死と戦うことに疲れたので、死を風景化して眺めて生きることにした
鬱期になりました。
最近の鬱期には、強い「希死念慮」がありません。
また、ここ数年間わたしを苛んでいた「何かのはずみで死んでしまったらどうしよう」という死への恐怖感も薄れてきました。
楽です。
楽ですが、恐怖感が薄れてきたからこそ、ふっと死に引っ張られてしまう危険性を再認識しました。
始めは「戦おう」と思いました。
「書くこと」で抗おうと思いました。
というか、たぶんずっとそうして来たんです。
noteやXでは、あまりアグレッシブな面を出さないように気をつけてはいます。
でも心のどこかで、やっぱり荒野を歩いているんですよね。
でももう戦うことには疲れました。
だから違う形で「死」と付き合う方法を模索しました。
たぶんわたしにとって「死」はすぐそばにあるもの。
生きていればいつかは死ぬ。
なら、「いつか行く、でも今ではない」と思いながら「眺める」ことならできるかもしれない。
そのために、わたしにとっての「死」を、場所のようなものにたとえたい。
誰かにとっての「天国」が「花畑」であるみたいに。
それを眺めながら生きます。
では、わたしにとっての「死」はどんな場所か。
こんなふうに想像しました。
わたしにとっての「死」の風景は、
人工物よりも自然物に近い。
でも「花畑」はフィクションでよく見る風景なので、借り物のようなイメージが強い。
生きている時、躁鬱の波に揺られているので、「海」はどちらかというと「生」に近い。
崖だとちょっと怖い。
そんなふうに考えていった結果、わたしにとっての「死」の風景は、「川の向こうの草原」でした。
わたしが生きて歩いている場所は荒野なので、「生」である荒野と「死」である草原を隔てるものが、川になります。
その川は「時の流れ」でもあります。
それに沿って歩いていけばいつか海(波)にたどり着くと分かっているけど、わたしは歩き続けます。
海(波)にたどり着いたら、舟に乗ります。
躁の時もあるし、鬱の時もあります。
海のような激しい波に揺られている時は、「死(草原)」や「時の流れ(川)」は見えません。
陸地にたどり着いたら、また草原を眺めながら荒野を歩き始めます。
なかなか上手くできたんじゃないでしょうか。
この景色を描いたことで、わたしは荒野にも四季や昼夜があったことを知りました。
地図は歩いた場所のぶんしか描けませんが、記録をもとに「次はこのくらいの時期に、こんな海にたどり着くかも」という予測を立てていけます。
それは星を読むことに似ているかもしれません。
今、わたしは鬱期ですが、なんとか岸辺にたどり着きました。(現実的には、外出ができるレベル)
今日も草原の向こうに風が吹いているけど、わたしはそれを眺めながら、荒野を歩いて生きていきます。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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