76.シェクター写本
画像は以下のサイトから転載。
セプティマニア
前回までは、西ヨーロッパにオカルト思想を広めたアラブ人とイスラム教についてお伝えしてきました。
今回からは西ヨーロッパ、アル・アンダルス(スペイン)とセプティマニアを中心にお伝えします。
メガロマニアのような語感でなにを指す言葉なのかわかりづらいのですが、セプティマニアは地名です。

セプティマニアは中世ヨーロッパ史を語るうえでたいへん重要な土地なのですが、セプティマニアという地名を知っている日本人は千人くらいなのではないかと思います。
ウィキペディアには、「現在の騎士道物語につながるヨーロッパでの封建制が早くから進展したことで知られている。」とあります。
そしてウィキペディアには書かれていませんが、セプティマニアには多くのユダヤ人が居住していました。
のちにお伝えすることになるかと思いますが、アーサー王などの騎士道物語や聖杯伝説はユダヤ的なオカルト要素に満ちています。
十字軍の遠征にもユダヤ人が深く関わっています。ユダヤ人が十字軍をはじめたといっても過言ではないといえるほどです。
セプティマニアという地名の由来は、都市ベジエのローマ時代の名前Colonia Julia Septimanorum Baeterraeにあるのだそうです。
この名前は、ローマの第七軍団の退役軍人が住んでいたことを暗示しています。
セプティマニアの都市は、ベジエ、エルヌ、アグド、ナルボンヌ、ロデーヴ、ヴィルヌーヴ=レ=マグローヌ、ニームの七都市です。
フランスに関する最古の碑文は、七世紀のナルボンヌのユダヤ人のものが知られています。
ナルボンヌのユダヤ人はおもに商人で、西ゴートの王に対して叛乱を起こしていた人たちから人気がありました。
西ゴート族の多くはもともとユダヤ教徒だったのですが、八世紀に入ってキリスト教に改宗したため、今度はユダヤ人を弾圧するようになりました。
そこでユダヤ人が頼りにしたのがムーア人です。ムーア人は西ヨーロッパ人がイスラム教徒を指していう言葉です。
「ユダヤ人」の立ち位置は、バビロン捕囚の時代から変わりません。隠然と活動し、権力にすり寄り、突然裏切り世を乱す、というスタンスです。もはやお家芸といえます。
セプティマニアにユダヤ人が多く住むようになったのは、西ゴート王ワンバ(六四三年ごろ~)とトレドの司教ユリアヌス(六四二年~)の時代になってからです。
司教ユリアヌスはユダヤ人の両親の元に生まれたのですが、キリスト教徒として育ちました。そしてイスパニア(スペイン)の西ゴート王たちに、ユダヤ人を厳しく対処するよう勧めました。
ユリアヌスはセプティマニアのことを「神を冒涜するユダヤ人の売春宿」と呼んでいました。
ハザール王への手紙
紀元後四一〇年、西ゴート族がローマを征服したあと、ヨーロッパは分断された状態から抜け出しはじめました。
そして八世紀、のちのカール大帝、シャルルマーニュ(七四二年~)は、ヨーロッパの一部を自分の支配下に再統合しようとしました。
当時の南フランスは、スペインと同様、イスラム教徒の侵略の脅威にさらされていました。

ウマイヤ朝が西ゴート王国のイベリア半島を征服したあと、イスラム教徒はピレネー山脈を越え、七一九年にナルボンヌを征服しました。
そして七二〇年、ナルボンヌはイスラム勢力の下でセプティマニアの首都になりました。
ウマイヤ朝はさらに、ナルボンヌを拠点としてアキテーヌの征服を試みましたが、七二一年のトゥールーズの戦いで大敗を喫しました。

ですが大局的には、セプティマニアのゴート人が自治権と引き換えにウマイヤ朝に降伏してしまったため、ウマイヤ朝の版図はさらに西ヨーロッパの奥深くに食い込むことになりました。
七二五年、ウマイヤ朝はカルカソンヌを包囲しました。

ニームなどのセプティマニアの都市も同様に、攻守同盟を結ばされ、ウマイヤ朝の手に落ちてしまいました。
レコンキスタは、七一一年のウマイヤ朝のイスパニア(スペイン)征服から一四九二年のグラナダ陥落までの七八〇年間、イベリア半島で展開されたキリスト教領域とイスラム教領域との抗争を指して使われる用語です。
「再征服」という意味ですが、当然というか、のちの歴史屋がこしらえた造語です。
モルダビア生まれのアメリカ人ラビ、ソロモン・シェクター(一八四七年~)は、カイロのゲニザ(保管庫)で『シェクター写本』を発見しました。
『シェクター写本』は、フスタートのベン・エズラ・シナゴーグで発見されたユダヤ教徒の文書を指します。カイロ・ゲニザ、ゲニザ文書とも呼ばれます。
この『シェクター写本』によると、ユダヤ人の学者ハスダイ・イブン・シャプルート(九一五年~)は、失われた十氏族について知るため、ハザール帝国の王ヨセフと接触しました。
ハスダイは、後ウマイヤ朝の君主アブド・アッラフマーン三世(八八九年~)の廷臣で、かかりつけ医兼外交官でした。
ハザール人の国が存在するという報告は、ホラーサーン(イラン東部)からの使者によって確認されていました。さらにビザンツからの使者によってその存在の証拠は裏づけられました。
ハザール帝国についてはすでにお伝えしました。国を挙げてユダヤ教に改宗し、現在アシュケナージ・ユダヤ人(白人ユダヤ人)と呼ばれる人たちのルーツとされている国です。
なのでアシュケナージ・ユダヤ人は「ユダヤ人」ではない、古代イスラエル人となんの関係もない人たち、ということになるのですが、実際はもっと複雑な話なので、単純な陰謀論に染まる前にぜひ過去記事をお読みください。
ハスダイはまず、コンスタンティノープル経由でハザールに使節団を送り込んだのですが、ビザンツに阻止されてしまいました。

そこでハスダイは、エルサレム、ニシビス(トルコ南東部)、アルメニア、バルダ(アゼルバイジャン)を経由してメッセージを送ることにしました。北アフリカを通過する南ルートです。

当時、スペインのコルドバにはボヘミア王ボレスラフ一世の使節団が訪れていました。その使節団の中に、サウルとヨセフというユダヤ人がいました。
サウルとヨセフは、ハスダイの手紙をハザールに送ることを申し出ました。まずハンガリーに住むユダヤ人に送り、そこのユダヤ人が今度はルス(ロシア)に送り、さらにブルガル(おそらくブルガリア)を経由してハザールの首都イティルに送る、という計画でした。上方ルートです。

ちなみにボヘミアは、現在のチェコ西部にあたります。
ハスダイはこの手紙の中で、九世紀のユダヤ人旅行者エルダド・ハ・ダニの物語について言及し、ハザール人は奇跡の終わり(メシアの到来)についてなにか知っているか、とたずねました。
エルダド・ハ・ダニは八八三年、東方にユダヤ人社会が存在し、失われた十氏族の一部(シメオン族の一部とマナセ族の半分)が「ハザールの地」に住んでいる、とスペインのユダヤ人に伝えた人です。
ブルガリアのアガサ
先に出てきたボヘミアのボレスラフ一世は、ブルガリアのアガサとして知られる(こともある)女性の祖先です。

アガサは謎めいた人物で、エドワード・アシリング(一〇一六年~)、別名亡命者エドワードの妻です。
そしてアガサの娘は、かの有名な聖マーガレット・オブ・スコットランド(一〇四五年ごろ~)です。

なのでアガサの出自はものすごく重要なのですが、史料的には「真実」をつかむのは今後も絶望的なようです。
一〇一六年、イングランドはデーン人に侵略され、デンマーク王子クヌートがイングランド王に即位しました。
クヌートは、エドマンド二世(九九〇年ごろ~)の子エドワード・アシリングとエドマンドを大陸に追放しました。エドワードは生後数か月でした。
殺すようにとの指図書きとともにスウェーデン王オーロフの王宮に連れて行かされたのですが、エドワードは密かにキエフに運ばれました。キエフ大公ヤロスラフ一世の王妃インゲゲルドがオーロフの娘だったからです。
キエフといえばハザールです。キエフはかつてハザール帝国西部の交易と行政の中心地で、紀元後八世紀はじめごろにハザール人によって築かれました。
八八〇年ごろに急速に勢力が衰え、ノヴゴロドのオレグ(九一二年ごろ~)はキエフの支配者アスコルドとジールから支配権を奪い、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)の礎を築きました。
キエフ・ルーシは、スヴャトスラフ一世(九四七年~)の統治時にハザール帝国に侵入し、九六七年、首都のイティルを破壊しました。
エドワード・アシリングは、さらにキエフからハンガリーに移されました。そしてアガサと結婚することになります。
長い年月が経ち、クヌートが死んだあと、エドワードの叔父のイングランド王エドワード懺悔王(一〇〇四年ごろ~)は、エドワード・アシリングが生きていたことを知ります。
そして自分の継承者にするため、エドワードをイングランドに呼び戻しました。もちろん奥さんのアガサも同行しました。
アガサについてはあらためてお伝えすることになるかと思いますが、この人は南フランスのギレム家、ハザール人の血を引く東欧の一族、そしてスペイン貴族たちの婚姻関係を象徴する人物です。
いわくありな人物がイングランドの地に入り、そして歴史は動き出します。
ダビデの血筋
ギレム家は、ダビデ王の血筋を引くとされるユダヤ人一族です。
ハスダイが知りたがっていたメシアは、いうまでもなく、ユダヤ教の終末論におけるユダヤ人の救済者です。そしてメシアはダビデ王家の血筋から出る、とされています。
いきなり下世話な話になりますが、権力者としては、ダビデの血を引けるのであれば引いておいたほうが得です。ただし周囲に認められなければただの自称で終わってしまいます。
ですが結局認められました。このあたりの感覚が、現代人、とくに日本人にはつかみづらいところです。
ダビデの血筋など嘘に決まっているだろう、そんな嘘に騙される昔の人は愚かだったのだなあ、などとわたしたちは結論づけてしまいがちです。
当時の社会は、迷信も含む宗教的「意識」が濃密に浸透し定着していました。その「意識」どうしが接触し合うので、当時の世界には神も悪魔も悪霊もダビデも存在していました。
これでいちおうの説明にはなるのですが、これだけだとやはり「昔の人は愚かだった」という印象を与えることになります。
社員全員が社長を恐れていたら、自分もまた恐れるようになります。ですが社長が怖いというのは迷信に過ぎません。
そしてハスダイのような実力者は現代人よりよほど頭がいいので、会社に属しながらも社長を盲目的に恐れていません。
ですが全員が「社長が怖い」と考えている世の中なので、ハスダイも冷笑的ではいられず、心の底から社長を恐れています。
そして頭のいい人なら、ダビデを政治的に利用しようとするはずです。上述のような「意識」が前提にある中で、です。
ギレム家についてものちほど詳しくお伝えしますが、神や悪魔や悪霊を忘れた現代人は、むしろ知的に不幸な存在です。
わたしたちは啓蒙思想によって「目を開かれ」、本質的ではないものに向かってひたすら精力を傾けている愚か者たちです。
王子たちの十字軍
アガサが象徴する三つの勢力の子孫たちは、第一回十字軍の一部、「王子たちの十字軍」につながるさまざまな一族との結びつきを形成します。
そしてこれらの子孫は何世紀にも渡り、ヨーロッパの歴史を支配しつづけることになります。
さらにこれらの一族は、「聖杯」の家系とされる人たちを構成することになります。
「ダビデの血統」という裏づけにおいて、です。
聖杯伝説は、一般には騎士道文学での聖杯を追い求める物語全般をいいますが、実際にはカバラ的な秘儀で、十三世紀後半に突然登場しました。
紀元後数世紀以来すっかり姿を消していたグノーシスが突然再登場したのです。これは十字軍のエルサレム征服と帰還が密接に関係しています。
メルカバとセフェル・イェツィラー(形成の書)の教義は、九世紀後半にはイタリアと南フランスのユダヤ人社会全体に広まっていました。
そうしてそれが、中近東と、のちにドイツや南フランスで発展するカバラとの中間的なつながりとなりました。
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