65.オーディン
画像は以下のサイトから転載。
アルサレト
今回もしつこくゴグとマゴグを追っていきます。
中世の時代、ユダヤ教のラビや律法学者の一部は、失われた十氏族を地理的に特定しはじめました。
ですがやはりというか、特定した場所は人それぞれでした。
ユダヤ教ラビで哲学者で律法学者のマイモニデス(一一三五年~)はこのように書いています。
わたしは十支族がヨーロッパの各地にいると信じている。
モロッコ生まれのラビでカバラ学者のモーゼス・ベン・イサク・エドレヒ(一七七四年~)もまた、失われた十支族がヨーロッパにいると信じていました。
著書『十支族の歴史的説明』(一八三六年)にはこうあります。
偉大な地理学者であるオルテレオスは、タタール人(スキタイ人)の記述をするなかで、アルサレト王国に注目している。そこでは、十支族がスキタイの住民の後を継ぎ、神の栄光を強く重んじたため、ガウテル(ゴート)と名乗った。また別の場所では、ナフタリ族を発見し、かれらはそこに大群を構えていた。かれ(オルテレオス)はまた、北方にダン族を発見した。……かれはさらに、古代イスラエルの遺跡は、モスコビア(モスクワ大公国)やポーランドよりも、この地に多く残っていたとも付け加えている……そこから、かれらの居住地はタタール(スキタイ)に定住しており、そこから近隣の地へと移動していったと結論づけている……十氏族がそこに分散していたとしても不思議はない。なぜなら、かれらが移住させられたアッシリアから行くのは大した距離ではなく、かれらのあいだにはアルメニアしかなかったからである。
ユダヤ教とキリスト教の外典、第四エズラ書では、十支族は紀元前八世紀にホセア(紀元前七三一年ごろ~)によってユーフラテス川の狭い通路まで運ばれた、とされています。
ホセアは北イスラエル王国最後の王です。アッシリアに従属する名目的な王だったのですが、紀元前七二七年にティグラト・ピレセル三世が死んでシャルマネセル五世があとを継いだ際、ホセアはシャルマネセル五世が広大な領土を維持できないだろうと考え、エジプト王の支援を頼りに貢納を停止しました。
もちろんシャルマネセル五世はイスラエルを攻撃しました。ホセアは三年間アッシリア軍に抵抗しましたが、紀元前七二二年に降伏し、これをもって北イスラエル王国は滅亡しました。
紀元前七二〇年にシャルマネセル五世が死ぬと、空位のままイスラエルで叛乱が起きましたが、シャルマネセル五世の後継者のサルゴン二世に鎮圧され、イスラエル人はペルシャ地方に連れて行かされました。有名なアッシリア捕囚です。
第四エズラ書では、アッシリア捕囚のサイドストーリーを展開しています。
十支族たちは、異教徒の群れを離れ、人類が住まない遠い国に行こうと相談しました。
そして十支族は、「アルサレト」という場所まで一年半の旅をしました。
アルサレトは、アラス川と関連します。アルメニア、イラン、アゼルバイジャンの国境を流れていて、創世記第二章に出てくるギホン川に推定される重要な川です。

またアラス川は、サンバティオン伝説に関連しています。
前回もお伝えしましたが、九世紀のユダヤ人旅行家、エルダド・ハ・ダニは、失われた十氏族はサンバティオン川にいた、と記しています。
サンバティオン川はサバト川(安息日川)とも呼ばれ、安息日的な動きをします。
ものすごい力で石を運んでくるくらいの激流なのですが、安息日には休みました。ですがユダヤ教の人は安息日に旅をしてはいけないので、やはり渡れません。
中世のアラブ人地図学者、ムハンマド・アル=イドリースィー(一〇九九年ごろ~)は、サルメルの都市はドン川であるアル・サブト(サンバト)川に位置していた、と語っています。
東ローマ皇帝コンスタンティノス七世ポルフュロゲネトスは、キエフを「サンバタス」と呼んでいました。
アルサレトは、アスガルドと同じ可能性があります。アスガルドはスカンジナビア人とサクソン人の伝説上の故郷です。
ヨセフスは『ユダヤ古代誌』でこのように記しています。
アジアとヨーロッパには、ローマ人の支配下にある部族は二つしかない。一方、十部族はユーフラテス川を越えて現在に至っており、その数は膨大で、数で推し量ることはできない。
ホセア書の一章にはこうあります。
(神は)イスラエルを(パレスチナから)完全に取り去り……イスラエルの子孫の数は、測ることも、数えることもできない海の砂のようになるであろう。
『ハザール書簡』では、ハザール帝国のヨセフ王はこのように手紙に記していました。
わたしがいま住んでいる(ヴォルガ川沿いの)土地は、以前はブルガリア人が占領していた。わたしたちの祖先であるハザール人がやってきてかれらと戦った。ブルガリア人は海辺の砂のように多かったが、ハザール人には歯が立たなかった。
ユダヤ教に改宗しただけあり、聖書を知っている言いまわしです。
ハザール人は、スキタイなどの遊牧民の寄せ集めでした。スキタイはヤペテの子孫、白人で、ゴグとマゴグと同一視されています。
スキタイ人は「サク」「サカエ」と呼ばれていました。これらは「イサクの息子たち」に由来するという説もあります。
スカンジナビアとスキタイ、サクソンとサカエ。どことなく似ています。
そしてイサク(サク)の息子は、ヤコブ(イスラエル)とエサウです。
セムとヤペテはノアの息子で、アブラハムの子イサクに通じるのはセムのほうです。
ヤペテの子孫は広く世界に散っていて、そこにコーカサス山脈を越えて失われた十氏族が侵入し、同化したというイメージです。
サカエ
ユダヤ百科事典の「失われた十氏族」の項にはこうあります。
サカエまたはスキタイ人を十支族と同一視するのは、かれらがシャルマネセル(五世)に連れ去られたイスラエル人と同時期に、しかもほぼ同じ場所で歴史に登場するからであり、イギリス人、さらにはチュートン人全体を十支族と同一視する説のおもな根拠の一つである。
このチュートンは、チュートン騎士団のチュートンです。古代ゲルマン人の一派テウトネス族を指し、ユトランド半島に住んでいました。

ちなみにチュートン騎士団はドイツ騎士団とも呼ばれます。
地理学者のストラボンは、『地理誌』でこう記しています。
古代ギリシャの歴史家たちは、北方の諸国民をすべてスキタイ人、ケルト=スキタイ人という通称で呼んでいた。(しかし)これらよりもさらに古代の作家たちは、エクシノス(黒海)、ドナウ川、アドリア海の上流に住む諸国民を(それぞれ)、ヒュペルボレイオス、サルマタエ、アリマスピと呼んだ。カスピ海の対岸に住む民族については、ある民族をサカエ、ある民族をマッサゲタエと呼んだ。
古代ローマの学者クラウディオス・プトレマイオス(八三年ごろ~)は、メディアから来たサカエから派生したスキタイ人をサクソン人と呼んでいました。
プリニウスは、「サカエはスキタイの最も優れた民族の一つで、アルメニアに定住し、サカエ=サニと呼ばれた」と記しています。
またカール大帝の家庭教師だったアルビヌスは、 「サクソン人はアジアの古代サカエの子孫である」といっています。
ストラボンは『地理誌』でこう報告しています。
サカエは、キンメリア人やトレレスと同じように、あるときは自国に近い地域に、またあるときは遠く離れた地域に襲撃を加えた。例えば、かれらはバクトリアナを占領し、アルメニアで最も良い土地を手に入れ、自らの名をとってサカセネと名づけた。
また、カッパドキア人、特に現在ポンティチと呼ばれているエクシノス(黒海)に近い人々の土地まで侵略した。しかし、かれらが祭りを行い、戦利品を楽しんでいたとき、当時その地域にいたペルシャの将軍たちに夜襲を受け、全滅させられた。
この将軍たちは、平野のある岩の上に土を盛って丘の形に完成させ、その上に城壁を築き、アナイティスとその祭壇を共有する神々(ペルシャの神々であるマヌス神とアナダトゥス神)の神殿を建立した。
そして、年に一度の神聖な祭り「サカイア」を制定し、ゼラ(この地名はこう呼ばれる)の住民は今日に至るまでこれを祝っている。
ストラボンの記述にあるとおり、ペルシャ人は古代バビロニアのザクムクに由来するサカイアというお祭りを祝っていました。ザクムクは神聖な王の殺害を伴うお祭りでした。
アナイティスはアナーヒターのことで、ミトラの母です。色白の腕を持ち、黄金のアクセサリーや衣装で身を固めた美しい乙女の姿であらわされます。
小アジアで見られるサカイアは、女神アナイティスの崇拝と伴って祝われていました。
ストラボンは、サカイアは春分の日に行われたバッカスの祭りの一種で、祝宴の参加者はスキタイ人に変装し、女性たちは昼夜を問わず酒を酌み交わし、歓楽に浸ったと記述しています。
スキタイ人の格好をするのは、キュロスがサカエと戦った際のエピソードから来ています。
キュロスは宿営地にブドウ酒などを残して出立しました。逃走するふりをしたわけですが、引き返してみるとスキタイ人が全員酔っぱらって気が狂っていました。そしてキュロスはスキタイ人全員を殺しました。
これは神による幸福な出来事だとキュロスは考え、その日を女神アナイティスに奉献し、サカイアと呼んだわけです。
ジェームズ・フレイザーは、ハザール人に見られる王殺しの儀式と驚くほど類似していると指摘しました。
そこでは、王は、定められた任期が満了したとき、あるいは干ばつ、飢饉、戦争での敗北など、なんらかの公的な災難が生じたときに、その天賦の才の失敗を示すものとして、死刑に処せられることになっていた。ハザール人の王が組織的に殺されていた証拠は、古いアラブ人旅行者の記録から引き出されたものであり、わたしが別の場所で収集したものである。
ザクムクが行われていたバビロンは、だいぶ前にお伝えしたとおり、邪教の創始者セミラミスが建設した都市です。
ヴァイキング
サクソン人はヴァイキングと同様に、ウルディン(のちのオーディン)、ヴォータンの子孫だと主張していました。
ウルディンはフン族の族長の一人で、歴史上はじめて個人名が知られた人です。
フン族については、以前お伝えしたとおりです。
『ユングリング家のサガ』は、十三世紀のアイスランドの歴史家スノッリ・ストゥルルソンが書いたサガです。
これによると、北欧神話の主神オーディンはアスガルドの地からやってきました。
アスガルドは、黒海の北西、ドン川の流域にありました。

スノッリ・ストゥルルソンはこのように記しています。
北東から南西にかけて大きな山脈があり、大スヴィーショーズ(スウェーデン)とほかの王国を隔てている。この山の尾根の南は、オーディンが大きな領地を持っていたタークランドまで遠くない。
なぜスウェーデンと思われたかもしれませんが、当時は黒海の北の土地は大スヴィーショーズ(スウェーデン)と呼ばれていました。
スノッリは、スカンジナビア人の祖先であるオーディンが 「タークランドから旅立つ準備をし、大勢の人々、若者、老人、男、女に連れられ、高価な品々を持っていた 」と語っています。
またスノッリは、ドン川の東の地がアサランド、あるいはアサヘイムと呼ばれていて、そのほかの主要都市がオーディンの故郷アスガルドと呼ばれていた、と語っています。
その都市、アスガルドは、コーカサスの尾根に位置するチャスガルの可能性があります。
チャスガルはハザールの中心地で、コーカサス以北の歴史の記録にはじめて登場した地域です。
ちなみに「歴史」を記すのは、いつもコーカサスの南の人たちでした。北の蛮族はただ暴れるだけです。
言語も含めてまったく異なる文化を形成していましたので、自然の要害、コーカサス山脈は、歴史的にかなり重要なのです。
オーディンは、ウラル山脈の南、ドン川のほとり、そしてチャスガルにも領土を持っていました。
チャスガルという名前は、語源学者によって「チャザスガル」「カザーク」と結びつけられてきました。ChazarはKhazariaの訛りと考えられます。
当然、ハザール人の居住地がエスノニム(民族名)で呼ばれるケースはほかにもあります。
北欧の神がハザールと結びつくのはかなり興味深いことです。
ノルウェーの人類学者で探検家のトール・ヘイエルダール(一九一四年~)は、コンティキ号で有名な人です。
九〇〇年前のアイスランドのサガには、オーディンはアスガルドまたはアサーズハウスと呼ばれる東方の土地からスカンジナビアに移住した、と記されています。
トール・ヘイエルダールは、スノッリがアセス族、アラン族、またはエーシル族として指摘した人たちが、アゼルバイジャンのアゼリ人だという可能性を示唆していました。
アゼリという言葉は、ヴァイキング時代には存在していました。テュルク系(トルコ系)民族を意味し、現在のイラン領アゼルバイジャン、つまりペルシャに由来します。

また、アゼリ人はメディア人の子孫です。つまり超白人です。
遺伝子研究者のデイヴィッド・フォウは、あらゆるグループの中でアゼリ族の遺伝子サンプルだけが、シェトランド諸島で検査された人たちと非常によく似たハプロタイプを含んでいることを発見しました。

シェトランド諸島は、ヴァイキングが定住した地です。
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