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創作BL|マリンスノー 第一章(完結済)

※この作品は、本編に自傷の描写があります。

この作品は、オリジナルバース設定のBL小説です。世界観のご案内はこちら。(読まなくても大丈夫)

▼あらすじ

〝春の海〟としては早かったけど、もう全部終わりにしようって思った夜。佐々に声をかけたのはオレだった。

そばにいるうちに、ふと佐々の孤独が、何度もひやりと指先に触れた。〝冬の海〟の佐々も、深くて静かな傷を、ずっと一人で抱え続けてた。

なのに、オレに「一緒にいよう」って言ってくれた。一回り大きな背中を抱きしめた夜、オレは初めて「神様」を呼んだ。

マリンスノー 第一章 はじまり



01 行き止まりの夜

 〝春の海〟だって診断されたのは十八の時。オレの腕にはひどい自傷痕がある。気味悪がったお母さんがオレを精神科に連れて行って、そこで告げられた。オレは病気、だったんだって。
 その頃オレは高校を卒業して、商業出版が軌道に乗ってきたところで、「自立したら」って体よく追い出された。お医者さんは薬をくれるだけだったから、〝春の海〟のことは自分で調べた。先天的な性質であること。二十歳前後から気分が不安定になること。二十五歳前後で多くの人が命を絶っていること。──〝冬の海〟と呼ばれる人に出会った人は、生存率が上がること。
 ああオレ、あと七年くらいで死ぬんだな。引越しの荷物をまとめながらぼんやり思った。それでもいい気がした。昔から変わった子だって、親からあんまりかまわれないで育ってきたし。友達も恋人もいたことないし。息ができたのは文章の中でだけ。
 それでもちょっとだけオレを心配したらしいお父さんが「市内に住め」って言うから、引越し先には市内の新築のアパートを選んだ。北向き、八畳、1K。内見した時は広く感じたけど、ベッドと机とイスと本棚を置いたら、あっという間にいっぱいになった。
 ここで死ぬんだろうか。どんな風に死ぬんだろうか。なるべく人には迷惑をかけたくないな。それも調べたら「雪山で死ぬのが一番マシ」なんて意見が出てきて、たぶん苦しくないって意味なんだろうけど、見苦しくはないだろうなって納得した。
 あとは書くだけ。書くのが仕事だから。書いて書いて二十歳になって、〝春の海〟の波とやらに悩むことも増えてきた。自傷の傷が塞がる前に新しい傷ができる。でもこれが今の波の形なんだと、見て、触って知ることができて、安心した。

 佐々と出会ったのは突然だった。腱鞘炎をこらえて書き続けて、ある夜どうにもならなくなって、張り詰めていた気持ちがぷつんと切れてしまった。1Kの部屋になんかいられなくて、夜の街に飛び出して、走って、走って、でもすぐに体力が尽きて──ああ、死ぬなら今なんじゃないかと魔が差して歩道橋をひいひい言いながら上がったところに、その男はいた。
「……待ち合わせ中?」
 用がないならどいてほしくて、妙な質問をしてしまった。その人は黒いジャージ姿で、この時間帯、サラリーマンの多い街では素性が知れなかった。
「まあ、ある意味」
「そう……。まあ、オレもなんだけど」
 死と待ち合わせ中。その時が来たら飛ぶ。別にこの人にかまわなくたっていい。オレは死ぬんだから。柵を上る時に止められたら力じゃ勝てないかもしれないけど──思案しているうちに遠くのカーブを急行列車が曲がる音がして、フェンスに手足を引っかけた時、隣の男が同じ動きをしていた。
「……え?」
「は?」
 思わず二人して直立する。急行列車が歩道橋の下をガタンゴトンと通り過ぎていく。口を開いたのはオレからだった。
「つかぬことをお聞きしますけど……あんた、死のうとしてた?」
「一応……。お前が来たからちょっと迷ってたけど」
「オレが止めたらやめようと思ってたってこと?」
「……まあ、そう」
 よく見るとすらっと背の高いその男は、顔もなかなか男前で悩むことなんかなさそうだったけれど、実は死を考えるくらいの苦労を抱えていて、しかも通りすがりの人間に結末を委ねるほど優柔不断らしい。
「あんた、〝春の海〟?」
「いや。なんでもないと思うよ」
「じゃあオレんち来て。なんかほっといてらんない」
「え、いや、俺、仕事場が家で」
「んなの明日くらい休んでよ。死のうとしてたんでしょ?」
 オレが175センチくらいだから、こいつは180センチくらいかな。でっかいなぁ。でっかい男が、うつむいて申し訳なさそうにうなじを掻いている。
「あんた、名前は? オレはモカ」
「も、モカ?」
「ペンネーム。あんたもテキトーでいいよ」
「俺は普通に……佐々。佐々あきら」
「ん。じゃあ佐々って呼ぶ」
 こうしてオレたちの共同生活は、オレの部屋から始まった。


02 命を拾ってみた

 ドアノブをつい右手で掴んで、激痛が走った。
「いっ……!」
「ケガしてる?」
「……ちょっと。大したことない」
「いや大したことないって顔じゃ……」
 オレのことはいい。とりあえずこいつを寝かさないと。なんとかドアを開けて、春の夜のひんやりとした空気に沈む部屋へ、初めて他人を入れる。
「寝るとこ、フツーに床だけど」
「いや。ありがとう」
 別に帰りたかったら帰ってもいいし、オレだってここまでする義理ないって分かってるんだけど、こいつ──佐々は素直に招き入れられて、部屋の真ん中に座ってくれた。クッションくらいはあるから、とりあえず枕に使ってもらう。毛布は……バスタオルを重ねてかければいいか。
「暗いところじゃ分からなかったけど」
 佐々が口を開く。死のうとしていたわりに、案外おしゃべりだ。
「お前、キレーな顔してるんだな」
 言われた瞬間、クッションを男前の顔面に叩きつけた。そう思うんなら言われ慣れてるって分かるよね?
「オレ、この顔嫌い。次言ったらぶっ殺す」
「はは。死ぬなってここまで連れてきたくせに」
 ──笑った。オレの顔のせいだと思うと不本意だけど。佐々だってきれいな顔してる。優しそうで、笑うと目つきがやわらかくなって、モテてきたんだろうなって顔。
「自分の顔が嫌いって、しんどくない?」
「フツーにしんどいけど。なに?」
「人に会わない仕事してる?」
 そう言って佐々は原稿用紙の束を指差した。ご名答。友達をつくるのが嫌で書いてばっかりいたら、高校生のうちに小説家としてデビューすることになって、今でも手書きをやめられないでいる。
「まあ、そう」
「手書きなんだ。今時」
「ちゃんとデータにはしてるよ」
「編集さんに任せればいいのに」
「別に大した手間じゃないから……」
「その腕は手書きで?」
 今度はサポーターのついた右手首を指差される。こいつ、連れてきておいてだけど、なんかやだな。他人の事情にどんどん踏み込んでくるじゃん。
「そうだけど」
「音声入力したら?」
「何それ」
「音声を認識して、テキストに起こしてくれるソフトがあるから。今度教えるから試してみな」
 そう言ってまた笑う。こいつの顔はキライじゃないかも。こいつも、他人の顔を褒めるってことは、自分の顔が嫌いじゃないんだろう。きっと親に愛されて育ったんだな。
「佐々だっけ? とりあえず寝て。シャワー浴びたかったら浴びて」
「シャワーは浴びた」
「死ぬ前に?」
「うん」
「ふは」
 やっぱこいつ、ヘン。でも佐々が切なそうに笑い返したから、それ以上からかうのはやめた。死ぬ理由なんて人それぞれ。その前に身を清める人がいたって、おかしくない。
「お前は?」
「ん?」
「へいきなの。……飛ぼうとしてたんだろ」
 右手が痛くて、ペンを握れなくて、もう書けないって思った時の心のゆらめき。たまたま〝春の海〟の波が重なったせいだと分かっていても、いつか死ぬなら今だってかまわないと思っていた。──けど。
「……今度にする」
「うん。そうしな」
 オレたちはそれぞれベッドで毛布をかぶったり、床でタオルをかぶったりして、照明を落とした。部屋に他人の寝息が響いてる。オレは妹がいたから共同生活は不得意ではないけど、それが他人──と思うとやっぱり心の隅がそわそわした。
 しかも自分が拾ってきた男だ。どうせいつか死ぬのに、こんなことをするなんて思ってもみなかった。


03 崩れかけた心に

 1Kにいつまでも大男を居候させておくわけにはいかないので、管理会社と大家さんに相談したら、空いてる隣室を貸してもらえることになった。佐々に「今の部屋の家賃は大丈夫なのか」って聞いてみたら「家賃はかかってないから」ってよく分からない返事が返ってきた。
 ともかくオレと佐々はお隣さんになった。
 佐々に教えてもらった音声入力ソフトで、小説の展開を吹き込んでいく。右手が痛くてしょうがないからやってるけど、自分の声って妙に上ずっていて苦手だ。顔が嫌い。声も嫌い。理由は分かってる。お母さんはよく言ってた。
『女の子だったらよかったのにね』
 長男として生まれたオレに、お母さんはよく溜め息をついていた。キレーな顔、かわいい声、名前だって中性的にしたのに、でもやっぱり男の子なのねって。男が嫌ならなんで結婚したの、って一度聞いてみた。そしたら「子供がほしかった」んだって。
 妹はお姫様みたいに可愛がられた。お母さんとお父さんは離婚しなかったけど、どんどん仲が悪くなっていった。オレはますます紙の上でしか息ができなくなって、書いて、書いて、小説家として生計を立てられるようになれたのはオレが〝春の海〟の性質を持つからだって気付いてはいるけど、どんなふうに生まれたら幸せだったんだろう。
 ──二年。この部屋で暮らしたけど、幸せじゃなかった。小説だって、自分が生きるために書いていて、でも大人になって誰もオレを見張ることがなくなって、生きろなんて強要されなくなって。二十歳──は、〝春の海〟にしては早いのかな。でもオレ、診断も早かったもんね。もういいよね。
 新築の真っ白な壁、真っ白な床、真っ白な廊下。それは脱衣所にも続いてる。やだなあ。新築だからおしゃれに造ってくれただけなんだろうけど、もっと古い部屋に住めばよかった。洗面所の引き出しから剃刀を取り出す。右手で握ると、腱鞘炎がズキンと痛む。でもいい。
「モカー」
 不意に玄関の外から、ノックの音と声がした。インターホンを押せばいいのに、ご丁寧に「佐々だけど」って名乗ってる。鍵は閉めてある。無視すればいい。今この状態から外になんか出られるもんか。そう思うのに、鍵がカチャリと回る音がして、ドアが開いた。
「モカ、ごめん。事情は後で話すから、……それ離して」
 脱衣所でしゃがみこんだオレに、目線を合わせるように、佐々もしゃがみ込む。心臓がばくばく鳴って、へたり込むように尻もちをついたら、佐々から剃刀を取り上げてくれた。
 塞がりかけた生傷の残る左腕に、佐々の指が触れる。
「自傷、何歳からしてた?」
「……十五くらい」
「そっか。早いな。ずっと……」
 しんどかったんだな、って佐々は言わなかったけど、抱きしめてくれて伝わった。あーあ、最悪。あの時〝春の海〟なのか、だなんて佐々に尋ねたから、佐々はオレが〝春の海〟だって分かっちゃったんだ。管理会社さんに相談して、たぶん合鍵もらってたんだ。自分が見ておくからって。助けたのはオレのほうのつもりだったのに。
「……そりゃあ、賃貸の部屋で死なれるよりは」
「うん」
「オレの人権無視するか、フツーにっ……」
 出るとこ出たら勝てそうだけど、オレは佐々にしがみついて泣いた。この傷を見て気味悪がらない人、止めてくれる人、しんどかったなって抱きしめてくれる人。全部、佐々が初めてだった。


04 初めて神様を呼んだ日

 気付いたら声を上げて泣いていた。しゃくりあげていた。鼻から懐かしい匂いがした。目がめちゃくちゃ腫れた。
「ちょーブス……」
「はは。かわいいと思うけど」
「そういうこと言うのやめて。ほんとに」
 ほんとに。そう言われて育って、特に心も痛まないできたんだなって思い知らされるから。でも佐々は本当に「かわいい」って言いたげにオレの頭をぽんぽん撫でる。
 春の脱衣所はさすがに寒くて、洋室に移動した。佐々に教えてもらった音声入力ソフトが、パソコンの画面上で開きっぱなしになっている。
「小説書いてる途中だった?」
「うん」
「……仕事上手くいってない?」
 佐々がそっとオレの手を握る。なんで自分を傷つけようとしたのか、探ろうとしているからだ。なるべく傷つけないように気を遣っているのは分かったから、オレもヘンに防衛するのはやめた。
「仕事は、フツー。でも、自分の声聞いてたら、なんで生きてんだろって思っちゃって」
「あー。合わなかったか。じゃあ手書きに戻しな。右手治るまで休めそうか?」
「たぶん……。ていうか、フツーに直で打ち込む練習する」
「うん。タイピング教えるよ」
「佐々、パソコン使う仕事の人?」
「一応。IT系」
 佐々のことに踏み込むのが、ちょっと怖い。自分のことも開示しなくちゃいけない気になるから。でも、気になってることがある。佐々がわざわざ合鍵までもらって、ここまで飛んできた理由。
「……佐々の家さ。家賃かかってないって言ってたじゃん」
「うん。実家だから」
 やっぱそうなんだ。ここまでは教えてもらえた。手も足も震える。隠したくて、ベッドに寄りかかるようにして、膝を抱えて座る。佐々も同じようにしてくれた。
「……あのさ」
「うん」
「佐々はさ、……ここまでしてくれたから、聞くけどさ……」
 どうしよう、オレが泣きそう。佐々の表情を見ていたかったのに、膝に顔をうずめてしまう。
「たぶん、〝冬の海〟だよね……?」
 佐々。たぶん佐々が「実家」って呼ぶもとの家には、お父さんもお母さんもいないんだよね? 〝冬の海〟って、孤独な人が多いって聞いた。感情の波が穏やかで、〝春の海〟を安定させる「対」として語られることもあるけど、本人も生きづらさを抱えてるって。
「……うん」
 そう答える佐々の声はやっぱり落ち着いている。でも少しくぐもって聞こえて、ちらりと盗み見たら佐々も膝に顔をうずめてた。
「モカ。手、つないでもいい?」
「ん……」
 佐々が顔を上げたから、オレもそうした。目を見て話そう。どんなに悲しい話でも。そっと指を絡め直して、熱を重ねる。
「俺の父さんが〝冬の海〟でさ。母さんが、〝春の海〟だった。母さんは父さんのおかげで、二十五歳頃の──『最初の嵐』も乗り越えることができて、俺が生まれて、ずっと仲良く暮らせてた。でも父さんが事故で死んだんだ」
 佐々に触れていないほうの手を、ぎゅっと握った。佐々に触れている手も、たぶん汗をかいていた。オレは佐々の言葉を、ちゃんと受け止めることができているだろうか。
「母さんも頑張った。俺が成人するまで、十年くらい。でも……だめだった。俺が十八の時、手首切って、色々薬飲んでて、間に合わなくて、……でも」
 佐々。心の中で佐々を呼ぶ。佐々は静かに泣くんだね。たった一人しか気付かない、たった一滴を落とす雨みたいに涙をこぼすんだ。
「最初に見つけたの、俺でよかったと思ってる……。〝冬の海〟は遺伝じゃないけど、父さんが〝冬の海〟だったって母さんから聞いた時、俺もそうかもって覚悟してたし、たぶん母さんも思ってた。死ぬ時、きっと俺を思い出して『やっぱりこうなった』『ごめんね』って思ったはずなんだ。だから……」
 こらえきれずに、佐々の頬に触れた。アーモンド形のきれいな眼からぽろぽろ涙がこぼれて止まらなかった。……だから、死のうとしてたんだ。もういい、って夜が佐々にも来たんだ。それをオレが止めちゃったんだ。だから……。
「だから、一緒にいよう。モカ」
 神様、オレにこの人を救う力をください。佐々の大きな背中を抱きしめて、初めてオレは「神様」の名前を呼んだ。


05 一緒に暮らそう

 日が暮れていく。北向きの部屋はどうせ陽なんて差さないから、カーテンは一日中閉めている。だから電気は朝からつけっぱなし。時間感覚を鈍らせるこの部屋に、また夜がやってくる。
「モカが自分の顔嫌いな理由、聞いてもいい?」
「……やだ。つまんない話だし」
「じゃあ、好きって言ってもいい?」
「……」
 あんまりダメダメ言いたくなかった。佐々のことを可哀想だと思ってるわけじゃない。けど「いいよ」って言ってくれる人が佐々の人生に一人でも多ければいいのにな、って思ったのは本当で、でもお父さんとお母さんはもういなくて、隣にいるのはオレなわけで。
「ていうか、好きなんだ……」
「うん。目が大きくて、まつげ長くて、お人形さんみたい」
「それ、お母さんにも言われた」
「……可愛がられて育った?」
「ううん。女の子だったらよかったのにって言われた」
「そっか」
 ぺろっとしゃべってしまった。自分の顔が嫌いな理由。もう全部話しちゃってもいいか。
「声も、それ。高くて好きじゃない」
「あー……。じゃあ音声入力、ホントにまずかったな」
「や、佐々のせいじゃない……。オレ友達いなくて。家出てからもずっと一人だったし、しゃべることほぼないもん。自分の声忘れてた」
「今は?」
「今?」
 今度は佐々の手がオレのほっぺたに触れる。オレは今、泣いてないけど、そういえばめちゃくちゃ声、発してる。
「……へいき。佐々、どうせオレの声も好きって言うんでしょ」
「はは。別に、かわいいから好きなわけじゃないけど」
 でも「かわいい」って言っちゃってるし。佐々って結構タラシかも。〝冬の海〟のタラシ率、統計取ったほうがいいかもね。
「で」
 佐々の声が部屋をシンとさせて、二人の視線がぶつかる。訊かれる。やだ。これは本当にやだ。
「佐々、だめ」
「だめか」
「うん……ごめん」
 オレの名前。別に大した名前じゃないし、教えたって「呼ぶな」って言えば済む話なのかもしれないけど。でも名前を明かさないことは「オレがこれだけ傷ついてきた」ってことをその人に証明するためのバリアみたいなものだったから、相手が佐々でもまだ言えなかった。
「じゃあこれからも『モカ』でいい?」
「ん」
「ペンネームだよな。なんで『モカ』?」
「本名絡み……。あと、性別不詳で書いてるから」
「なるほど」
 佐々がオレのプロフィールをどんどん暴いていく。なんか、これ……。友達も恋人もいたことがないオレでも、なんとなく察した。というか、佐々のことだから分かった。どこまで許してくれるか、距離を測られてる。
「じゃあ、モカが名前明かさないままっていうのが嫌じゃなかったら……なんだけど」
 佐々がオレの手をまた握る。オレも「大丈夫だよ」って伝えたくて握り返す。いいよ。ダメなんて言わない。本当はちょっと怖いけど。
「一緒に暮らそう。部屋に一人でいないほうがいい。気味悪くなかったら俺の家で、もし苦手だったら別に借りてもいいし」
「……佐々。佐々、そんなこと言わないで」
 佐々のお母さんが死んじゃった家。でも佐々がずっと住んでる大事な場所。そこに入れてもらえるなら、オレもいつか自分の名前くらい佐々に言えちゃう気がする。そうして「大した名前じゃないじゃん」って笑って。笑って生きたい。
「二人でいたい。佐々の育った部屋に入れて、佐々」
 笑っていたいだなんて、二人でいたいだなんて、初めて思って、涙がぼたぼたこぼれた。佐々は目を丸くして、でも顔をくしゃっとさせて、勝手知ったる我が家でタオルを持ってきて、腫れぼったい目を冷やしてくれた。


06 新しい季節の入り口

 佐々のおうちにお邪魔します。というか、もとの家は完全に引き払ってお引越し。市内だったからセーフってことにして、お父さんには引っ越したことを言ってない。もちろんお母さんにも、妹にも。季節は初夏を迎えようとしていた。
「モカ、集中できたほうがいいだろ。一つ部屋空けといたから」
 二階の一番奥の角部屋。二面採光。戸建てに住むの初めてだけど、たぶん一番いい部屋じゃん。隣は佐々の仕事部屋。その隣はまた角部屋で、布団が二つとタンスが置いてあった。寝室ってやつだ。
「水回りは自由に使って。台所も。小説家って生活不規則なんだろ」
「いや、いつの時代のイメージ……? フツーに朝起きて夜寝るよ」
「締切前とかは?」
「ちゃんとしてるし。……それなりに」
 佐々が笑う。築何年か分からないけど、戸建てって窓が多いんだな。リビングは三面採光の上に、天窓まであった。夏は暑いかもしれないけど、昼間は電気をつけなくてもよさそうだ。
 明るい家で育ったんだ、佐々。だから優しいんだ。タラシなんて思ってごめん。心の中でなんとなく謝る。でもこんな広い家でずっとひとりぼっちだったんだ。あの時、歩道橋の上で会えてよかった。
 よし生きるぞ、なんて拳を握っていたら、不意に背中から抱きしめられた。
「〝春の海〟のこと、ちゃんと分かってるから。新しい生活、苦手なんだろ」
「……大したことない。一人暮らしも平気だったし」
「でも、今度は二人だし。俺、基本的に家にいるから、〝波〟が来そうだったらすぐ言ってほしい」
「でも……」
 どのラインで呼べばいいのか分かんない。来てからじゃ遅いのは分かってる。でも「来そう」程度じゃしょっちゅう呼びそう。そもそも佐々にしてもらえることもないかも。
「ていうか、佐々の負担になんないか、不安かも」
「俺?」
「だって、オレがどうにかなったら、ヤじゃない?」
「どうにかって?」
 佐々っていじわる。時々察しが悪い。でも言わせるよりオレが言ったほうが誠実か。
「……オレがまた腕切ったり、命にかかわるようなことしたり。見たくないでしょ……」
「見たくないから一緒にいるんだろ。で、そうなった時はそばにいたいから」
 何かおかしい? って佐々が首をかしげる。理屈は分かる。その強さとか、愛情みたいなものが、オレに注がれているのが、ちょっと怖いなって思うだけで。
 でもオレはオレで、佐々のことさみしくさせたくないって決めたんだ。この家で暮らす。なるべく健やかに。
「そういえば佐々っていくつ?」
「二十四。モカは?」
「え、オレ、はたち……。敬語使いましょっ、か」
「はは。いいよ今さら」
 佐々が笑いながら、リビングのソファに腰掛ける。後ろには大きな出窓があって、ブラシやら手鏡やら、佐々の私物が置かれていた。このソファに、佐々のお父さんとお母さんも座ったのかな。心の中で「お邪魔します」と唱えて、隣に座る。
「モカ。俺はこれから一世一代の賭けに出なきゃいけないんだけど」
 心臓がばくばく鳴ってる。佐々が距離を詰めてくる。友達いたことないって言ったでしょ、手加減して、そう言いたいのに喉が熱くて、震える手が佐々の胸をそっと押し返すだけ。
「俺は、モカのことが好きなんだけど」
「……うん」
「モカもそうならいいなって思ってるんだけど。モカはどう?」
 これから一緒に暮らす相手に告白なんかして「NO」が返ってきたらどうするんだろう。同性だから気にならない? 恋人なんていたことないから分からない。でも、佐々のこと幸せにしたいって思った瞬間があるのは本当。
「『対』になるってこと?」
「それもある。けど、一人の人間として、モカとちゃんと向き合いたい」
 ──〝春の海〟と〝冬の海〟の「対」。必ずしも恋人同士である決まりはないけれど、パートナーシップ制度を認めている自治体もあるくらい〝春の海〟の生存率が上がるといわれている契りのこと。でも佐々が「対」も「恋人」も超えてオレと一緒にいたいって言ってくれているのはすぐに伝わった。
「……いいよ」
「ほんと?」
「うん……。でも、佐々のこと好きかは、わかんない。それでもいい?」
「いい。めっちゃいい。ありがと、モカ」
 それでもいいって言ったくせに、佐々はすぐにオレのことを抱きしめる。そのうち、どさくさにまぎれてキスとかされそう。それでもいいか。初めて未来を想像して笑った。
「……佐々。オレの名前ね」
「うん?」
「『かおる』っていうの。八雲かおる。かおるって呼んでもいいよ」
「……うん。ありがとう」
 あ、と思った時にはもう遅かった。佐々の唇が、オレの唇にくっついちゃってた。〝冬の海〟って、感情が安定してるんじゃなかったっけ? なんか聞いてたのと違うな。でも佐々自身に向き合うってこういうことかも。触れるだけの口づけで、とろけそうになっちゃって、ぼーっとしてたら、佐々がオレの頭を撫でた。
「いいよ、『モカ』で。自分で考えた名前だろ?」
「……うん」
「かわいいし」
「佐々ってかわいいのが好きなんだね……」
 オレが将来かわいくなくなったらどうなるんだろ、なんてモンヤリしながら睨んでみるけど、佐々はご機嫌でにこにこしてる。この人に限って、見放すなんてことはしないか。〝冬の海〟と「対」になると安定しやすいっていうの、本当かも。
「モカ、疲れてない? 近所案内するよ」
「あ、行きたい。ネットスーパー卒業する」
「そうしな」
 靴を履く。外に出る。そうしなくても生きていける日々を整えたけど、自ら破って人と暮らすことを選んだ。オレはまだ二十歳で、二十五歳までに来るっていわれてる「最初の嵐」もまだで、佐々にもそれは分かってるけど、今は光のあるほうへただ歩いていく。
 そしていつか、佐々に「オレも佐々のこと好きだよ」って教えてあげたい。今は海の底で掬った水みたいな想いだけど、ちゃんと形を見つけるから、待っててね。


マリンスノー 第一章 はじまり 了



第二章はTALESに投稿しています

※追記:創作BL用X作りました

ここまでお読みいただきありがとうございました!



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