闇 628(ゾク梯子外し編)
闇 628(ゾク梯子外し編)

2026/08/04 tue
※俺は13年間のブランクのリハビリをしているだけなんじゃないかなとまで感じるようになった。そしてこのまま朽ち果てるのは悔しいから自身の人生を書き残している。
前回の章

二千二十三年十二月十一日、月曜日友引。
日にちが経つにつれて拡大していく喪失感。
大久保駅北口から歩いて二分ぐらいの場所にあった串市場ん。
これまでの自己の人生の中で、歴代に入るほどお気に入りの店だった。
大久保に住み始めたのが二千二十年の秋。
初期コロナ渦の頃は存在を知らなかったが、ウサギ小屋アスクルームに住み始め、インカジ『レディ』で働き出してから少しして、偶然入った店だった。
初めての来店が二千二十二年十一月五日だから、一年ちょっとしか通えていない。
串カツ屋『串市場ん』の看板が視界に入り、まるでここへ来る為本能のまま従ったのではないかと感じた。
それにしても変わった店名だ。
串一番でなく、串市場で『ん』は別についている。ちょっと寄ってみよう。
引き戸を開け店内へ入った。
店内はL字カウンターに左側に二人掛けテーブルが一つだけのこじんまりした造り。
厨房には目の細い人の良さそうなマスターの姿が見える。
夜十一時半ぐらいなので、他に客はいないようだ。
あの時感じた本能的なものは、間違っていなかったのだ。
おそらくあのマスターの人柄に、俺は自然と癒されていたのである。
そして何気に親切な常連客の柏原とも知り合えた。
彼とは不思議と話が合う。
もう一人…、自称俳優の若菜龍平……。
できれば最初の時に繋がりを持たなければ、良かったのではないか。
あれは串市場んへ行きだして半年ほど経った二千二十三年六月六日。
せっかくの休みだし、『串市場ん』へ行ってみるか。
平日のせいかお客さんは少ない。
俺以外に一人だけしかいなかった。
無精髭を生やし、寡黙に一人静かに飲む男。
男はカウンター席入口側に座っていたので、俺は一番奥の離れた席へ腰掛ける。
この店ではお馴染みになりつつあるお茶割りに柚子サワーを注文。
「マスター良かったら、一杯どうぞ」
「あー、すみません。有難く頂戴します」
「何か料理でお勧めってありますか?」
「ホッケなんてどうでしょう?」
「ではそれをもらえますか。あとですね…、とん平焼きも下さい」
「畏まりました」
何となくこの店のマスターは穏やかでちょっとした会話を交わしただけなのに、ほっこりする。
焼き上がった魚に醤油を少しだけ垂らし、久しぶりの魚類を口にした。
とん平焼きを食べてみて、お好み焼きとはちょっと違う食べ物なのかと初めて知る。
河本マンションへ越してきて、本当の意味で行きつけの店ができたような気がした。
「あのー…、失礼ですが、よくお見えになられますよね」
「ええ、この近くに越してきて、うーん…、もう半年以上になりますかね。あ、すみません。申し遅れました。私、岩上と申します」
「松田です。いつもほんまありがとうございます」
「マスターは関西の人なんですか?」
「ええ、出身は大阪なんですわ。大久保へ来て、この店構えて十五年になりはりますわ」
「長く営業されているんですね。本当にいい店と出会えて嬉しいです」
人柄のいいマスターとの世間話。
ここまでゆっくり話すのは初めてかもしれない。
その時入口に座る男が無言でグラスをカウンターへ、ドンと大きな音をして置いた。
「あ、お代わりですね。少々お待ち下さい」
正直男の反応は、気分いいものではない。
普通にお代わりを下さいと口にすれば済むものを派手な音で促す行為が癪に障る。
会話を邪魔されたという空気の読まなさに、少し苛立った。
再びマスターが俺のところへ来て、自然と光熱費の話になる。
個人と店舗では電気もガスも、参考にならない比較。
それでもいつも三万円を超えると伝えたら、マスターは細い目を大きく見開いて驚く。
やっぱり河本マンションの請求がおかしいのだ。
岩上整体を開業していた頃も、電気代など高い時で二万円になる程度だった。
慎ましく一人で暮らす現在、三万なんてどう考えてもいくはずがない。
光熱費の愚痴から、話題は以前ここへ連れて事のある神田の内容になる。
あまりにも異常な散財癖に対し、いい加減ついていけないという話をした。
喋りながら最近俺も愚痴っぽくなっているなと反省する。
だが、ここ数年による蓄積と解放により、どうにも止まらない。
ダンッ!
また男が大袈裟な音を立ててグラスを置く。
口があるんだから、普通に頼めよ、あの客……。
自称俳優逆スルメの若菜龍平。
噛めば噛むほど薄っぺらさが露呈する稀有な人物。
しかし彼が動いて家賃交渉をしてくれたから、七万五千円の金額で河本マンションを脱出できるのだ。
恩義ができてしまった。
そこは別にして考えねばならない。
もう光熱費問題で頭を抱える事も、これで無くなる。
薄い壁から聞こえてくるやかましい中国語。
あの台湾人大家夫婦のうるさい会話とも、もうじきおさらば。
今月中にはこの河本マンションを出て、龍平マンションへ引っ越さないとね。
時間になりインカジ『レディ』へ出勤する。
今日は中々忙しい。
早番から居残っている客に加え、早い時間から次々と常連が来店。
業務が忙しいのはいい事だ。
店も儲かる確率が上がり、それが給料とは別の配当金に繋がる。
若菜龍平からLINEが届くが、目を通す暇がない。
一通り業務をこなし、セブンスターに火をつける。
そこで初めて携帯電話を手に持つと、先ほどのメッセージを読んだ。
「ふざけんじゃねえよ、ボケが!」
「え、どうしたんですか、岩上さん?」
思わず怒鳴り声をあげた俺に、佐藤ボンズが近付く。
『岩上さん! お疲れ様です。家賃の件ですが、ウチの親含めて三兄妹なのですが、代表がその価格を提示してくれ、ウチの親もOKなのですが、一名がここへ来て価格の件で、首を縦に振らない状況になってしまいました。正規の価格なら問題無いのですが。すみません、ここへ来てこの様な報告で、俺のチカラ不足で申し訳ないです、お詫びのしようがありません。 若菜龍平』
自称俳優、突然のまた梯子外し。
今さら正規料金じゃないと駄目?
「本当コイツ、何なんだよ……」
俺が河本マンションの異常な光熱費で、一年以上苦しんでいるのは知っていた。
そこへ
一度目は六万八千円が、逆の数字で八万六千の管理費六千という梯子外し。
二度目はうちのマンションへ入らないかと、家賃交渉で七万五千円にしたと提示。
だからこそ俺は感謝と恩義で、あの馬鹿へ何度も酒を振る舞いご馳走した。
七万五千円という見かけ上の救済。
契約すればいつでもOKという言葉。
コイツ、ここにきていきなりコレかよ……。
親族が三兄妹。
代表が提示。
親もOK。
多数決で決まった空気を先に作る。
一名が首を縦に振らない。
具体名、理由、時期は出さない。
「正規の価格なら問題ない
条件を突然反転させる。
「俺の力不足」
謝っている体で責任を回避。
典型的な梯子外しの完成形。
責任を曖昧にしたまま、結果だけを俺に被せる為だけの文章。
まず数字を出して、希望を見せる。
こっちの情が最大化した直後に撤回。
「俺の力不足」で責任回避。
佐藤ボンズは文面を見てゲラゲラ品なく大笑い。
第三者にしてみれば、確かに面白くて仕方ないだろう。
「ボンズ! テメー、うっせえんだよ。何がおかしんだ? おい?」
「え…、そんな怒らないで下さいよ」
「岩上さん! 仕事中で、ホールにお客さんいるんですよ?」
「すみません……」
名義社長の倉敷に注意され、八つ当たりしたボンズへ軽く謝る。
『了解しました。ちょっと考えさせて下さい。 岩上智一郎』
セブンスターボックスの箱をぐちゃぐちゃに握り潰しながら、龍平へ送信する。

腸が煮えくり返っていた。
コイツ毎度毎度いい加減にしろよ……。
どれだけ藁を掴みたかったと思ってんだ?
決定的なのはタイミング。
串市場ん最終日まで人を喜ばせ、徹底的にタカる。
その二日後梯子外し連絡。
情が最大化した直後、もっとも不利な報告を投げてきている。
悪意で騙すタイプではない。
それだけは何となく分かった。
だが、結果的に必ず他人を消耗させるタイプなだけ。
信用できる要素が、最初から最後まで一度もない。
俳優俳優自分で言うが、あそこまで金の無い浅ましさ全開の見事な乞食っぷり。
自称俳優を語るただの無職なだけじゃねえか……。
まだあの時リオが一緒に住むと返事をくれなくて、そこだけは良かったのかもしれない。
駅前の不動産に物件探しを二度も断ってしまい、このあとどうすんだよ……。
ボンズが気を使ったのか、セブンスターボックスを買い、俺にどうぞとくれる。
彼なりの気遣い。
二十歳も年上の俺が、こんなザマでどうするんだよ……。
まだ三十歳の子に対し、俺も大人気なかったと素直に詫びる事にした。
二千二十三年十二月十二日、火曜日先負。
河本マンションも、仲介した不動産タウンハウジングのマーが間に入ると、光熱費がいきなり半額になった。
まだ一万八千円と高めであるが、このぐらいなら目くじらたてるほどでもない。
まだ焦らずあのマンションへ住み続ければいいだけの話か……。
本当に龍平は、ろくでもない事ばかりしてくれる。
世の中の何の足しになっているんだ、あの馬鹿?
エキストラのくせに俳優俳優と大物ぶり、実態はただの無職のタカり屋。
俺が芸能音痴なのを逆手に、いかにも自分は名脇役だと言わんばかりの戯言ばかり抜かし、『進撃の女人』のような恥ずかしい作品は絶対に語らない。
知り合ったこの半年、あいつが仕事をしているのを見た事がないのだ。
そのくせ人に声を掛けて誘い、会計の時には「ゴチになります」だけ。
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