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歌川広重 / メトロポリタン美術館
なんかあれだな生きててもどうしようもないな的な日々の連続
今何が起こっているのか自分で考えたり、先人達はどう考えたのか調べたりしてみても社会の中では何も役に立たなくて困る。もうどうしようもなくなってしまいたい気分です。
これまで数十年間生きてきて、有識者と認知されている人は物と言葉の同一性について考えているという気づきを得るところまでたどり着いた。
例えば、目の前に水がある。これを水と呼ばれている物と、水という言葉に分類してみる。イメージとしては、言葉が生まれる前の世界にタイムスリップしたような心地で水を見る。そうすると、これは水ではないわけです。別の言い方をすると、水と呼ばなくても良い。なんなら、この透明な流体には本質的に言葉という意味が無いというところまで思考が進みます。
このような物の見方を目に映る物全てに適用すると、認識から言葉が消えて忘言の人になる。と私は理解しています。
この物と言葉の関係性、これが問いの始まりだというところまでたどり着いたけれども、社会じゃ何も役に立ちませぬ。これが仏教の空だと思うけど、これが仕事の役に立つわけでもない。ほんとどうしようもない。文学はこの認識の感覚や比喩の連続だと思うけど、だからって生活しやすくなるわけでもない。一般的な認識からズレてしまって、ただ生きづらくなるだけ。
何かが分かった瞬間の世界は、これまで見た全ての物より美しかったけれど、社会では必要とされないし、仕事はできないし嫌になる。
あー、やだやだ。
でも、この認識から言葉を剥がしてしまった世界を体現した時の感覚の中に、真善美や救いがあるのだと思う。だからみんなに伝えたい。最後死ぬ時にこの認識が必要になると思うのだよ。だって仏性を得るってそういうことじゃん。
