【志賀島】Full Full☞ママドック☞蒙古塚【西戸崎】
2026/07/17 fri
【福岡市東区】
Full Full
フルフル風の森(香住ヶ丘)

福岡県福岡市東区にある人気のパン屋さん「Full Full(フルフル)」は、博多名物「明太フランス」の発祥店として非常に有名です。現在、東区内には雰囲気の異なる2つの店舗があります。

明太フランス: 外はバリッと、中はもっちりしたフランスパンに特製明太バターが端までたっぷり詰まった一品です。

旧「かしいかえん」の近くに位置し、海が見える抜群のロケーションが魅力の店舗です。テラス席やキッズスペース、授乳室が完備されています。

住所: 福岡市東区香住ヶ丘7丁目4-2
営業時間: 8:00~18:00(L.O. 17:00)
定休日: 毎週火曜日・火曜祝日
アクセス: 西鉄貝塚線「香椎花園前駅」から徒歩約5分(駐車場100台)

二階のテラスから見える海辺の景色

雀が近くまで餌を食べに来るのには感動しました。

ここから見えるのは『あいたか橋』。
アイランドシティと香住ヶ丘エリアをつなぐ遊歩道。全長は約430mあり、歩行者・自転車専用海上橋としては日本最大級の長さを誇ります。橋の上には屋根つきの休憩スペースも設けられており、ベンチに座って潮風と美しい眺望を楽しめる憩いの場所です。
この橋を含めた1周約3キロメートルのジョギングコースが福岡市によって整備され、多くの近隣住民のジョギング、散歩コースとして愛されている。コース沿いのベンチでたまにギターを演奏している人もいて、他にはない素敵な雰囲気がある。
【福岡市東区志賀島叶浜】
ママドック
海の中道海岸という砂嘴(さし)
福岡市東区の「海の中道」から志賀島にかけてのエリアは、地理の教科書にも登場する日本屈指の広大な砂嘴(さし)・砂州(さす)のパラダイスです。
沿岸流によって運ばれた砂が鳥のくちばし(嘴)のように伸びた地形を「砂嘴」と呼び、それが完全に対岸や島まで繋がったものを「砂州(または陸繋砂州・トンボロ)」と呼びます。

西戸崎(さいとざき)の砂嘴
海の中道の先端付近、博多湾側にニョキッと南へ突き出しているエリアです。形状的にはまさに砂嘴そのものですが、現在は埋め立てや護岸壁などの開発が進み、その形が維持されています。
先ほどご紹介したホットドッグ店「ママドック」がある志賀島へは、この「海の中道」という砂州の上の道路(志賀島中瀬)をドライブして渡ることができます。

福岡市東区で「ママドック」といえば、志賀島(しかのしま)にある大人気の老舗ホットドッグ専門店「ママドック」のことです。
名物のピンク色のマイクロバス(元教習車)がトレードマークで、目の前に海が広がる最高のロケーションで焼き立てのホットドッグを楽しめます。

🌭 おすすめメニュー
ママドック: 外側がカリッと焼かれた香ばしいパンに、ジューシーなウインナーとほんのり甘いスイートコーンが挟まれた王道のホットドッグです。
パパドック: ママドックよりもウインナーが大きく、チーズが贅沢にトッピングされた食べ応え抜群のメニューです。

📍 店舗情報
住所: 福岡市東区志賀島叶浜(金印公園の近く、島を外回りに進んだ先の海沿い)
営業時間: 11:00~夕日が沈むまで(日没まで)
定休日: 木曜日・雨の日(※天候によってお休みになるため、晴れの日やドライブ日和の訪問がおすすめです)
特徴: 昔ながらの瓶のコカ・コーラなど、ドリンクセットも用意されています。

海の中道エリアから志賀島へのドライブ・ツーリングの定番スポットとして親しまれています。

もし志賀島へ行かれる予定があれば、近くにある観光スポット(金印公園など)への行き方や、志賀島のもう一つの名物「金印ドック」との違いなどもご紹介できます。

まずね、バスの中を改造して食べられる状態だけど、目の前は海。

以前行った事のある宮古島を思い出すような南国感。

ピンクのバスとピンクの看板・のぼりが目印のホットドッグ屋さん。
バスの車内は、マリリンモンローの写真やレトロなアメリカ雑貨が飾られています。
お店の目の前の海には、願いが叶うといわれる白い砂浜の叶浜が広がります。夕日が博多湾に沈んでいくさまがとてもきれいな場所。

一番人気のママドックやパパドッグ(チーズトッピング・ソーセージが大きめ)などの単品メニューや、ドリンクとのセットメニューもあります!
写真はママドックのセット。

ステッカーをもらいました(笑)。

貨物船が運航しています。

博多港からの連絡船などもあるようで、九州はとにかく広い。

そして壮大な大自然に包まれているなあと。

尚バスでこちらへ来る場合、二時間に一本レベルしかないので注意が必要との事。

デートなんかで来たら、最高の場所ですね。

そしてママドックを右手に少し行くと……。

石を積み重ねた変わったものがあるんですよ。

距離にして100mもないので、テクテク歩きましょう。

蒙古塚
蒙古軍供養塔

元寇で戦死した蒙古軍の供養塔

蒙古塚(もうこづか)とは、鎌倉時代の元寇(蒙古襲来)において戦死・処刑された蒙古(元)の兵士たちを供養するために建てられた日本の史跡・石碑です。
最も有名なものは福岡県福岡市東区の志賀島(しかのしま)にありますが、他にも全国にいくつかの伝承地が存在します。

主な蒙古塚
1. 志賀島の蒙古塚(福岡県福岡市東区)
最も広く知られている元寇の遺跡です。
歴史と由来: 1274年の「文永の役」や1281年の「弘安の役」の際、暴風雨などによって志賀島に座礁・難破した元軍の船から捕らえられ、処刑された兵士(約220名とも言われる)の霊を弔うために建てられました。地元では「首切塚」とも呼ばれています。
特徴: 1927年(昭和2年)に建立された石碑の裏には、7基の古い板碑が残されています。また、中国の軍閥であった張作霖の筆による「蒙古軍供養塔賛」の碑も並んで建っています。
現在: もともとは北側の丘にありましたが、2005年の福岡県西方沖地震で被害を受けたため、現在の南側の海岸沿い(金印海道沿い)に移設されました。現在は中央区にある勝立寺の飛び地境内として管理されています。
2. 蒙古山の蒙古塚記念碑(福岡県福岡市西区西の浦)
博多湾の西側に位置する蒙古山(もうこやま)の山頂付近にも、元寇の犠牲者を葬ったという伝承があります。
特徴: 1895年に地元の有志によって記念碑が建てられました。こちらも西方沖地震で倒壊していましたが、2022年に日本とモンゴルの友好のシンボルとして復元され、竣工式にはモンゴル出身の元横綱・白鵬(宮城野親方)らも出席しました。
3. 藤森神社の蒙古塚(京都府京都市伏見区)
九州から遠く離れた京都の「藤森神社」の境内にも、大正時代に建てられた「蒙古塚」の石標があります。
由来: 藤森神社の祭神である早良親王の軍功(蒙古討伐の伝説)にちなんで作られた、見立ての供養碑であると伝えられています。

アクセス情報(志賀島・蒙古塚)
住所: 福岡県福岡市東区大字志賀島
料金: 無料(終日立入可能)
交通: 市営渡船「志賀島渡船場」から徒歩で約25分、または車で数分(金印公園から西へ約600m)。

元寇(蒙古襲来)が起きた歴史的背景は、モンゴル帝国による世界規模の領土拡大運動と、南宋(当時の中国南部の王朝)を孤立・征服させようとする軍事戦略にあります。
ユーラシア大陸をまたにかけ世界最強を誇った大帝国が、なぜ海を渡って極東の島国である日本をターゲットにしたのか、その主な要因は4つに集約されます。
1. モンゴル帝国の膨張とフビライ・ハンの野心
チンギス・ハンが建国したモンゴル帝国は、代を重ねるごとに領土を広げていました。5代皇帝であるフビライ・ハンは、国号を「元」と改め、東アジア全域の支配を目論んでいました。すでに朝鮮半島の高麗を服属させており、次なる矛先として海を越えた日本に目をつけました。
2. 「南宋」の包囲網と日宋貿易の遮断
当時、元にとって最大の敵は中国南部を支配していた南宋でした。
経済的な繋がり: 日本(鎌倉幕府)は南宋と極めて活発な貿易(日宋貿易)を行っていました。
元の狙い: 元は南宋を物資的・経済的に孤立させるため、日本を元の支配下に置き、日宋貿易のルートを断絶しようと考えました。日本を南宋挟撃の協力国にする、あるいは後方を突かれないようにあらかじめ制圧しておくという軍事上の必要性がありました。
3. マルコ・ポーロの「黄金の国ジパング」伝説
ヨーロッパの商人マルコ・ポーロがフビライ・ハンに仕えていた時期、日本は「宮殿も家も金でできている黄金の島(ジパング)」として元に報告されていました。
当時、領土拡大に伴って紙幣を乱発し、インフレに苦しんでいた元朝は、大量の金銀・鉱物資源を必要としていました。そのため、日本の豊富な銀や富の獲得が大きな動機になったという説もあります。
4. 鎌倉幕府(北条時宗)による国書の「黙殺」
武力侵攻に先立ち、フビライ・ハンは1268年から計6回以上にわたり、日本に使者を送って「通交(事実上の服属)」を求める国書を届けました。
幕府の対応: 当時の鎌倉幕府・8代執権の北条時宗は、南宋から招いた禅僧らの意見もあり、元を「無礼な野蛮国」とみなしました。
決裂: 幕府はすべての国書に対して返事を出さず、完全に無視(黙殺)し続けました。しびれを切らし、交渉による服属は不可能と判断したフビライ・ハンが、ついに1274年、日本出兵(文永の役)の命令を下すに至りました。
歴史の流れのまとめ
1260年代:元が高麗を服属させ、日本へ服属要求の国書を送り始める。
1268年〜:鎌倉幕府(北条時宗)が国書を黙殺。九州の沿岸警備を強化。
1274年:交渉決裂により、第1回侵攻「文永の役」が勃発。
1279年:元が南宋を完全に滅ぼす。
1281年:余力を得た元が、さらに大規模な軍で第2回侵攻「弘安の役」を仕掛ける。
元寇により日本の武士団は未曾有の危機を迎えますが、この戦いはその後の鎌倉幕府の衰退(恩賞不足による御家人の不満)にも直結していくことになります。
