「昨日な」と口が滑った瞬間の嫌な汗。なぜ私の脳は、勝手に関西弁をコピーするのか
春ですね。
この街に引っ越してきてから、はや数年。ようやく雑踏に溶け込んできたような気がする4月の朝です。
環境が変わると、なぜか自分を無理に「更新」しなきゃいけないような、妙な力みが生まれるものです。
挨拶の角度や新しい環境での振る舞い。そんな自意識のノイズが、春の陽気とは裏腹に頭の中を占拠しています。
そんな緊張感に包まれた、新年度初週のランチ中。
向かいに座っているのは、この春、別の拠点からやってきたばかりの同僚・佐藤さん(仮名)。
「いやあ、やっぱりこっちの蕎麦もええけど、あそこの出汁はもっと……」
彼が放った、強烈な「本場」の磁力を持った食レポ。
数年かけて築いてきた私の「標準語のバリア」が、その豊かな抑揚に、音を立てて揺らぎ始めました。
.........その瞬間でした。
私の脳内で、見えないスイッチがカチリと切り替わったのです。
「昨日な、私もスーパーでうどん買ったんやけど——」
...あ.........やってしまいました。
なぜ私たちは、勝手に関西弁をコピーしてしまうのか!?
口から滑り出したのは、およそ私の人生ルートには一秒たりとも存在しなかったはずの、不器用極まりないイントネーション。
気づいた瞬間、背中に嫌な汗がじわりと流れます。
「え、今の、バカにしてると思われた?」
「数分前まで標準語直しませんからみたいな顔してたよね、自分?」
必死で脳のブレーキをギチギチと踏もうとするのですが、一度滑り出した「関西弁リミックス」のBPMは、もう止まりません。
その後、佐藤さんが「あ、うどんもええな」と優しく返してくれるたびに、私は自分の口から出る「エセ」と「標準語」の不協和音に、心の中でずっと平謝りし続けることになったのです。
誰に頼まれたわけでもないのに、なぜ私はこんなにも敗北を認めるかのような模倣を繰り返してしまうのでしょうか。
脳内に住んでいる、超お節介な「DJ」の存在
なぜ私たちは、あんなにも簡単に関西弁という強力な旋律に吸い寄せられてしまうのでしょうか。
自分の意思で動かしているはずの舌が、まるで磁石に吸い寄せられるかのように、相手のリズムを勝手になぞり始める。
「そんなに流されやすい人間だったっけ?」と自分を責めたくなりますが、実はこれ、個人の性格や主体性の問題ではないらしいのです。
どうやら、私の脳の中にはお節介なDJが居座っていて、相手の喋りに合わせて勝手に「ハモり」を入れたくてたまらなくなっているようなのです。
心理学の世界では、これを カメレオン効果 なんて大層な名前で呼んだりします。
人は無意識のうちに、相手の仕草や言葉遣いをコピーしてしまう。
これは相手との距離を縮めたい、もっと仲良くなりたいという深層心理が、理性よりも先に「全力のサービス精神」を発揮してしまった結果なのだとか。
脳の奥底にある ミラーニューロン という神経細胞が、相手の喋りを自分のこととして「追体験」してしまうシステム。
相手が「せやな」と言えば、自分の脳内でも 0.1 秒遅れで「せやな」が発火している。
自分では慎重に相槌を打っているつもりでも、脳内ではすでにステージに上がる準備を終え、マイクを力いっぱい握りしめているのです。
「せやな」「ほんま」「なんでやねん」
もはや、私の微力な意思など、この暴走するDJの前では、春一番に抗えない桜の花びらのようなもの。
そう思うと、あのギクシャクしたエセ関西弁も「私の脳が、新生活の緊張の中で必死に社交を尽くそうとした、涙ぐましい努力の結晶」として、少しだけ(本当に少しだけですよ)愛着が湧いてくるような気がしてきます。
脳が勝手に気を利かせすぎて、結果として滑り倒している。
なんとも、融通の利かない仕組みだと思いませんか?
関西弁という名の、中毒性の高いプレイリスト
それにしても、なぜ「関西弁」はこれほどまでに、他の地域の方言よりも圧倒的な感染力を持っているのでしょうか。
東北のズーズー弁に一瞬でつられることは少ないのに、関西弁だと 3 分もしないうちに、心の中の「昨日な〜」が始まってしまう。
それはきっと、関西弁が単なる「意味」の伝達を超えた、一つの強力な旋律(メロディ)だからではないかと私は思うのです。
標準語が整然とした譜面どおりのクラシック演奏だとすれば、関西弁は極めて肉体的なジャズに似ています。
音の跳ね方、語尾の消え際、そして何よりも、一拍置くか置かないかの絶妙な「間」。
「せやな」「ほんま」「なんでやねん」
私たちの脳は、論理的な「意味内容」を覚えるのは苦手ですが、身体的な「リズム」をコピーするのは得意中の得意です。
特に、テレビやインターネットを通じて幼い頃から刷り込まれてしまった「あの中毒性のあるフレーズ」が、脳の「お気に入りプレイリスト」の最上位に常に待機状態でセットされている。
だから、いざ「本場の生演奏」を目の前で浴びると、脳内 DJ が「今だ!待ってました!」とばかりに再生ボタンを連打してしまうわけです。
もはやこれは、会話というより 脳のセッション なのかもしれません。
譜面がないからこそ、乗らずにはいられない。
そう、私の舌は、ただそのビートに無邪気に、かつ哀れに身を委ねただけなのです。
.........まあ、その結果として出来上がったのは、本場の人から見れば 1 ミリも似ていない、スカスカの「まがいもの」なのですが。
佐藤さんの「ちゃうなあ」は、あんなに深い味わいがあったのに。
私の「昨日な」は、どうしてこんなにも、サイズが合っていない借り物のスーツのような、落ち着かない「バッタもん」感が漂ってしまうのでしょうか。
明日、また不格好に「ハモる」自分を肯定する
「……あれはエセっぽかったよなあ。佐藤さん、絶対引いてたよなあ」
夕食も終わり、家族がそれぞれ思い思いの時間を過ごしている賑やかなリビングで、出しっぱなしにされたおもちゃのブロックを踏まないように慎重に歩きながら、昼間の自分の不用意な振る舞いを反省する。
これが夜の 0 時を過ぎると、反省の濃度はさらに増し、枕に顔を埋めたくなるような「黒歴史」へと昇華されていくのでしょう。
でも、少しだけ視点をずらしてみることにしました。
あなたのリズムに合わせたい、あなたの居心地を少しでも良くしたい。
そんな脳の、どこまでも愚直で不器用な誠実さが、あのギクシャクしたイントネーションとなって漏れ出してしまった。
そう思うと、自分が少しだけまともな人間になったような、錯覚に近い安堵を覚えます。
つまりは、良好な人間関係なんてものは、お互いの不完全な旋律をどうにかこうにか擦り合わせて、時折発生する不協和音を「まあ、これはこれで」と楽しみながら生きていくものなのかもしれません。
明日、また彼が「せやな」と言ったとき。
私はおそらく、コンマ数秒の抵抗も虚しく、再び「せやな」とハモってしまうことでしょう。
たとえそれが、明日には忘れてしまうような、ささいで滑稽な合唱だったとしても。
不器用なエセ関西弁に悩み続ける私をよそに、リビングからは 3 歳の娘の、元気いっぱいの声が響いてきます。
「なーんでーやねーんっ!」
.....そのあまりにもネイティブな響きに、私の脳内DJは今日も完敗なのでした。
▼もう少し「ふしぎ」を眺めたい方へ
無意識に関西弁をコピーしてしまうように、私たちは「お土産を渡す順番」という目に見えないヒエラルキーにも、驚くほど忠実に動かされています。日本特有の、美しくも不思議な気遣いのルール。
言葉をコピーするのは無意識のサービス精神。一方で、意識的に相手の懐に飛び込む「魔法のスパイス」については、こちらの記事で紐解いています。
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