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シン・学問のすゝめ

最近、電車での通勤中はマスクをやめました。これまでは、「まぁ、周りが求めてくるのなら、つけてあげててもいいよ?」というスタンスでしたが、いよいよ気温も高くなってきたし、うっとうしくなってきたので、外すことにしました。

クライアントさんの事務所では、マスク着用がルールになっているので、どうしようもないですが、ルール化していないところでは、極力しないようにしています

しかしそれにしても、マスクしてない率は、ものすごく低いですね。仲間は、本当にみかけません。

自分の記事で書いたことながら、この「少数派」でいることにちょっとした優越感を覚えてしまいます(笑)。狭き門をくぐった者として、「IQテスト、合格よねぇ~~~♪」みたいな気分です。

いや、実際のところ、社会のなかで、いつまでも私たちみたいなのが少数派ではいけないわけですが・・・(真顔)。

でもとにかく、私たちが「少数派」でいられるのは、それだけきちっと勉強した結果なのではないでしょうか。常に自分の頭で考え続け、自分たちなりに収集した情報を繋ぎ合わせ、矛盾をみつけ、整合性のとれたかたちを見出せるようになった結果が、今、目の前に広がっている現実ということになるのだろうと思います。

しかし、まだまだ足りません。もっともっと勉強しましょう

昨日も取り上げた記事ですが、竹中平蔵先生はこうおっしゃっています

厳しいことを言いましたが、1人1人がもう一度努力をすることです。福沢諭吉の『学問のすゝめ』はそういうことを説いているのではないでしょうか。1人1人が賢くならないとその国はだめですよ、という本だったんです。そこに立ち返ることが大事だと思っています。

Yahoo! JAPAN News
「竹中平蔵氏、「失われた30年」の日本社会に“カツ” 「1人1人が勉強してない」」
2022年7月5日より引用

人1人が賢くならないといけません

竹中平蔵叩き?

うんうん、分かります。そういう批判もあっていいですし、心情はとてもよく理解できます。ただ、もっともっと勉強せよという、竹中先生の言葉自体、私たちは謙虚に受け止めてもいいと思うのです。

まずもって、しっかり勉強していけば、この社会にはある種の支配構造ができあがりつつことが、理解できるようになると思います。

国家なんてものも、その仕組みの中では、ひとつの便利な「道具」でしかありません。

30年ほど前私が学生で、竹中先生の授業を受けていた頃、国家は国家としての主体的な意思決定をしているものだと思っていました。私は、総合政策学部という、当時、比較的新しい学問体系のなかにあって、日韓の戦後補償問題卒業論文のテーマにしました。その頃、大きな問題になりつつあったのが、慰安婦問題でした。

けれども、今になって考えてみれば、こんなのはただのプロレスでした。

30年経ってみたら、それが詐欺であることは、韓国国内でもハッキリしてしまい、次は徴用工でヤラセが始まるような状況です。

日韓間の問題として取り上げ、それを巡る両国政府間の認識のギャップなどを研究したところで、それに大した価値があるとは思えません。所詮、ヤラセです。

竹中先生がおっしゃる通り、一所懸命勉強してみたら、そんな両国政府間の問題を研究すること自体に、さほど大きな価値がないことに気づかされてしまったのです。

そして、かつて教鞭をとられていた竹中先生の限界についても、気づかされるようになりました。

所詮、経済学者です。

人々が幸せに暮らせるための世界像を描けるだなんて考える方が間違いだし、そんな人の意見に耳を傾ける国家の仕組みに問題があります。けれども、どうしようもありません。そう・・・仕組み自体が問題である以上、個人を攻撃したところで、どうしようもないのです。

結局、竹中先生がおっしゃる通りです。まだまだ、1人1人の勉強が足りていないと思います。

そして、勉強すればするほど、今の世界構造・仕組み遠大な計画に基づいて、長い歴史のなかで作られてきたことに驚かされることになるでしょう。また、その強大さに打ちひしがれて、一人の人間としてできることの限界を感じてしまい、無力感に苛まれることにもなるのだろうと思います。

しかし仮に、あなたがそういう段階にあるとしたら、それもまだまだ勉強不足です。

もっともっと勉強しましょう

竹中先生は、「福沢諭吉の『学問のすゝめ』」を引き合いに出しています。おっしゃる通り、学問にはしっかり向き合うべきです。

そして、せっかくならば、いろいろな学問に対して、熱心に取り組んでいくのがいいと思います。

その学問の対象は、政治・経済などの社会科学に限りません

自然科学も、大いに勉強すべきです。すると、分からないことだらけになります。素粒子の振る舞いは、謎だらけだからです。

そして、それらを考察していくと、世界の支配構造といった「仕組み」よりも上に、さらに大きなこの宇宙の理・「仕組み」があることに気づかされます。もちろん、それを実際に目で確認することはできません。

そうしたテーマに対しては、仮説を立てて、それを検証していくことで、その宇宙の理・「仕組み」の確からしさを調べていくことになります。

しかし、実際には実験などで直接的に誤っているかどうかを調べられない科学的な仮説もあります。仮説から実際に調べることのできる予測を導いて、その予測が誤りかどうかを間接的に確認するのです。例えば、「地球は太陽の周りを回っている」という仮説は実験などにより直接確かめるすべはありません。しかしこの仮説からは、火星や金星などの惑星の動きを予測することができ、それは天体観測により確かめることができます。また日食や月食の正確な日時の予測を行うことができ、それもまた検証可能です。そういった予測を調べることで、元の仮説の確からしさを科学的に調べていくことができるのです。

こういう作業を延々としていくのです。それこそが学問です。

ただし、テーマがテーマなので、その実証は簡単ではありません人生をかけて仮説を置き、人生を通じてそれを検証していくことになります。

結果、その宇宙の理・「仕組み」に照らし合わせて考えてみたら、私たちは、世界を支配しようとする人々の思い通りにはならないことに気づくでしょう(私は、そう信じています)。

しかし、唯物論的な思想によって、世界を支配しようとしている人々がいるとしたら、それは大変都合が悪いことです。彼らは、物質世界のルールこそが絶対であると信じ込ませ、そのなかで事を運びたいと考えていると言われているからです。
けれども、それを超越したルールに気づかれてしまったら、ゲームが変わってしまいます。それまで強者だった彼らも、そのルールを熟知し、それを使いこなせる人々が出現してしまったら、その地位を追われてしまうかもしれません。それは彼らにとって、大変困ることになるでしょう。

私には、既に勝負が決まっている世界にみえてなりません。この宇宙が誕生した時点で、私たちがおかしな人たちの支配下に入るとは思えないのです。

でも不安???

よしっ!じゃ、もっともっと勉強しましょう。人生をかけてやりましょう

ついでに言っとくと、竹中先生、あなた自身も、もっともっと勉強するといいかもですよー


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