44.コンマゲネ②
画像は以下のサイトから転載。
前回に引きつづき、ゾロアスター教のミトラとローマのミトラ教を「仲介」したとされるコンマゲネ家についてお伝えします。
ネムルト・ダウ
コンマゲネの支配者たちは、「歴史的経緯」から、アレクサンドロス大王やペルシャの王との王朝的なつながりを主張することができました。
これによってセレウコス朝(シリア)、アルサケス朝パルティア(イラン)、ローマ帝国の領有権の主張に対抗することができました。

そして大事なのは神です。コンマゲネの支配者たちは、自分たちの王国はヘレニズムとペルシャの二つの文化を承継している、と見なしていました。
なのでコンマゲネの神々と儀式は、古代ギリシャとペルシャとアルメニアがごっちゃになっていました。
そのためコンマゲネの王たちは、アンティオコスという名前とミトリダテスという名前を交互に使うようになります。
ミトリダテスは「ミトラの贈り物」という意味です。
コンマゲネ王のアンティオコス一世テオス・ディカイオス・エピパネス・ピロロマイオス・ピルヘレン(紀元前六九年~)は、ネムルト・ダウを築いたことで有名です。

長すぎるフルネームの意味は、「公正な神、偉大な神、ローマ人の友、ギリシャ人の友アンティオコス一世」です。
小国だけあり、巨大な隣国に対する政治的な配慮がうかがえます。また神を自称し、文化的なアピールをしっかりと含めてもいます。
アンティオコス一世はオロンティド朝の血を引くイラン人とギリシャ人のハーフです。オロンティド朝の創始者オロンテスはアルタクセルクセス二世(紀元前四三五年~)の娘ロドグネと結婚したので、アンティオコス一世はダレイオス一世の子孫であるとも主張しました。
アルタクセルクセス二世の本名はアルサケスといわれています。アルサケス、マッサゲタイ、サカラウリなど、スキタイの部族に関連する人たちの名前には「サカ」が含まれています。
スキタイ人は白人の遊牧民族です。コーカサス山脈の北、南ロシアとウクライナあたりにおもに暮らしていました。

真ん中が黒海、右がカスピ海で、あいだに挟まれた「国境」ラインがコーカサス山脈です。ペルシャを攻めるつもりなら、カスピ海の東側(西アジア)からイランに侵入することもできます。西はボスポラス海峡を抜けなければならず、コーカサス山脈越えも難関です(山脈の南北では文化がまったく異なります)。
イランといえば、いわゆる「アーリア人」です。インド・ヨーロッパ語族ともいわれます。
つまりコーカサス山脈の南、アジアを地理的に見ると、白人はむしろアジア、東側にいたということです。そして前回もお伝えしましたが、ギリシャ・ローマ人はヨーロッパ人のルーツではありません。
アンティオコス一世は、アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)の血も受け継いでいました。アンティオコス一世の母はセレウコス朝シリアのギリシャ人王女です。宗教文化的にはアピールに適した血統です。
ネムルト・ダウは、山の頂にある巨大墳墓です。神々に囲まれた王の巨大な彫像が特徴で、アンティオコス自身、二頭のライオン、二羽のワシ、ゼウス=アラマズド=アフラ・マズダ、ヘラクレス=ヴァハグン、テュケ=バクト、アポロ=ミル=ミトラなど、ギリシャ、アルメニア、ペルシャの神々がごっちゃになっていました。

アポロはミトラ、ヘリオス、ヘルメスと同一視されていました。神々の脇には、紋章のシンボルであるライオンとワシがいます。
ちなみにライオンは、伝統的に王侯に好まれてきた動物です。大洪水後は人類より森の獣のほうが数を増し、獣にはライオンやヒョウも含まれていました。ふつうにデンジャラスな世界です。
「力強い狩人」は需要があったので、人類史上はじめて神になった男ニムロデは、暴君として君臨できたわけです。
アンティオコス一世も「神」なので、ネムルト・ダウから十五キロ離れたアルサメイアという古代遺跡では、アポロと政治家のように握手する石碑が見つかっています。

またアンティオコス一世は、ミトラとギリシャ神話のヘラクレスを同化しました。これがミトラ教の初期形態となったのですが、学者たちは例によってその可能性を否定しています。
ヘラクレスといえば十二の功業、柱、そして蛇です。
この時期はほかの地域でも、ペルシャ帝国の崩壊による宗教的大混乱が起きていました。宗教シンクレティズムです。オリエントの神学とギリシャの哲学がごっちゃになり、結果として驚くべき組み合わせを生み出しました。また異なる信条間の競争も活発になりました。
カルトのマギは機に乗じ、信者獲得のためのプロパガンダを行っていました。
ローマの接触
コンマゲネはセレウコス朝シリアの属国時代、文化的にかなりヘレニズム化されていたのですが、紀元前一世紀にイラン文化が復活を遂げます。
アンティオコス一世は、パルティアに対抗するグナエウス・ポンペイウス・マグヌスを支持しました。「ローマ人の友人」だからです。それによって紀元前六四年にはさらなる領土を与えられました。
ペルシャ帝国はセレウコス朝の下でギリシャの支配に屈していましたが、紀元前二世紀にはパルティア人の下で再興しました。

パルティア人はカスピ海南東の地域で生まれた半遊牧民で、アルタクセルクセス二世の末裔を名乗るアルサケス一世(紀元前二四七年~)が統治していました。
パルティアはアルサケス朝とも呼ばれます。つまりパルティア人はスキタイ人です。
歴史家ストラボン(紀元前六四年~)の『地理誌』にはこうあります。
スキタイ人のアルサケスは(オカス河畔に住むダハエの一族で遊牧民と呼ばれるパルニ族とともに)パルティアに侵入し、パルティアの支配者となった。当初、アルサケスもその後継者たちも、領土を奪われた者たちとの戦争をつづけ、弱体化していた。その後、かれらは戦功を上げ、隣国から領土の一部を奪いつづけた結果、非常に強大になり、ついにはユーフラテス川流域の全土を手中に収めた。
紀元前二世紀、パルティアはミトラダテス一世と弟のアルタバヌス二世の征服によってイランの支配権を確立しました。そこから西のメソポタミアに拡大していきました。
アルメニア(白人国)はコンマゲネへの影響力を拡大していましたが、ポンペイウスがアンティオコス一世に宣戦布告したので、アンティオコス一世は仕方なくローマ側につきました。
アンティオコス一世は「ローマ人の友人」のわりにはいろいろ怪しかったらしく、キケロの情報提供者の中には不信感を抱く人もいたそうです。
またアンティオコス一世は、パルティア支配下のメディア・アトロパテネ王国のダレイオスと仲良くしていたようで、ポンペイウスに対してはダレイオスに協力したようです。

アンティオコス一世はパルティアの君主オロデス二世(紀元前五七年~)と同盟を結び、オロデスはアンティオコスの娘ラオディケと結婚しました。
紀元前五一年、アンティオコス一世はキケロにパルティア軍の動向に関する情報を提供しました。
そして結局はイラン人の血が勝ったのか、最終的にはローマよりパルティアを選びました。
紀元前三八年、パルティアのパコルス一世はローマ軍に敗れて殺され、残党はコンマゲネに逃れました。
マルクス・アントニウス派の将軍プブリウス・ウェンティディウス・バッススは、アンティオコス一世を罰するためコンマゲネに進軍し、首都サモサタを包囲しました。
アンティオコス一世は千タラントン(通貨単位)でローマとの同盟を再開しようとしましたが、総司令官マルクス・アントニウスは拒否しました。そして将軍ウェンティディウスを解任しました。
なぜ解任したのかというと、アンティオコス一世からの賄賂だとかんちがいしたからか、ウェンティディウスが戦功を上げていたので嫉妬のあまりかんちがいしたふりをしたからか、のいずれかです。どちらにしてもドロドロの政治です。
結局マルクス・アントニウスもサモサタを占領できず、三百タラントンという提案を受け入れることになりました。金額がだいぶ安くなっています。
マルクス・アントニウスがアウグストゥス(紀元前六三年~)に敗れたあと、コンマゲネはローマの盟邦国家となりました。このような政況が、ミトラ教のローマへの移管につながる人間関係のはじまりとなりました。
ミトリダテス六世
ポントスにもミトリダテスという王が何人もいます。もちろんミトラを崇拝していたからです。

ミトリダテス六世(紀元前一三二年~)は、東方の覇権を握るため、共和制ローマに三度もケンカをふっかけた人物です。ローマにとっては最大の敵だったとのことですが、強いのはもちろん、ミトラがついているからです。
当時はキリキアの海賊たちもローマの脅威となっていました。著述家プルタルコス(紀元後四六年ごろ~)によると、キリキア海賊はもともとポントスのミトリダテス六世によって組織されました。なので当然、海賊たちもミトラを崇拝しています。
かれらはオリンポス山で奇妙な生贄を捧げ、ある秘密の儀式を行う習慣があった。そのうちのミトラの儀式は、それが最初に確立された人々によって今日まで維持されている。
ローマのミトラ教は、兵士たちの宗教でした。戦争はつまり接触であり、ミトラを知る機会になります。そしてローマが強敵の守護神に注目したのは容易に想像できます。
ローマが知ることになるミトラは、これまで見てきたとおり、イランから直に伝わったものではありませんでした。その伝播は、系図の捏造や祖先アピールでマウントを取ろうとしたアジアの国々経由です。
ミトリダテス六世の最期は、十七世紀フランスの劇作家ジャン・ラシーヌの戯曲『ミトリダート』に描かれています。
この戯曲は十八世紀の多くのオペラの原作になり、中にはモーツァルト(フリーメーソン)のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』(Mitridate, re di Ponto)も含まれています。
ちなみにミトリダテス六世は、毒に対する免疫をつけるため、少量の毒を定期的に摂取していました。
そのうちミトリダテス六世は万能解毒剤なるものを発明し、それをローマの学者ケルスス(紀元前二五年ごろ~)が、『医学書』の中でAntidotum Mithridaticumと名づけました。これは英語のMithridate(解毒剤)の元となっています。
少量の毒といえば、十五世紀から十六世紀に「活躍」した錬金術師パラケルスス(本名フィリップ)です。

脱線しますが、ビタミンDはコレカルシフェロールです。そしてコレカルシフェロールは殺鼠剤です。
コレカルシフェロールは1936年に最初に説明された[11]。世界保健機関の必須医薬品リストに記載されている[12]。コレカルシフェロールは一般用医薬品であり、後発医薬品として入手できる[4]。多量のコレカルシフェロールは、殺鼠剤としても用いられる[13][14]。
製造者安全データシート(MSDS)で成分を調べると「危険物質」などとダイレクトに書かれているのですが、少量の毒は薬という印籠があるため、医者自身すらも騙されていたりします。
ミトリダテス六世の父は毒殺されたのですが、日常的な服毒は単にそれだけが理由だったわけではありません。
毒薬対策には宗教的な要素も含まれていました。スキタイのシャーマン集団が常にミトリダテス六世のそばにつき、監督していました。
なにかの接種というのは、宗教と不可分です。酒、タバコはもちろん、ふつうの食事もそうです。なにかの接種は変容をもたらすからです。
ミトラ教は「共同の儀式的食事」を重要視していました。神とミトラが宴会を開いたからです。
健康になるためにビタミンDを飲むのは、信仰心のあらわれ、宗教行為であり、ミトリダテス六世とまったく同じことをしています。
医者は血中のビタミンD(毒)の濃度をはかり、ビタミンD(毒)の数値が低い、などといいます。
毒を飲んでこなかったので数値が低いのは当然です。そして毒を飲みはじめ、数値が「改善」するわけです。
ティグラネス二世
ミトリダテス六世の娘、ポントスのクレオパトラは、アルメニアの王ティグラネス二世(紀元前一四〇年~)と結婚しました。
ティグラネス二世とミトリダテス六世は友情パワーで結ばれていたようで、どちらもそれぞれの帝国でゾロアスター教のマギの長として、山頂で伝統的な火の儀式を執り行っていました。
中世アルメニアの歴史家コレネのモーセは、ティグラネスがシリアやメソポタミアから多くのユダヤ人捕虜をアルメニアの都市に定住させた、と主張しています。実際、多くのユダヤ人がアルメニアに定住しました。
(ティグラネスは)神殿を建て、神殿の前に祭壇を設け、すべての諸侯に生贄を捧げて礼拝するよう命じた。これに対してバラルトゥニ家(アルメニアの資料によればユダヤ人の家系)の者たちは同意せず、ティグラネスはそのうちの一人、アスードと呼ばれる者の舌を切り落とした。
……その直後、(ティグラネスは)娘クレオパトラの息子ディオニシウスが自分の父に対して犯した罪の復讐をするために、パレスチナを攻撃した。かれは多くのユダヤ人捕虜を奪い、プトレマイオスの町を包囲した。
初期のユダヤ人入植者の中には、のちにキリスト教に改宗した者もいたようです。
ヨセフスは、ユダヤのユダヤ人がティグラネス二世の息子アルタウァスデス二世(紀元前三一年)に連れ去られ、アルメニアに再定住したと記しています。
紀元前一世紀のことですが、ティグラネス二世の移住から数年後のことです。
多くのユダヤ人がアルメニアに留まりました。ローマ帝国が任命した臣従王(クライアント・キング)には、大アルメニアではヘロデ派のティグラネス四世(紀元前三〇年代~)とティグラネス五世(紀元前一六年~)、西の国境地帯(小アルメニア)ではアリストブルス(紀元前五五年~)などがいました。
ティグラネス五世の父はユダヤの王子アレクサンダーで、アレクサンダーはユダヤの王ヘロデ大王(紀元前七三年ごろ~)とマリアムネの子です。
ティグラネス五世はエルサレムのヘロデの宮廷で生まれ育ちました。ヘロデの死後、ユダヤの血とユダヤ教を捨て、ギリシャの文化を受け入れました。
ヘロデ大王は新興キリスト教の敵でもありました。イエスの誕生におびえて二歳以下の子供全員を殺せと命じた、マタイの福音書にあるいわゆる「幼児虐殺」の首謀者です。
幼児虐殺のきっかけとなったのは、「東方」の三博士、マギとの出会いです。
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