日本で恐怖政治はありうるか
病気やら注射やらの問題で、あちこちで大規模なデモが起こっているというのは、周知の事実だと思います。
なんちゃら証明書の議論もメチャメチャで、政府もメディアも、そのあたりの疑問については、まともに取り合ってくれません。
ジョージア🇬🇪ワクチンパスポートに対抗して立ち上がった💉🚫
— いけ@最後までトランプ応援🗣️ (@trump_123456) November 29, 2021
テレグラムCBKNEWSより pic.twitter.com/Ij356XcGCj
そんなメチャメチャ状況に対して、民衆が黙っているわけもなく、だからこんなことが起こってしまうわけです。
一方で、国家権力の側である警察が、弱い市民に対して、実力行使に出るような事態も起こっています。
ワクチンパスポートの導入に伴い、カナダの警察は誘拐の訓練を受け、人間性を失った。
— You (@You3_JP) October 5, 2021
ワクチンパスポートを提示しなかったという理由だけで母親が子供たちの目の前で逮捕され、子供たちが泣いている。 https://t.co/aGsRnJD34A pic.twitter.com/5ja2dLwlUm
海外でこんなことが起こっているというのを聞くと、日本は大丈夫だろうか?という不安がよぎります。
この点、私は、日本の警察官が警察官である前に、日本人であることに希望を見出したいと思っています。そう考えると、もしかしたら日本は、海外で起こっているほど、酷いことは起こらないかもしれません。
甘いと思われるかもしれませんが、それくらいの希望的観測、許していただきたく・・・。
よく日本人の精神性を表す言葉として、「武士道」が使われます。これを西洋の「騎士道」と比較して、少し考えたいのです。
まず、騎士道には十戒というものがあります。
不動の信仰と教会の教えへの服従
教会擁護の気構え
弱者への敬意と憐れみ、弱者を擁護する確固たる気構え
愛国心
敵前からの退却の拒否
封主に対する厳格な服従。ただし神に対する義務に反しない限り
異教徒に対する休み無き、慈悲無き戦い
真実と誓いに忠実であること
惜しみなく与えること
悪の力に対抗して、何時いかなる時も、どんな場所でも正義を守ること
もともと騎士道は、キリスト教を守る戦士のための戒律であるため、「弱者への敬意と憐れみ」といったキリスト教的思想が入ると同時に、「教会の守護」や「教会への服従」のほか「異教徒との戦い」といった考え方が取り込まれています。
これに対して、武士道にはさまざまな考え方、解釈があるため一概には言えませんが、例えば梅谷忠洋氏著の「武士道の智恵」では、武士道を以下10の言葉で表しています。
仁:苦しんでいる人の隣にいて、苦しみを共にすること
義:相手に迷惑を掛けないこと
礼:他人に対する思いやりを形で表現すること
智:知っているだけでなく行動に移すこと
信:義と誠を身につけることで自ずとついてくるもの
勇:社会や他人に不愉快な思いをさせないこと
誠:嘘をつかないこと
名誉:名を汚さぬ心
廉恥:自分の未熟を悟り、恥を知ること
忠義:義があれば自ずとたどりつくもの
この武士道と騎士道の違いは、ざっくりと一神教的な騎士道と、多神教的な武士道の差異と捉えることができると思います。
ただ、それだとざっくりすぎるので、もう少しひも解くと、こんな感じでしょうか。
1.他者の位置づけ
武士道にも、騎士道にも同じように「他者」が出てきます。ただし、騎士道の場合には「弱者」、「悪」、「異教徒」、「封主」、「教会」というように、同じ「他者」について区別がなされています。そのため「他者」を区別するための判断基準が必然的に求められます。
これに対して、武士道では「弱者」も「強者」もなく、「善」も「悪」もなく、「仲間」も「敵」もありません。あるのは単に「他人」、少し表現を変えるとしても「社会」、あるいは「相手」といった程度です。そこにはその「他者」とは何であるかを問題にしておらず、すべての「他者」は等しく「他者」なのです。
2.上位基準の所在
武士道と騎士道では、価値判断や基準の所在が異なると考えられます。
騎士道では行動規範が教会によって定められています。そこに自分の判断や価値基準は認められていません。教会やその教えに対する信仰心ありきであり、それに忠実であることが、騎士には求められています。教会に与するものは「善」、そうではない異教徒は「悪」として、徹底的にせん滅する対象となります。善悪の判断基準は、自分ではなく、上位者(教会)に委ねられているといえます。
それに対して、武士道では自ら意思をもち、自分で判断し、行動されることが求められます。「忠義」は妄信ではなく、自らの義を追求した先にあるものであり、一神教的な「主君絶対」とは違うと考えられます。
3.戦うことの意味
騎士道では「教会の擁護」、「封主への服従」、「異教徒の殲滅」、「悪への対抗」といった理由を挙げつつ、これに対する慈悲なき戦いこそが正義であると位置づけています。
これに対して、武士道のなかにはそもそも「戦う」という言葉がありません。武士とは戦う人間なわけだから、「戦う」という言葉があって然るべきと考えるかもしれませんが、武士道には戦うこと自体への価値、他人を斬り殺すような強さが求められていないことは、私たち日本人は、感覚的にも理解できてるのではないかと思います。
騎士道を否定しようとは思いません。ただ、このように眺めてみたとき、武士道には、単一的な価値観によって支配され、安易に敵を作って、それを叩きのめすような思想は含まれていないと思うのです。
むしろ、多様な価値観を受け入れ、そのなかで、自分の存在意義について真正面から向き合うような精神性が求められていると思います。
欧米の警察官が「騎士道」的で、日本の警察官が「武士道」的だとは思っていません。また人によっては、もはや日本人に「武士道」的な精神は宿っていないと言い切られたりします。
しかし私は、日本の警察官は、警察官の前に日本人であり、日本人である以上、そうした「武士道」的な精神が、どこかに宿っているのではないかと信じたいと思っています。そして、もしそうだとしたら、単一的な価値観に基づいて「敵」、「悪」とされる民衆たちを、徹底的に叩きのめすようなことをするでしょうか。
政府が言ったから?上司の指示だから?組織が決めたから?
超エリートと呼ばれるような政治家や官僚の方々は知りません。このあたりの人たちについては、既に私たちは、いろいろなものを見せられていると思います。
しかし、現場を司るような警察官一人一人まで、それで動くのか・・・どうでしょうね。日本において、海外でみられるような警察官たちの横暴、暴力が展開されるのかは分かりません。
ただ私は、日本という国は政府が乗っ取られようが、皇室が破壊されようが、日本人一人一人の精神性まで侵されることがなければ、まだまだイケると思ったりするのでした。
