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「良い人」ぶる人々の病んだ社会

私が、大学の卒業論文に「日韓の戦後補償問題」を選ぶ際、当初、日本が戦争時に犯したとされる「人道に対する罪」という言葉が気になりました。

「そっかー、日本は『人道に対する罪』を犯したのかぁ」

悪いことをしたのであれば、そういうものに対しては、きちんと向き合う必要があると感じました。そこで、それを卒業論文のテーマのひとつとて捉えて、勉強してみたのです。

しかし、勉強すればするほど、当初抱いていた「人道に対する罪」のイメージは、大きく変わっていきました。メディアで言われるがままだった歴史認識も、自ずと変化せざるをえませんでした。

論文に着手する前、小島先生には一通り、私が書きたいと思っている方向性について説明をしました。すると先生は、ニコッと笑って「よく調べなさい」とだけおっしゃいました。
その後、いろいろと調べました。調べていくうちに、自虐史観に基づいていた私の戦後補償問題に対する見方は、ガラガラと崩れ去ってしまい、思っていたのとは真逆の結論になっていました。

「落ち着いて話せるとよいね」より引用

結論として、日韓間での戦後補償問題は、既に解決済みであり、「人道に対する罪」などというのも、一方的に日本だけが責められるべきようなものではないと考えるに至りました。

勉強をする前の私は、とにかく浅はかでした。

被害者がいるのであれば、何とかしないといけない
かわいそうな人がいるのなら、それを助けてあげるべきだ」

そんな単純な思考でした。

今、振り返ってみると、大して勉強もせず、浅い知識で語られる歴史観をベースにして「かわいそうだ」、「助けてあげなきゃ」、「何とかしてあげたい」などというのは、薄っぺらすぎて恥ずかしい限りです。

逆に言うと、そんな薄っぺらい自分だからこそ、自分自身の存在意義を求めようとして、浅はかに「かわいそう」などと思ったのかもしれません。つまり、「かわいそう」と思ってあげることで、自分はそうやって思いやりをもつことができる「立派な人間」と思うことができたかもしれないということです。

結局、そう思うことによって、自分の弱さを補っているにすぎないわけです。

若干、代理ミュンヒハウゼン症候群に通じるものを感じます。

「代理」とつく「代理ミュンヒハウゼン症候群」は、自分ではなく代理として子どもや近親者を病気に仕立てる。日本小児科学会の報告によると、<子どもに病気を作り、かいがいしく面倒をみることにより自らの心の安定をはかる、子どもの虐待における特殊型>とされる。
加害者は熱心なふりをした母親に多く、医師をもだまして不必要な治療が行われ、子どもの健康を脅かす恐れすらある。

東洋経済オンライン
「「児童虐待」の裏側に潜む母親の深刻な精神疾患」
2020年9月25日より引用

代理ミュンヒハウゼン症候群とは、故意に子供などを病気にさせて、それに対して「かいがいしく面倒をみる自分」を感じ、そこに自らの存在意義を見出し、心の安定を図るというものです。

わざと病気にさせているといった行為自体はさておき、精神的作用としては、敢えて「かわいそう」な存在を作ることによって、それをかわいそうと思ったり、その人のために何かをしてあげる自分に存在意義を見出すことで、自分自身の心の安定を図るということになります。

今、そんなのが世の中に蔓延っているのではないかと思えてなりません。だから、こういうことが、真面目に議論されるようになるわけです。

深く考えることもなく、ただ「かわいそう」という憐みの気持ちから、ルールばかりを増やしていったら、社会は必ず行き詰ります

しかし、こうした問題について、法律で解決しようとすると、それまで考えられなかった、まったく別の問題も生じてきてしまいます。法律は悪用されることがあるのです。弊害だって生まれることがあります。
法整備による解決を主張される方々は、そうした法律のネガティブな側面をきちんと理解されているのかが疑問です。

「法律を作るほどに混乱する社会」より引用

かわいそうと思う気持ちを軽々しく発動して、それを誤った方向に使ってしまうと、むしろネガティブな作用が生まれえます。ある意味、その「かわいそう」と思う感情自体が、今の社会における病理に近い可能性があるわけです。

そんな病理を抱えた人たちが大勢いて、そういう大勢が住んでいる社会がルールを作るとしたら、そりゃメチャメチャになるのも当然です。そうやって、自分たちをルールで縛ることによって、自分たちの生きている社会は、ますます生きにくく、暮らしづらい世界になっていくことでしょう。滑稽です。

簡単な話、その人たちは「良い人」ふっているだけです。

LGBTQ・・・もちろん、そういう悩みがあるのは分かります。しかし、人の悩みなんてさまざまです。低身長だってあるし、髪の毛が薄いのだってそうです。学歴の問題もあるでしょうし、年齢が悩みという人だっているかもしれません。家族構成の悩みで、片親がいないとか、両親がいないとか、子供ができないとか、みんなそれぞれ悩みがあって当然です。

そうやって、みんなそれぞれ、いろんな悩みを抱えながら生きているのです。そして、嫌な思いをしながら、自分の居場所や人との付き合い方を探っているということです。

LGBTQだけが問題なのではありません。それを言い始めるのなら、他の問題に対しても、徹底的にやるべきです。でも当然、そんなことはできません

だから社会で暮らすというのは、そういういろんな人たちが集まって生きていくことを受け入れるということでもあるのです。そして、そのなかで自分の生き方を探っていくということでもあります。

要するに、甘えるな!って話です。

社会制度上の不利益を被っている?

それを言うのなら、そんなの私にだってあります。私自身、やや複雑な事情から、私の生活実態に照らし合わせて考えてみたら、他の人に比べて、税金を多く支払わなくてはいけない状況にあります。でも、そんなのガタガタ言いません。それは、私の事情であって、いちいち社会制度で何とかしてほしいなんて思いません。不利益ではあるけれど、いちいち甘えませんし、言い訳なんてするつもりもないです。


あ・・・でも、いいんです。他責の人たちの集団と化した社会では、致し方ないことですよね。

だから、LGBTQなんかも、やりたい人はやればいいです。それがどういう意味があるのか、あとで思い知ることになるでしょう。

「あの人かわいそう」
「そんなの差別だ!」
「平等に扱って然るべき!」

一旦、気が済むまでやられるといいと思います。やってみないと分からないのでしょう・・・。

私は、そんな「良い人」ぶった人々の社会どんな道を辿っていくのか、じっくり眺めてみます


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