はじまりの予感、朝霧のエディンバラ | ショートショート
霧の街は、意味ありげに佇む。
🕯️
エディンバラの朝を霧がゆっくりと撫でる。
ベティは、古い石畳の坂を降り、小さなカフェへ入った。
カウンターには、
針だけが失われた古時計。
磨り減った木製のパズル。
壁には誰が描いたのか分からない肖像画。
何かが始まる気配が漂っていた。
紅茶を頼むと、店主は黙って頷いた。
ベティは窓際の席に座り、外の霧を眺める。
赤い傘を差した人影が、濃い霧の中に溶けては浮かび上がった。
「この街は、静かに物語を準備している」
そんな気がした。
紅茶の湯気が、ひとつの影を作る。
どこか遠くで、教会の鐘が鳴る。その音は、霧に吸い込まれるように消えていった。
カフェの奥の席から老婆が近づいてきた。
白い髪を三つ編みにし、杖をつきながらゆっくりと歩いてくる。
「あなた……帰ってきたのね」
ベティは瞬きをした。
老婆の瞳はうるんでいて、まるで長い別離の後の再会を祝っているようだった。
店主が静かに肩をすくめた。
「近所のばあさんだ。ここに来る人、みんな孫に見えるらしい」
ベティは紅茶をすする。
霧は、誰かの面影を呼び覚ますのかもしれない。
そして──ベルが鳴った。
奥の棚の上にぽつんと置かれた黒電話。
受話器が揺れ、店主の顔が微かに歪む。
古い喫茶店に似つかわしくない鋭い音。
まるで運命を感じさせる響きだった。
店主が受話器を取る。
「……はい」
緊張が走る。
「ウーバーイーツです!近くにいるんですけど、全然見つからなくて!!」
──運命ではなかった。
配達員の迷子だった。
霧は、物語を始めたがっているのに、街はいつも日常に立ち返る。
その時だった。
店の外に、黒い車が何台も止まり、
黒づくめの男たちが一斉に降りてきた。
カフェに入ってくる。
ベティは息を呑む。
──今度こそ、何かが始まる。
男の一人が静かに口を開いた。
「昨夜この店が出したサンドイッチで、腹痛を訴える客が続出しています。全員、検査に協力ください」
店主が「えっ?」と間抜けな声をあげた。
霧の街に響いたのは、運命でも陰謀でもない。
ただの衛生問題だった。
黒電話も、古時計も、赤い傘の人影も、老婆の涙も、そしてこの黒づくめの一団も──
全部ただの生活の欠片でしかなかった。
ベティはストールを巻き直し、立ち上がった。
「伏線って……貼るだけ貼ったら、最後は全部どうでもよくなるのよね」
霧はすべてを包み込んで、また静かに街を飲み込んでいった。
🕯️
回収するまでが伏線です。
