単発SS|恋をしていたわけじゃない
恋をしていたわけじゃない。誰かに大事にしてもらいたかっただけ。彼もきっとそう。誰かを大事にしたかっただけ。
今ならそうだったと分かる。恋をした今なら。
「ただいま」
定刻に彼が帰ってくる。結婚してから四年目を迎えた頃、わたしが急にエプロンをし始めた時、彼は茶化さず「かわいいな」と言った。エプロンが? わたしが? 同棲時代ならきっと簡単に訊けた。
「疲れたなー」
そう言うと思って、晩ごはんは大きなハンバーグにした。デミグラスソースは仕込み済み。できたてを食べてもらいたいから、タネはこれからフライパンに並べる。
「みずきはどうだった? 仕事」
指だけでオッケーサインを作ってにっこり笑う。彼がほっと胸を撫で下ろす。わたしはずっと家にいて、人とのやり取りは全部チャット。彼ほど疲れることはしていないけど、彼は毎日こうして尋ねる。
わたしと彼は大学の友人同士で、卒業してから五年後に付き合い始めた。それまでに彼は恋人をなくして、わたしは病気で声をなくした。
勇気を出して参加した同窓会で、周囲が絶妙に距離を置く中、彼は露骨に優しかった。二次会は遠慮しようと帰路をたどりかけた時、彼が「一緒に帰ろう」と声をかけてきた。
彼の恋人は、わたしの知り合いの親友でもあった。その子のことをよく知っていたわけではないけれど、写真で何度かエピソードを聞いたし、彼は彼女とずっと一緒にいるんだと思っていた。
だからこの時、わたしに向けられた感情が、ある程度「誰でもいい」類のものだと分かっていた。わたしもそれでよかった。もう元気に振る舞うのは疲れた。この人になら甘えられる。
数回の食事を経て告白してくれた彼に、わたしは待っていたとばかりにうなずいた。わたしはあなたを置いて死んだりしないから、わたしに一生優しくしてね。彼の首に、鎖がかかった。
「ナイフとフォークと……。みずきは箸じゃなくてスプーンだよな」
わたしの居る場所ができて、彼の帰る場所ができて、ともにする食卓ができて、その鎖は次第にほどけた。細くて脆い鎖だった。今も足下に落ちていることを知っている。
「いただきます」
食卓に着いて、二人で手を合わせるけれど、一口目はいつも彼の横顔を見つめる。「うまい」とほころぶ表情を見届けて、わたしもようやくハンバーグを割る。肉汁とデミグラスソースが混じっただけで、喉がごくんと鳴ってしまった。
「早く食べてみな」
そんなわたしを彼が急かす。ふとしたこんな間に胸が跳ねる。食べるところを見られているのも、同棲時代なら恥ずかしくなかった。いつから恋をしていたのかと問われても記憶はなくて、ままならないことを数えて、こうして真っ当に恋をしていることを確かめる。
彼の手を取った日、わたしは恋をしていたわけじゃない。誰かに大事にしてもらいたかっただけ。彼もきっとそう。誰かを大事にしたかっただけ。今ならそうだったと分かる。決してわたしたちは浅ましくはなかった。
「おかわり行くわ」
そう言ってキッチンへ向かう彼の背中を見送って、わたしはなんでもない顔でハンバーグをつつく。彼がわたしに恋をしているかは微妙なところで、「かわいい」とは言ってくれるけれど「好き」とは言われたことは当然にない。
告白するのは、惚れさせてから? それとも驚かすために、今夜中にでも? 結婚してからの恋だから、こんな逡巡だって楽しいばかりだ。だけどひとつ決めていることがある。
伝える時、もう一度鎖をかける。わたしはあなたを置いて死んだりしないから、わたしに一生優しくしてね。
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