家のリフォーム⑥|きれいになっても、安心して住めない家にはしたくありませんでした。
見積書を見ても、
何にいくらかかるのか分かりませんでした。
「思っていたより、高いな」
夫は、見積書の最後に書かれた金額を見ながら言いました。
妻も隣から数字を見ています。
何度見直しても、金額が変わるわけではありません。
それでも妻は、もう一度、一番右下に書かれた合計金額へ目を戻しました。
二人で話し合った予算より、少し高い。
まったく支払えない金額ではありません。
けれど、工事が終わったあとの生活を考えると、そのまま受け入れてよいのか迷う金額でした。
食卓の上には、見積書と一緒に、間取りの図面や設備の資料が広げられています。
台所。
居間。
一階の寝室。
浴室と洗面所。
廊下の段差。
外壁や屋根の傷み。
夫婦が直したいと伝えた場所は、たしかに見積書の中へ入っていました。
けれど、書かれている言葉を読んでも、実際に何をするのかまでは分かりません。
既設撤去工事。
下地補修工事。
木工事。
電気設備工事。
給排水設備工事。
内装仕上げ工事。
諸経費。
一つひとつに金額は書かれています。
それなのに、その工事を行うと家のどこがどう変わるのか、二人の頭の中ではうまくつながりませんでした。
妻は、台所の項目を指で追いました。
「キッチンの金額は、ここやよね」
「たぶんな」
「でも、ここにある給排水工事も台所の分なんかな。お風呂の分も一緒なんかな」
夫は見積書を近くへ引き寄せました。
けれど、読んでも分かりません。
夫婦が最初に目を向けたのは、工事の内容ではなく、合計金額でした。
そして次に考えたのは、どこを減らせば予算へ収まるのかということでした。
金額を見た瞬間、希望を削ろうとしました
「二階は何もせんのやし、台所をもう少し安い物にしたらええんやないか」
夫が言いました。
妻はすぐには答えませんでした。
台所の設備に強いこだわりがあるわけではありません。
一番高い商品を選びたいわけでもありません。
それでも、見積書の内容が分からないまま、最初に台所を安くすることには迷いがありました。
「安い物に変えたら、どれくらい下がるんやろう」
「それは聞いてみんと分からんな」
「そもそも、設備が高いから予算を超えたんかな」
夫も答えられませんでした。
二人は、見積書を受け取る前に、工事の優先順位を決めていました。
家を守るために必要なこと。
毎日の負担を減らすために変えたいこと。
できれば新しくしたいこと。
予想していなかった傷みが見つかったときのために、使い切らず残しておくお金。
その考え方は、見積書が届いても変わっていません。
けれど、大きな金額を目の前にすると、決めたはずの順番が見えなくなりました。
ただ金額を下げなければならない。
その気持ちだけが先に立ちます。
妻は、一階の寝室にする予定の和室を見ました。
「ここを今回はやめたら、だいぶ下がるかな」
今は、毎晩布団を敷いています。
朝になれば畳んで、押し入れへしまう。
以前は何でもなかった動きが、少しずつ負担になっていました。
そのために、一階の和室をベッドで眠れる部屋へ整えたいと考えたはずでした。
けれど、見積書を見たあとでは、その希望さえ贅沢のように思えてきます。
夫は浴室の方へ目を向けました。
「風呂も、まだ使えんことはないしな」
冬の寒さが気になっても、お湯は出ます。
床も壁も、今すぐ壊れるわけではありません。
まだ使える。
そう考えれば、先送りできるようにも思えます。
しかし、まだ使えることと、これからも安心して使いやすいことは同じではありません。
夫婦は、それを何度も話してきました。
それでも金額を見た瞬間、以前の我慢へ戻ろうとしていました。
直したい理由から考えるのではなく、高そうな場所から消そうとしていたのです。
見積書は、金額だけを見る紙ではありませんでした
見積書には、工事に必要な物や作業が書かれています。
けれど、同じ「台所のリフォーム」でも、家によって内容は変わります。
今の場所で設備だけを交換するのか。
台所の向きを変えるのか。
給排水管を移動するのか。
床や壁をどこまで直すのか。
電気の容量や配線を見直すのか。
窓や断熱も一緒に考えるのか。
築四十年の家であれば、設備を外したあとに、傷んだ下地や古い配管が見つかることもあります。
見積書に書かれたキッチン本体の金額だけを見ても、台所全体にいくらかかるのかは分かりません。
浴室も同じです。
新しい浴室の価格だけではなく、今の浴室を解体する工事。
土台や柱の状態を確認する工事。
給排水や電気をつなぎ直す工事。
窓や壁の断熱。
洗面所との段差。
出入口の広さ。
工事中に使えない期間への備え。
いくつもの作業が重なり、一つの場所が整っていきます。
夫婦が見積書を読んでも分からなかったのは、二人の知識が足りないからではありません。
初めて見る人にも内容が分かるよう、説明と結びついていなかったからです。
専門的な言葉が書いてあっても、それが自分たちの家のどこを指しているのか分からなければ、必要かどうかを選ぶことはできません。
「こんなことを聞いたら、何も知らんと思われるかな」
妻が小さな声で言いました。
夫も、同じ不安を感じていました。
一度説明を受けたのに、もう一度聞くのは失礼ではないか。
細かく質問したら、疑っていると思われないか。
金額を下げたいだけの人だと思われないか。
専門家が必要だと言うなら、任せた方がよいのではないか。
けれど、分からないまま契約して、工事が始まってから「そういう意味ではなかった」と気づいても遅いことがあります。
聞くことは、相手を疑うことではありません。
自分たちが何にお金を使うのかを知るために必要なことです。
夫婦は、見積書の余白へ、分からない箇所を書き出していきました。
「一式」と書かれた中身を、聞いてみることにしました
最初に妻が丸をつけたのは、「下地補修工事 一式」と書かれた項目でした。
「この下地って、どこのことやろう」
台所なのか。
浴室なのか。
居間なのか。
今の時点で傷みが確認されているのか。
工事を始めてから必要になる可能性があるものなのか。
見積書だけでは分かりません。
夫は「諸経費」の横にも印をつけました。
現場までの運搬費なのか。
廃材の処分費なのか。
工事中の養生や清掃なのか。
現場を管理するための費用なのか。
金額だけを見れば、高いか安いかを考えたくなります。
けれど、何が含まれているかを知らなければ判断できません。
二人は、項目ごとに四つのことを確認することにしました。
何のために必要な工事なのか。
家のどの場所で行うのか。
この金額に、どこまで含まれているのか。
行わなかった場合、どのような影響があるのか。
さらに、古い家だからこそ聞いておきたいこともありました。
壁や床を開けたあと、傷みが見つかった場合はどうするのか。
追加工事が必要になったとき、工事を進める前に説明と金額を確認できるのか。
工事中の写真を残してもらえるのか。
見積書に入っていない可能性がある工事は何か。
今の金額が、最終的に支払う金額とまったく同じになるとは限りません。
だからといって、「古い家なので、開けてみないと分かりません」で、すべてを曖昧にしてよいわけでもありません。
今の段階で確認できること。
工事を始めなければ分からないこと。
分かった時点で判断すること。
それぞれを分けて説明してもらう必要があります。
妻は、質問を書いた紙を見ながら言いました。
「聞きたいこと、こんなにあるんやね」
夫は少し笑いました。
「分からんままやったら、金額しか見るところがないでな」
安い見積もりが、安心できる見積もりとは限りません
夫婦は、ほかの会社へも相談した方がよいのか迷っていました。
一社だけでは、提示された金額が適切なのか判断しにくい。
比較すること自体は、悪いことではありません。
けれど、合計金額だけを並べても、同じ条件でなければ正しく比べられません。
一方の見積もりには、傷んだ下地の補修が含まれている。
もう一方には、必要になった場合の追加工事として書かれている。
一方には、断熱工事が含まれている。
もう一方には、新しい設備を取り付ける工事だけが入っている。
使う材料が違う。
工事する範囲が違う。
処分費や養生費が別になっている。
保証や工事中の管理方法も違う。
合計金額が安く見えても、必要な工事が含まれていなければ、あとから追加になることがあります。
反対に、高く見える見積もりでも、夫婦が希望していない工事まで入っているかもしれません。
比べるために必要なのは、同じ金額にそろえることではありません。
何を行う見積もりなのかをそろえて見ることです。
夫婦は、もう一度、自分たちが大切にしたいことを書いた紙を見ました。
雨や湿気から家を守ること。
浴室と洗面所の寒さを減らすこと。
一階で眠れるようにすること。
台所から居間にいる人の顔が見えること。
廊下の段差を見直すこと。
その希望に対して、どの工事が必要なのか。
今の見積書で、どこまで実現できるのか。
金額を比べる前に、そこを確かめなければなりません。
見積書を選ぶことは、一番安い数字を探すことではありません。
自分たちが大切にしたい暮らしと、書かれている工事がつながっているかを確かめることでした。
説明を聞くと、減らしてよい場所が見えてきました
後日、夫婦は見積書を前に、一つずつ説明を受けました。
台所の金額が大きくなっていた理由は、選んだ設備だけではありませんでした。
居間の様子が見える向きへ変えるために、給排水管と電気配線を移動する必要があること。
壁を取り払う前に、家を支える部分を確認する必要があること。
床を一部直し、台所と居間の段差をそろえる工事が含まれていること。
妻が望んでいた「料理をしながら夫と話せる台所」は、設備の扉の色だけではつくれません。
その暮らしを実現するために、完成後には見えなくなる工事が必要でした。
浴室と洗面所についても、夫婦が選んだ設備の説明だけではありません。
寒さを減らすために、窓をどうするのか。
浴室だけを暖かくして、隣の洗面所との温度差が大きくならないか。
床下や壁の状態を、どの段階で確認するのか。
入口の段差をどう納めるのか。
話を聞くうちに、夫は最初に考えていた「まだ使えるから浴室をやめる」という決め方では足りないと感じました。
今の浴室が使えるかどうかだけではなく、これから夫婦が冬も安心して使えるかを考える必要があります。
一方で、今回行わなくても困らない工事も見つかりました。
居間の天井をすべて新しくすること。
使う予定の少ない部屋の内装をそろえること。
まだ状態のよい建具まで交換すること。
収納を予定より大きくつくること。
新しくすれば、家全体はきれいに見えます。
けれど、夫婦が困っていることを改善するために、すべてが必要なわけではありませんでした。
残せる天井は、傷んだ部分だけを直す。
昔から使ってきた建具は、動きを調整して残す。
収納は量を増やす前に、何を一階へ置きたいのかを見直す。
設備の仕様は、使い方に影響しにくい部分で調整する。
一つずつ考えると、ただ質を落とすのではなく、夫婦に必要な内容を残しながら金額を整える方法が見えてきました。
契約の前に、夫婦で確かめたこと
説明を聞いた夜、二人はもう一度、食卓へ見積書を広げました。
最初に見たときと、書かれている数字は同じです。
けれど、見え方は変わっていました。
どの工事が、家を守るために必要なのか。
どの工事が、夫婦の毎日の負担を減らすのか。
どの部分なら、方法や材料を変えられるのか。
どの工事は、今回は行わなくてもよいのか。
どこに、追加費用が生じる可能性があるのか。
夫婦は、契約を決める前に確かめたいことを、一枚の紙へまとめました。
工事する場所と、工事しない場所。
使う設備や材料の名前。
撤去や処分にかかる費用。
下地や配管の補修が含まれている範囲。
見積書に含まれていない工事。
追加工事が必要になったときの確認方法。
工事の期間と、住みながら工事できない時期。
保証の内容。
工事中に、誰へ相談すればよいのか。
そして、なぜこの工事を行うのか。
項目の数は多くなりました。
けれど、すべてを完璧に理解して、専門家と同じ判断をするためではありません。
自分たちが納得して選ぶために必要なことを、分からないままにしないためです。
妻は見積書の余白へ書き込んだメモを見ながら言いました。
「最初は、この金額をどうやって下げるかしか考えとらんかったね」
夫もうなずきました。
「何をする金額か分からんかったでな」
見積書は、夫婦に工事を決断させるための紙ではありません。
工事をする人と、これからそこに住み続ける人が、同じ内容を見ながら話すための紙です。
分からない言葉があれば、聞いてよい。
必要だと言われた工事も、その理由を確かめてよい。
予算に合わなければ、ほかの方法がないか相談してよい。
一度持ち帰り、夫婦で考えてもよい。
その時間を嫌がらず、分かるまで説明してくれるかどうかも、工事を任せる相手を考えるうえで大切なことでした。
見積書の向こうに、暮らしが見えるようになりました
数日後、修正された見積書が届きました。
最初の金額より、少し下がっています。
けれど、夫婦が安心したのは、金額が下がったからだけではありません。
家を守るために必要な工事は、残っていました。
浴室と洗面所の寒さを減らす工事も、一階で眠れる部屋も、台所から居間へ声が届く計画も残っています。
その代わり、今すぐ必要ではない内装や、使う予定の少ない場所の工事を見直しました。
残す建具も増えました。
将来工事する可能性がある場所は、今の工事と重ならないように考えられています。
追加費用が生じる可能性のある箇所には、その理由と確認する時期が書き加えられていました。
すべての不安がなくなったわけではありません。
工事を始めれば、予定どおりに進まない日もあるかもしれません。
古い家だからこそ、開けて初めて分かることもあります。
それでも、何か見つかったときに、どのように説明を受け、どう判断するのかは確認できました。
夫は、修正された見積書の最後にある金額を見ました。
最初の日のように、そこだけを長く見ることはありませんでした。
ページを戻り、工事の項目を一つずつ見ていきます。
妻は、台所の図面を見ていました。
新しい台所の色ではなく、料理をする場所から居間がどのように見えるのかを確かめています。
「ここに立ったら、そっちに座っとる顔が見えるんやね」
妻が図面を指しながら言いました。
夫は、自分がいつも座っている場所を探しました。
「テレビばっかり見とらんようにせんとな」
妻は笑いました。
まだ工事は始まっていません。
家は、今までと何も変わっていません。
台所に立てば、妻は今も居間へ背を向けます。
浴室の床は冷たく、一階の和室では布団を上げ下ろししています。
廊下の段差も、そのままです。
けれど、見積書の中には、少し先の夫婦の暮らしが見えるようになっていました。
金額だけが並んでいた紙に、理由が加わったからです。
この工事は、雨から家を守るため。
この工事は、冬の寒さを減らすため。
この工事は、階段を使わず一階で眠るため。
この工事は、料理をしながら同じ時間を過ごすため。
この工事は、今までの家の一部を残すため。
何にお金を使うのかが分かれば、夫婦は自分たちで選べます。
高いか安いかだけではなく、その工事がこれからの暮らしに必要かどうかを考えられます。
最初の見積書を見た日、夫婦は金額に合わせて希望を削ろうとしました。
けれど、本当に必要だったのは、希望を急いで諦めることではありませんでした。
書かれている工事と、自分たちが望んでいる暮らしを、一つずつ結び直すことでした。
妻は、見積書を閉じる前に、余白へ書いた質問を見返しました。
そのほとんどに、答えが書き込まれています。
まだ分からないところには、次に確認する日が書いてありました。
分からないことが残っていても、分からないまま進まなければよい。
そのことが、夫婦には何より安心でした。
夫は見積書を封筒へ戻しました。
最初に届いたときより、紙の重さが少し軽くなったように感じます。
金額が小さくなったからではありません。
何のための工事なのかを、二人の言葉で話せるようになったからです。
見積書は、家を新しくするための金額表ではありませんでした。
この家で、これからどんな毎日を残したいのか。
そのために、何を直し、何を残すのか。
夫婦が一つずつ選ぶための紙でした。
