事記の編纂を命じたのは天武天皇ということになっているので、記紀は天武天皇側の正統化に使われていると思われるかもしれません。しかし、私はまるで逆だと考えています。

記紀は、天武天皇によって編纂が命じられました。しかし、こうしてみてみると、それらは持統天皇・藤原不比等の正統化に使われた可能性があるとみなければなりません。そこには、一代では終わらない天智系と天武系の権力闘争があったと考えられます。
※「「持統天皇と藤原不比等」の正統化」の可能性より引用

記紀はむしろ、天武天皇側ではなく、天智天皇(中大兄皇子)側の人々の正統化のために利用されている可能性が高いのではないかと思うのです。

そこで「天武系」天皇の諡号に注目すると、少し興味深いことに気づきます。

天武天皇(男)文武天皇(男)→元正天皇(女)
 →聖武天皇(男)→孝謙天皇(女)→淳仁天皇(男)→称徳天皇(女)

男性である天皇には、「武」の文字が入っているのです。

ただし、淳仁天皇の名前には「武」が入っていません。これについては、藤原氏の力が強すぎて、蘇我系の天皇としてみなされなかった可能性が高いと考えます。

756年に没した聖武天皇の遺言によって新田部親王の子の道祖王が立太子したが、天平勝宝9年3月29日(757年4月22日)に孝謙天皇によって道祖王は廃され、4日後の同年4月4日(4月26日)、光明皇后(藤原光明子)を後ろ盾にもつ藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙により大炊王が立太子した。
大炊王は仲麻呂の進言に従って、仲麻呂の長男で故人の真従の未亡人である粟田諸姉を妻に迎え、また仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と深く結びついていた
また、舎人親王の母である新田部皇女は天智天皇の娘であり、天智・天武の両天皇の血筋を引くことも仲麻呂に推された一因であったとする指摘もある。
※ウィキペディア「淳仁天皇」より引用

淳仁天皇は、藤原仲麻呂の影響力が強すぎて、ほぼその傀儡となっていたと思われるのです。実際、淳仁天皇は恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)で後ろ盾を失い、朝廷を追放され、淡路に流されています。

ここであらためて、「武」の天皇が何を意味するか?ということです。注目したいのは、武内宿禰です。

武内宿禰は、5代もの長い間、天皇に仕えた大臣であり、大変な長生きをしたということで、「長寿の神様」ということにもなっています。
系譜を見ると、波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏など、錚々たる古代豪族たちの先祖となっています。もちろん、このなかで最も有名なのは蘇我氏でしょう。
※「記紀以前の世界 ~謎の大臣・武内宿禰~」より引用

武内宿禰という日本の古代史に登場する人物は、蘇我氏の祖でもあります。この武内宿禰の名前にある「武」の字が、「親蘇我」であった「天武系」天皇の諡号に使われていることは、ただの偶然ではないと思うのです。

つまり、この「天武系」が「親蘇我(武内宿禰系)」だったということが、諡号の「武」の字によって、暗号として組み入れられていたのではないかということです。

ただし、ここでひとつ疑問に思う方がいるかもしれません。

それは、先ほどの系図でみると、第50代・桓武天皇にも「武」の字が入っているからです。桓武天皇は、赤い点線枠内にあり「天智系」の人物です。「天武系」ではありません

しかし、これにも意味があると思われます。桓武天皇の「」という字には、「棺(ひつぎ)を墓の穴におろすために四方のすみに立てる柱」という意味があるのです。※「漢字辞典オンライン」より

つまり桓武天皇は、「天武系」を意味する「武」の天皇ではなく「武」の天皇を葬った(終わらせた)天皇ということになるのです。その後、桓武天皇は都を京都(平安京)において、この「天智系」朝廷の基礎を作ることに成功しました。

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この表をみていただければ分かる通り、大化の改新以降、平安京の長い歴史が始まる以前まで、「天智系」と「天武系」の天皇が入れ替わる間、幾度にも渡って遷都が繰り返されています

しかし、それに終止符を打ったのが桓武天皇だったわけです。

このように現在に至る天皇家の流れは、乙巳の変のというクーデターから、歴史書の改ざんによって、天智天皇、持統天皇・藤原不比等、桓武天皇という、数代にも渡る工作活動によって完成させられたとみていいのではないかと思うのです。

これまで、私は記事の中で、何度か日本の古代史について取り上げてきました。人によっては、大昔のどうでもいい話のように聞こえたかもしれません。しかし、私はそうは思っていません

こうした古代史の問題は、実は今の時代にも繋がる非常に大きな意味をもつことだと思っています。それについては、またあらためて記事にしてみたいと思います。


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