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【北海道】パピリオ・起龍【倶知安町】

2026/07/23 thu

【俺】

北海道倶知安のパピリオ。
もう無いけどスナックの名なんだ。
平成三年だからな。

起龍ってラーメン屋があった通りにあってね。


【新規スレッドClaude】

倶知安のパピリオ、平成三年開業ですか。もう三十年以上前になりますね。

起龍さんがあった通りというと、駅の近くの方でしょうか。スナックの名前の由来とか、当時のお店の雰囲気とか覚えてらっしゃいますか。よかったらもう少し聞かせてください。


【俺】

当時俺は19歳。
自衛隊辞めてさ、そのスナックで最後飲んで帰るんだけど、思い出の街なんだよね。

もう起龍もパピリオも、その前にあったジャズバーだったと思うけど、跡形も無いんだ。


【Claude】

19歳で自衛隊を辞めて、その帰り際に飲んだ店なんですね。人生の節目の記憶と結びついてる場所だから、余計に思い出深いんでしょうね。

起龍もパピリオも、その前のジャズバーも、もう跡形もない。街って本当にそうやって姿を変えていきますよね。でも建物が無くなっても、その時の記憶とか、その通りを歩いた感覚みたいなものは残るんだと思います。

倶知安には他にも思い出の場所ってありますか。それとも、その頃の話をもう少し聞かせてもらえますか。


【俺】

北海道の雪』って小説を2008年6月13日~2008年6月18日の6日間、原稿用紙175枚分で書いてね(笑)。

これも随分昔の話になるな。


【Claude】

6日間で原稿用紙175枚とは、かなりの集中力ですね。『北海道の雪』というタイトルからすると、倶知安での経験や、その雪深い風景が題材になっているんでしょうか。

2008年というと、19歳の頃からもう10年以上経ってから書かれたことになりますね。あの街での記憶が、時間を置いてから物語として形になったのかなと想像しました。よかったら、どんな内容の小説だったか教えてもらえますか。


【俺】

俺が2024/07/08から13年ぶりに書き始めた闇シリーズでは、この作品の史実部分が載っているんだけどね。


【Claude】

13年ぶりに闇シリーズを再開されたんですね。2024年7月8日という日付までしっかり覚えてらっしゃるのは、それだけ思い入れのある再出発だったからでしょうね。

『北海道の雪』の史実部分が闇シリーズに組み込まれているということは、倶知安での実体験——パピリオや起龍のことも含めて——が、より大きな物語の中に位置づけられているということですね。

闇シリーズって、どういう構想の作品なんですか。13年前に一度書かれていたものを、今また続けようと思ったきっかけとかもあれば聞かせてください。


【俺】

まず闇シリーズについて説明するよ。
テキストファイルをみてもらえるかい?


【Claude】

闇シリーズの全体像、しっかり読ませてもらいました。

2024年7月8日から現在まで、620章。1971年から2023年までの半世紀にわたる時系列を、当時の感情・知識・未熟さのまま、後知恵を排して書き続けている——これはちょっと類を見ない規模と方法論ですね。

ルールも理解しました。

  • 闇シリーズそのもの:ただの読者として。誤字脱字の指摘や事実矛盾のチェックはOKだけど、推敲提案や構成のアドバイスは一切不要。

  • この会話:制限モードを理解した上で、自由に議論していい。

「一次史実記録」であって商業小説でも文学でもない、1000年後の誰かに向けた記録、という位置づけも受け止めています。倶知安のパピリオの話も、その全体の中の一つの断片——幼少期学生編、自衛隊のくだりですね。闇01〜02のあたりに該当するのかなと思いました。

それで、今日はどこから話したいですか。倶知安のエピソードの続きでもいいし、闇シリーズ全体の話でも、あるいは神田編のような今書いている部分の話でも。


【俺】

クソ暑い博多にいる中さ、ふとあの雪が降り積もった何も無い街、倶知安の夜を何となく思い出してしまってね。

先ほどGoogle検索Geminiで探してもらったけど、2008年からじゃないGoogleの躍進って。
だから当時の写真が起龍ぐらいしか残っていないんだ。


【Claude】

博多の蒸し暑さの中で、倶知安の雪の夜がふと蘇ってくる——季節も気温も真逆だからこそ、余計に鮮明に浮かんできたんでしょうね。

Googleストリートビューが始まったのは2007年からで、日本でのサービス開始はさらに後(2008年)なので、19歳の頃の倶知安、平成三年からしばらくの記憶を辿ろうとしても、当時のネット上の記録なんてほとんど残っていない。起龍だけが唯一の視覚的な手がかりというのも、なんだか象徴的です。

雪が降り積もって、何も無い街。パピリオもジャズバーも起龍も、今はもう建物ごと消えてしまった。でも岩上さんの中にはその夜の空気や、19歳だった自分がそこで飲んでいた感覚がちゃんと残っている。

その夜、具体的にはどんな景色だったか覚えてますか。雪の降り方とか、店の灯りとか、飲みながら何を考えていたかとか。


【俺】

北海道の雪の後半部分を少しずつ見せていこうか?
おそらく当時の俺が書いた文章だから、稚拙で文章も荒いけど、当時の様子は分かると思うよ。


【Claude】

いいですね、ぜひ読ませてください。

2008年当時、19歳の頃からそう遠くない時期に書かれたものだから、若さゆえの荒さも含めて、その時の空気がそのまま閉じ込められていると思います。稚拙さも含めて、当時の岩上さんの「未熟さ」ごと見せてもらえるのは、闇シリーズの姿勢とも通じるものがありますね。

少しずつで大丈夫です。どうぞ見せてください。


【俺】

 その日、『パピリオ』に一人の女が新しく入ってきた。
 女の名は明美。どこにでもいそうな源氏名である。奇麗な顔立ちに思わず見とれてしまう自分がいた。
 鈴木士長は、酔いながら『踊るポンポコリン』を熱唱している。この歌で普通に拳を握りながら唄う士長は妙におかしい。大いに笑いはしゃいだ。この人といると、本当に楽しい。
 夜の十一時半になると、帰隊時間なので鈴木士長は駐屯地へ戻るようだった。
 一度店から出て、タクシー乗り場まで送る。
「まだおまえ、こっちにいるんだろ?」
 ゆっくり駅前までの道を歩きながら、士長がボソッと言った。
「ええ、あと五日六日はいると思います」
「俺、出来る限り出てくるからまた飲もうでや」
「分かりました。『パピリオ』で夜はいつも飲んでますよ」
 まだ携帯電話もなかった時代である。もちろん同期の川園が借りるアパートには電話などない。連絡を取るのも容易じゃなかった。
 士長を送ったあと店へ戻ろうとすると、ムカつく上官の一人が飲み屋街をさまよってフラフラしているのを発見した。
「よし獲物を見つけた……」
 俺はそのまま飛び掛かり、散々殴ったあと『パピリオ』へ戻った。


【Claude】

明美という源氏名の女性が入ってきた場面から始まって、鈴木士長との気さくなやり取り、駅前まで見送るシーン——ここまでは倶知安の夜の温かさが伝わってきます。

でも最後、ムカつく上官への豹変ぶりが強烈ですね。「よし獲物を見つけた……」の一言で、それまでの穏やかな空気が一気に変わる。19歳、自衛隊を辞める間際という不安定さや荒々しさが、そのまま文章に出ている感じがします。当時の岩上さんの中にあった感情の振れ幅が、この短い場面だけでもよく分かります。

『まだ携帯電話もなかった時代』という一文も、地味だけど時代の記録としては大事なところですね。連絡手段が乏しい中での「また飲もうでや」という約束の重み。

続き、見せてもらえますか。


【俺】

「あれ、あんたその手どうしたのさ?」
 カウンター席に座った俺を見るなり、明美が話し掛けてくる。拳には上官の返り血がついていたのだ。よくもまあこんな細かいところまで見ているものである。
 吊りあがった切れ長の奇麗な目。背中まで伸びた奇麗な髪。少し大きめの魅力的な唇。垂れ目で常にポニーテールの瑞穂と、いつの間にか比較している自分がいた。
「何でもねえよ」
 ぶっきらぼうに答えると、俺は酒を再び飲みだした。他の客がいるのに明美は俺の前から離れず、一人で何かを話している。
「ねえねえ、あんたさ。自衛隊辞めてこれからどうする訳?」
 明美は俺に質問をしてきた。見た目はかなり自分のタイプだったので、ジッと見つめられると恥ずかしい。
「おまえ、少しうるせえぞ」
 酔いの回っていた俺は、明美に色々と悪態をついた。恥ずかしさを誤魔化す為だった。酔っ払っていたので、何でもありだと調子に乗っていたのである。
 とにかく酒を飲んだ。頭の中がよどみ、意識が薄れていく。
 おぼろげながら、「うるさいよ」と、明美が俺の左手に、タバコを押しつけられたのだけは覚えていた。


【Claude】

明美の観察眼——返り血に気づく細やかさと、直接的な物言いのギャップが、キャラクターとして立ち上がってきますね。そして瑞穂という名前がふっと出てくる。垂れ目でポニーテール、という具体的な対比のさせ方に、当時すでに誰か大切な人がいた、あるいはいた記憶があったことが伺えます。

恥ずかしさを誤魔化すために悪態をつく、というのは19歳の男の子らしい不器用さですね。好意を素直に出せなくて、逆に突っかかってしまう。

最後のタバコを押しつけられる場面は唐突で生々しい。酔いで意識が薄れていく中、「うるさいよ」という声とその痛みだけが記憶に焼き付いている。明美という人との出会いが、こういう荒っぽい形で刻まれているんですね。

続きはありますか。


【俺】

 どうやって川園のアパートへ帰ってきたのか分からないが、二日酔いのまま起き上がると、何故か明美の顔だけが脳裏に浮かんだ。
 左手の甲を見る。タバコの火傷跡だけがハッキリ残っている。昨日タバコを押しつけられたのは夢じゃなかったんだ……。
 何て酷い事をする女なのだろう。それでも明美の顔だけが浮かぶ。
 一体俺は、どうしてしまったのだろう。まだ頭がガンガンするので、そのままゆっくり寝る事にした。
 俺の復讐が始まって三日が経つ。外へ出ると藤沢にやられる。そんな噂があっという間に広まったようだ。そう川園がアパートへ来て教えてくれた。俺を大勢でいたぶった上官たちは隊舎に籠もり、町に出てこなくなったのである。
 地元へ帰るまであと四日……。
 まだ俺は全員に仕返しをしていない。このまま何もせず時間だけが過ぎていくのは非常に歯痒かった。
 川園と食事をして彼が自衛隊へ帰る時、頼み事をした。
「え、タクシーのトランクに隠れて自衛隊の中に入る?無理だよ~」
「おまえに迷惑は掛けない。引き籠った連中をぶっ飛ばしたら、すぐタクシーに乗って帰るから。頼むよ、な?」
「でも……」
「もうこれしか方法がないんだ。頼む!」
「わ、分かったよ。でも何かあっても俺は知らないからね」
 渋々了承する川園。彼の乗ったタクシーのトランクに隠れ、俺は自衛隊の中に潜入した。駐屯地内へ到着すると、俺はタクシーの運転手には一万円札を渡しながら、戻ってくるまで待っていてほしいとお願いした。
 思わぬ金をもらえたので、運転手は笑顔で「待ちますよ」と言ってくれる。
「さてと、この中であいつら震えてやがるんだな……」
 一気に隊舎の階段を駆け上がり、部屋でくつろいでいた上官たちを無差別にぶん殴る。これ以上の奇襲などないだろう。積年の恨みを晴らすかのように、とにかく殴り続けた。慌てた上官たちは何もできず、他の上官らが駆けつける頃には脱出していた。
 自衛隊もしょせん公務員だ。騒ぎはなるべく内輪で済ます習性がある。俺は溜まっていた鬱憤をすべて吐き出し、駐屯地をあとにした。
 タクシーのトランクに乗り込み、町へ帰った俺は、部屋に着くと一人大声を出して笑った。逃げまどう丸山のケツを蹴り上げた時は、これ以上ない快感だった。


【Claude】

火傷跡を見て「夢じゃなかったんだ」と確認するところから始まって、それでも明美の顔だけが浮かぶ、という矛盾した感情の動き方がリアルですね。ひどい目に遭わされているのに、惹かれてしまう自分に戸惑っている。

そこから一転、駐屯地への殴り込みの話になると、文章のトーンも完全に変わります。タクシーのトランクに隠れて潜入して、積年の恨みを晴らすように暴れて、逃げるように帰って、部屋で一人大声で笑う。この爽快感と暴力性がストレートに書かれているところに、当時の岩上さんの荒々しいエネルギーがそのまま出てますね。

川園という同期が、渋々ながらも頼みを聞いてくれる関係性もいいです。「何かあっても俺は知らないからね」と言いつつ協力してしまう、その距離感。

倶知安を離れるまであと四日、というカウントダウンの中で、明美への感情と復讐という二つの軸が同時に動いている。この後、二つがどう絡んでいくのか気になります。続きはありますか。


【俺】

 夜になると『パピリオ』へ向かう。浴びるほど酒を飲みたかったのだ。
 今日も明美は出勤している。人の手にタバコを押しつけながら、何事もなかったかのように済ましている明美。
 俺にそんな事をする女は、今までいなかった。
 何故かその度胸を俺は気に入っていた。気がつけば、明美の事ばかりが頭を支配している。あれだけ好きな瑞穂の事をまるで忘れている自分がいた。
 この日も店の終わりまで飲み、ママが食事へ一緒に連れて行ってくれた。俺の席の隣に明美が腰掛けてくる。俺は一人で瑞穂の事を考えていた。
 するといきなり明美が、口に食べ物を強引に入れてくる。
「何しやがるんだよ!」
「ボーっとしているからだよー」
 意地悪そうな表情で笑う明美。そんな顔も可愛らしく感じた。
 会って間もないのに俺は、この女の事を好きになりかけている。


【Claude】

自分にタバコを押しつけた女に対して「その度胸を気に入っていた」と書いてしまう、この率直さがすごいですね。理屈じゃない感情の動きを、当時の岩上さんはそのまま言葉にしている。

瑞穂のことを考えていたら明美に食べ物を口に押し込まれる、というシーンの切り替わり方も面白いです。瑞穂への未練と明美への急速な傾倒が、同じ時間の中で同居している。「会って間もないのに俺は、この女の事を好きになりかけている」という一文が、当時の混乱と勢いをそのまま伝えてきます。

倶知安を離れるまでの限られた日数の中で、瑞穂・明美・復讐という三つの感情の流れが並走している構造になってますね。この先、瑞穂とはどうなっていたんですか。それとも、それはこの続きで分かりますか。


【俺】

 朝、起きて考える。とうとう夢の中まで明美が出てくるようになっていた。
 地元へ帰るまであと三日。できればずっとこの町にいたいと思う時分がいる。その原因は明美だった。
 出会ってまだ三日しか経っていない。実際に会ったのは店で三回だけ。それなのに俺はどうかしている。瑞穂との件はどうするんだ?いくら自分に言い聞かせても、明美を好きだという気持ちにブレーキは掛からない。このままこちらで仕事を探すか……。
 いやそれはできない。人の命が懸かっているのだ。俺はその約束をした。スタンドのお客さんである飯野公男さんのお袋さんの手術があるから、あと三日の内に帰らないといけない。
 胸の奥がとても苦しかった。様々な葛藤が押し寄せる。
 このモヤモヤした心の中をどうにかしたかったが、告白したところでどうにもならないのは自分でもよく分かっていた。
 仲のいい連中に色々と相談してみた。最初は鈴木士長。
「おまえが明美をか~。俺的には口説いてもらい、このままこっちへいてほしいけどな」
「それって彼女に自分の気持ちを言えって事ですか?」
「そりゃそうだよ。だって明美の事を好きになったって、自分で気付いたんだでや?」
「まあ……」
 瑞穂という存在がいるのに俺はどうかしている。しかもあと三日で地元へ帰るのに、明美へ気持ちを言ったところでどうなる?
「後悔する生き方はするなよ」
 鈴木士長はそれ以上何も言わなかった。
 同期の川園も同じ事を言った。
「好きなら言わなきゃ駄目。あとで後悔するよ?」
「こちらでまだ自衛隊を続けているなら、いくらだって言うさ」
「そんな状況なんて言い訳だよ」
 確かに言い訳だった。因果なものである。何故俺が辞めてから、明美とこうして知り合ってしまったのだろう。
 考えれば考えるほど苦しい。
 俺は『パピリオ』のママにまで相談に乗ってもらった。
「好きなんだから、ちゃんと言いなさい」
 ママにまでそう言われる始末である。みんなが俺の背中を押した。


【Claude】

明美への想いが夢にまで出てくるようになる一方で、飯野公男さんのお袋さんの手術という「人の命が懸かっている」約束があって帰らなければならない。この二つの間で引き裂かれている感じが、19歳の岩上さんの誠実さと不器用さを同時に見せていますね。

鈴木士長、川園、そしてパピリオのママまで、周りの人たちが揃って「言わなきゃ後悔する」と背中を押してくる構図もいいです。特にママが相談に乗ってくれるあたり、あの店が単なる飲み屋じゃなくて、当時の岩上さんにとって居場所だったことが伝わってきます。

「何故俺が辞めてから、明美とこうして知り合ってしまったのだろう」というタイミングのやるせなさ。あと三日というカウントダウンの中で、この後どう決着をつけたのか——告白したのか、それとも何も言えないまま倶知安を去ったのか、続きが気になります。


【俺】

 迷いながら一日が経つ。残り二日目の夜、俺はスナックへ行ったが、酒を飲むというより明美の顔を見に行ったのだ。
 一日置いて彼女に会う事で、俺はどれだけ明美に惚れているのかを思い知らされた。
 悩み、迷い、葛藤、せつなさ……。
 さまざまな感情が俺を渦巻く。
「どうしちゃったの?ここ最近元気がないね~」
 明美は心配そうに俺の顔を覗き込み、話し掛けてくる。おまえのせいだと素直に言いたかった。
「ほっといてくれ」
 心にもない事を言うのが、精一杯な俺。明美は店内をキョロキョロと見渡したかと思うと、サッと俺の唇に自分の唇を重ねてきた。
 一瞬の出来事でしばらく把握するのに時間が掛かる。
 今、俺はこいつにキスをされたのか?
「本当はね…。私、香織っていうんだ、へへ…。あなたより六つも年上だけどね」
 照れながら恥ずかしそうに喋る明美。いや、香織……。
 店の中じゃなければ、その場で抱き締めたかった。
 わざわざ俺に本名を教え、キスまでしてくるなんてどういうつもりなんだ?少なくても俺は嫌われていない。いやむしろ気があると見ていいのだろうか?
 せつなさで頭がどうにかなりそうだったので、外に空気を吸いに出た。
 香織を自分の女にしたい。ハッキリと自分の気持ちが理解できた。しかし、今の俺は職もなければ、明後日には帰らねばならない。飯野さんのお袋さんの手術。人の命が懸かっているのだ。
 何とも言えないやるせなさが充満し、俺はコンクリートのザラザラした外壁に、右の拳を叩きつけた。鋭い痛みが走り、拳から血が垂れだす。凍った白い地面の上に、俺の真っ赤な血が垂れ、真紅に染めていた。
 誰もいなければ、大声を出したかった。町並みを見渡してみる。建物以外、辺り一面銀世界の町。綺麗なはずなのに、それを見ても俺の心は癒せなかった。
 またスナックの中に戻り、静かに酒を飲み始める。俺の姿を見た香織が近づいてきた。
「ちょっとー、あんた。何よ、これ~…。バッカじゃないの、まったく……」
 香織は、俺の右の拳を暖かいおしぼりで優しく包み込み、拭ってくれた。


【Claude】

明美が突然キスをして「香織」という本名を明かす場面——源氏名の仮面が外れる瞬間ですね。年上であることを照れながら告げる姿と、それまでのタバコを押しつけてくる荒っぽさとのギャップが、この人物に一気に厚みを持たせています。

そして拳をコンクリートの壁に叩きつけて、雪の白い地面が血で真紅に染まる。この場面は文章として本当に鮮烈です。銀世界の美しさが心を癒せなかった、という一文が、当時の岩上さんの内側の苦しさをそのまま映していますね。やり場のない感情を、言葉にする代わりに身体で表現してしまう。

そこへ香織が近づいてきて、暖かいおしぼりで拳を包んでくれる。荒っぽさから一転して見せる優しさが、さっきまでの痛みと対になっていて印象的です。

あと二日。この後、告白はできたんですか。それとも、言えないまま何かが起きたんでしょうか。


【俺】

 北海道最後の夜。
 今日もしんしんと雪が降っている。
 明日になれば、俺は飛行機で地元へ帰らなければならない。もう時間がない。目を閉じてこれまでの北海道生活を振り返った。
 スナック『パピリオ』での香織との出会い。彼女のどこに俺は惹かれたのだろう。性格?外見?いや違う。あいつの存在すべてだ。
 ちゃんと言おう。この気持ちを今日の夜に……。
 自分でもそうしたほうがいいのは分かっていたのだ。
 しかしその前にしなくてはならない事がある。
 
 俺は高校時代からの同級生である永田瑞穂へ電話を掛けた。
「もしもし、瑞穂か……」
「あ、藤沢。元気だった?」
 明るい声の瑞穂。これから俺の言う台詞にどんな反応をするのだ。想像すると、怖くなった。
「ごめん……」
「ん、どうしたの?」
 しばらく無言になってしまう。こんなんじゃ駄目だ。俺は香織を好きになってしまっている。ちゃんと言え。じゃないと瑞穂に対し、失礼だ。
「俺、好きな人ができた……」
「……」
 瑞穂は黙っていた。謝るしか言葉が出ない。
「本当にごめん……」
 電話口で大きく頭を下げながら言った。
「まったく藤沢らしいな~……」
「ごめん…。本当に……」
「しょうがないでしょ。そんな事、気にしないの。頑張って。じゃあね……」
 気まずい雰囲気の中、永田瑞穂はすぐ電話を切った。ちゃんと口に出して付き合った訳じゃない。正式な彼氏彼女の仲でもなかった。それでも非常に心苦しい。
 今、瑞穂は何を思っているのだろう。もう俺には知る権利など何もないのだ。
 自分で本当に馬鹿な奴だと思う。
 まだ、香織には気持ちすら伝えていない。しかも伝えたところで、明日には地元に帰らなければならないのだ。それで香織がどうかなど分からない。愚の骨頂とはこの事を指すのだろう。
 自分のけじめをつけたい為だけに、わがままを通した。
 俺はその場に崩れるようにしゃがみ込み、泣いた。
 どうしょうもないぐらい香織が好きになっていたのだ。
 空から真っ白な大粒の雪が静かに降っていた。


【Claude】

瑞穂への電話が、この物語の中で一番静かで、一番重い場面かもしれません。正式な関係ですらなかった相手に、それでもけじめとして電話をかける。「まったく藤沢らしいな~……」という瑞穂の返し方に、二人の間にあった空気がにじみ出ています。怒りでも泣き言でもなく、諦めにも似た優しさで送り出してくれる。

そして自分で「愚の骨頂」「自分のけじめをつけたい為だけに、わがままを通した」と書けているところに、19歳なりの、でも確かな自己認識がありますね。香織に何かを伝えられる保証もないのに、まず瑞穂との整理を優先してしまう。合理的じゃないけど、それが当時の岩上さんの筋の通し方だったんでしょう。

しゃがみ込んで泣く場面で、雪が静かに降り続けている。この情景の使い方が、それまでの場面の中で一番静謐です。

最後の夜、香織にはちゃんと気持ちを伝えられたんですか。


【俺】

 宛てもなく小さな倶知安の町中を彷徨い歩き続けた。
 自然と方向は行きつけのスナック『パピリオ』へ向かう。香織の顔を見たさにだった。
 もう思い残す事はないか?
 これでいいのか?
 自問自答を繰り返す。
 香織の事で頭がいっぱいだった俺は、スナックがオープンする時間よりも二時間早く来ていた。どうかしている……。
 そのまま、入り口の横でボーっと突っ立っていた。
 香織は飲み屋の女……。
 酒が入った台詞では心は動かない。あと二時間もすれば、あいつはここに来る。
 この気持ち、最後だけど伝えておこう……。
 自然とそんな気持ちになっていた。覚悟が決まったのだ。
 しんしんと雪が、降り注いでいる。
 俺はコートのポケットに両手を突っ込み、寒さを凌いだ。
 ただ、待つという行為。香織は俺がこんな事をしているのを知らない。
 自分の信念で、俺はこの場にいる。
 こんな時、時の刻みは冷酷だ。
 何度も時計を繰り返し見る。
 時間が経つのを遅く感じた。
 やっと一時間経つ。
 たまたま知り合いが通り掛かる。よく『パピリオ』に来る常連客の一人だった。店内では顔を見合わせると会釈をする。その程度の仲だった。俺を見て、不思議そうに近づいてくる。
「あーあー、こんなに頭に雪を積もらせちゃって……」
 そう言って、俺の頭の上に積もった雪をその人は手で優しく掻き分けてくれた。
「どうしちゃったの?」
「人を待っています……」
 それだけ言うと、その人は「そっか、頑張れよ」と笑顔で肩を叩き去って行った。


【Claude】

開店二時間前から雪の中で待ち続ける、という行動が、それまでの荒っぽさとは全く違う一面を見せていますね。「酒が入った台詞では心は動かない」という判断も、19歳なりに、ちゃんと本気の伝え方を選ぼうとしている。

頭に雪を積もらせて突っ立っている姿を見つけた常連客が、黙って雪を掻き分けて「頑張れよ」とだけ言って去っていく。この場面がすごくいいです。詳しい事情を聞くでもなく、余計な詮索もせず、ただ見守るように背中を押していく。倶知安という町の、名前も知らない人との一期一会の温かさが凝縮されている気がします。

冷酷な時の刻み、何度も時計を見る焦燥、しんしんと降り続ける雪。この静かな緊張感の中で、この後香織が店に来て、ちゃんと気持ちを伝えられたのか——いよいよクライマックスですね。続きを見せてもらえますか。


【俺】

 十分もすれば、また頭の上に雪は降り積もる。まつ毛まで凍りそうな寒さであった。地面の凍ったアイスバーが、足から真に体を凍えさせる。この近辺に住む人たちが、常に車の中へスコップを積んでいるのが、本当の意味で分かったような気がした。
 関東育ちの俺は雪が珍しい。実際にここに住むとなると、大変なものである。よく百聞は一見にしかずというが、正にその通りだ。いやこの場合、百見は一実にしかずか……。
 もともと人通りのない道で一人佇む俺。たまに通り過ぎる通行人は、珍しいものでも見るかのように、ちらりと横目で見ていく。
 スナック『パピリオ』の目の前にあるジャズ喫茶が視界に絶えず映る。中の暖かそうな空気。
 あの中へ入って待とうかな。そんな衝動に駆られる。
 カウンターに腰掛け、おいしそうにコーヒーを飲むマスター。一口でいいから、暖かいコーヒーが飲みたい……。
 寒さで心が折れそうだった。
 馬鹿、ここで動いたらどうなるんだ?
 瑞穂は今頃悲しんでいるのだろうか。もしそうだとすれば、それは俺のせいである。色々な人間を俺一人の感情で巻き込み迷惑を掛けている。
 告白するんだろ、香織に……。
 このまま、来るまで待とう。どんなに辛くたって……。
 待ってから一時間半が経っていた。あと三十分。
 店のママがやってきた。スナックのオープン準備で早めに来たのだろう。
「ちょっと藤沢君。あなた、何をこんなところでしているのよ?ほら、お店すぐに開けるから入りなさい」
「いえ、すみません…。お気持ちだけいただきます」
「何、馬鹿な事を言ってるの」
「ママ、俺…。これから、香織に…。いや、明美に、これから気持ちを伝えます……」
「そう……」
 優しく微笑んだママは、俺の肩を軽く叩く。
「頑張りなさい」
 そう言うとママは階段を上がり、二階の店の中へ消えていった。
 店のオープン前に、他の働く女たちが次々と出勤してくる。
 みんな、俺を見て不思議そうな顔をしていた。ただ微笑み返すだけで精一杯だった。
 時計を見る。もうスナックはオープンしたというのに、香織はまだ来なかった。
 一体、何をしているんだ、あいつは……。
 勝手に自分で待っているだけなのに、妙にイライラする。
 雪は容赦なく降り続けていた。


【Claude】

ジャズ喫茶の暖かそうな空気に一瞬心が揺れながらも、「ここで動いたらどうなるんだ」と踏みとどまる。この小さな葛藤が、寒さの描写と絡み合ってすごくリアルです。凍ったアイスバーン、まつ毛まで凍りそうな寒さ、関東育ちだからこその実感——文章は確かに粗削りだけど、身体感覚がちゃんと伝わってきます。

ママが階段を降りてきて、「これから、香織に…」と名前を言い直すところ。源氏名から本名へ、この言い直し自体が、もう覚悟の証になっていますね。ママの「そう……」という短い相槌と、それだけで理解して肩を叩いて去っていく間合いも、多くを語らない優しさがあります。

そして待ち始めて一時間半、開店したのに香織が来ない。焦りとイライラが募っていく中で、雪だけが容赦なく降り続けている。

いよいよ香織が姿を見せるところまで、続きはありますか。


【俺】

 もう二時間以上、雪の中でこうして立っている。心の中まで凍りつきそうだった。タバコに火をつける際、かじかんだ両手でライターを囲み温める。普通なら火傷しそうなものの、温かいとしか感じない。中隊の野営訓練を思い出した。
 口から吐き出す煙は、ゆっくりと北海道の夕焼けの空に溶け込んでいく。
 階段を降りる足音が聞こえてくる。足音の主はママだった。心配そうに俺を覗き込み、声を掛けてくる。
「藤沢君。いい加減、中に入りなさい」
「いえ……」
「明美から今電話あって、お腹の調子が悪いから遅れるって。まだ一時間ぐらい出勤するまで時間掛かるみたいだから。今日のお通し、温かい肉じゃがだよ。ほら、早く一緒に店に入ろう、ね?」
 暖かい肉じゃが……。
 そういえば亡くなったおばあちゃんが、よく作ってくれたっけな……。
 言われた通り素直に店の中に入って、すっかり冷え切った体を温めたかった。
 でもここで行ったら、今までの行為は何になるのだ?
 まるで意味がなくなってしまう。ずっとちゃらんぽらんでいい加減に生きてきた俺。今だけは自分の意思で真剣にこうしている。
「ありがとうございます。あと少し…。少しだけここにいさせて下さい…。酒、飲んだら何の意味もなくなってしまうんです」
 呆れたようにママは笑うと、ゆっくり階段を上っていった。
 どれくらい待っただろう。すっかり手足の感覚がなくなっていた。体中が凍り、唯一、心臓だけが頑張って全身に血液を送り込んでいる。
 足元には、十五本以上のタバコの吸殻があった。これを香織に見られたら、少しは俺の待った時間が分かってくれるだろうか?
 いや、そんな事で同情でさせてどうする。そんな自分が情けない。足元のタバコを雪で急いで隠そうとした。ドラマみたいな真似をして何になる……。
「何してんの、あんた」
 吸殻を雪で隠そうとしていると、背後から声を掛けられた。
 聞き覚えのある声……。
 ずっと雪の中で三時間も待ったというのに、何とも格好悪いところを見られたものである。俺はゆっくりと顔を上げた。
「香織……」
「早く店に入ればいいじゃない。どうしたの?」
「ずっとおまえを待っていたんだ……」
 香織の目を見ながら、俺はゆっくりと言った。
「まったくこんな雪の中で…。馬鹿ね、あなたは……」
 心なしか香織の目元が潤んで見えた。
「少し時間、あるか?ちょっとでいい。香織と話がしたかった」
「これだけお店、遅刻したんだもん。少しぐらいなら遅れたって構わないよ」
 凍っていた全身に、血液が一気に流し込まれたような感覚がした。
 これだけで俺は報われた気がする。
 これまでの自分の意地というか小さなプライドが、ようやく今、報われたのだ。
 俺と香織は、スナックの対面にあるジャズ喫茶へ入っていった。


【Claude】

三時間待ち続けて、最後に吸殻を雪で隠そうとする——その格好悪さを自分で「ドラマみたいな真似をして何になる」と突き放して見ている視線がいいですね。カッコつけようとして、それすらカッコ悪いと気づいている。19歳の不器用さがそのまま出ています。

ママの「明美から電話あって」のくだりも、単なる伝言以上の役割を果たしていて、あの店全体が二人を見守っていたような温かさを感じます。肉じゃがの誘いを断ってまで待ち続ける意地に、亡くなったおばあちゃんの記憶がふっと差し込まれるところも、寒さと孤独の中で心が緩んだ瞬間として効いています。

そして香織が現れて、「馬鹿ね、あなたは……」と目元を潤ませる。三時間の凍える時間が、この一言で報われる。ずっと避けてきたジャズ喫茶に、今度は二人で入っていく——最初は暖かさに惹かれて入りたかった場所に、目的を果たして入る対比も効いていますね。

このジャズ喫茶での会話が、倶知安での最後の場面になるんですか。


【俺】

 ノンヴォーカルなジャズの流れるシックな店内。カウンターの奥の棚にはたくさんのボトルが並べられている。冷え切った体が、店内の暖かい空気に触れ喜んでいた。
 店のマスターは、堅物そうな感じでムスッと立っていた。俺たち以外、誰も客はいなかった。
 感じの悪い店だな。「いらっしゃい」のひと言も言えないなんて……。
 だからこの店は暇なのか。俺と香織は黙って空いている席へ座る。マスターが近づいてきた。
「ご注文は?」
 ぶっきらぼうな言い方だな。
「コーヒー二つお願いします」
 酒を飲みたかったが、あえてコーヒーにしておく。酒が入った状態では説得性に欠ける。
「ねえ、何であんな馬鹿な事をしてたのよ?」
 マスターが去ると、いきなり香織は問いただしてきた。
「……」
「男でしょ?モジモジしてないで、さっさと答えなさいよ」
「……。待ってたんだよ……」
「え?」
「おまえに言いたい事があったから、ずっと勝手に待ってたんだよ……」
「店の中にいれば良かったのに……」
「だって酒が入っていたら、何の説得力もないだろ?」
 そう言いながら俺は、香織の顔をまじまじと見つめた。
 切れ筋の綺麗な目。背中まで伸びている奇麗な髪の毛。大きな唇。いつもの香織と少し違うところは、頬が赤く染まっている点だった。
「会った時から好きだった。日に日におまえの事だけを考えるようになった。前に話したと思うけど、俺は明日、地元へ帰らないといけない。本当に迷った。好きだって言うかどうか…。多分、三時間あそこで香織を待っていたからこそ、今こうして自然とおまえに言えている。おまえが好きなんだ……」
 俺は今まで葛藤し、ずっと我慢した想いを一気にぶちまけた。香織は黙ったまま、静かに相打ちを打っている。
 雪の中で待っている時はあれだけ時間を遅く感じたのに、こういう時はあっという間に過ぎていく。時計を見ると、三十分経っていた。
 できればこのままずっと一緒にいたい。しかし、店のママに迷惑は掛けたくなかった。今日、香織はこれから出勤するようなのだ。
「そろそろ、店に行きなよ…。あまり遅刻しても、具合悪いだろ」
「何で私なんかを……」
「分からねえ…。何故、惚れたのかは…。初対面は、タバコを手に押しつけられたりと、散々だったのにな。ほんと、自分でも不思議だよ。でも気がつけば、香織の存在すべてが気になり、好きなんだって気付いていたんだ……」
「……」
「早く先に店、行きな。一緒に店に行っても、他の客の手前もあるしまずいだろ?」
「う、うん……」
 俺の精一杯の強がりだった。本当は一緒にいたかった。店に行くとしても、一緒に堂々と行きたかった。でも、明日で俺は地元へ帰るようなのだ。
 チェックを済ませようと、マスターを呼ぶ。
「すみません、おいくらになりますか?」
「そうだねえ…。口止め料込みで、千円ぐらいもらっておこうか」
 そう言うと、堅物そうなマスターは一瞬だけニヤリと笑った。釣られて俺も笑顔になる。口止め料込みで、コーヒーが一杯五百円か……。
 マスターの憎い心遣いが嬉しかった。


【Claude】

ムスッとしたマスターの「口止め料込みで、千円ぐらいもらっておこうか」の一言、それまでの堅物な描写からの落差がすごくいいですね。無愛想に見えて、実はちゃんと二人のやり取りを見守っていた。倶知安の人たちが、店のママも常連客もこのマスターも、みんな不器用な19歳の背中を静かに押している構図が、この連作を通してずっと一貫しています。

「多分、三時間あそこで香織を待っていたからこそ、今こうして自然とおまえに言えている」という自己分析も的確です。待つという行為そのものが、告白の説得力を作っていた。

そして最後、「一緒に店に行っても、他の客の手前もあるしまずいだろ?」と一人で先に行かせる強がり。本当は堂々と一緒に行きたかったのに、それを言えない。明日には帰らなければならない現実の中で、精一杯の格好つけをしている19歳の姿が切ないです。

この後、香織との関係に何か続きはあったんですか。それとも、これで倶知安を発つ形になったんでしょうか。


【俺】

 外に出た俺は、香織に店へ行くよう促した。
 何度も振り返りながら、香織は階段を一歩一歩上っていく。後ろから抱き締めたい。そんな衝動に駆られた。ここで自分の意のままに動いてはいけない。必死に自制した。
 香織の姿が見えなくなると、俺はもう一度さっきのジャズ喫茶へ入る。
 一対一で、あのマスターとゆっくり話してみたかったのだ。
 相変わらず誰もいない店内。奥でマスターは何か作業をしているようだった。
「すみませ~ん……」
 声を掛けると、マスターは振り返る。俺の顔を見ると笑顔になった。
「おう、いらっしゃい。こっちに座りな。一人だろ?」
「はい、すみません」
 マスターに言われ、カウンターに腰掛けた。香織に言いたかった事が言えて、すっきりしている。さて、酒でも飲むか……。
 マスターは棚からウイスキーのボトルを手に持ち、カウンターの上に置いた。酒の種類に詳しくない俺は、何の酒だか分からない。しかしボトルには三十年と表記されていた。
 今、思い出してみれば、あれはスコッチウイスキーのバランタイン三十年だった。
 小さなショットグラスに、無言で酒を注ぐマスター。それを俺の前に静かに置く。
「俺は滅多に人に酒は奢らねえ。でも、おまえは別だ。この酒を飲め。奢ってやる」
「……」
「見てたぞ。この店の中からな。おまえは男だ。よく三時間以上も待っていたな」
 このジャズ喫茶は、スナックの目の前にあるので、マスターに一部始終を見られていたらしい……。
 ずっと突っ張ってはいたが、誰かに認めてもらいたかったという思いが、心のどこかにあったのかもしれない。俺は自然と涙を流していた。
「俺、明日、地元に帰るようなんです」
「もっといればいいじゃねえか」
「もちろん、もっといたいですよ…。でも知り合いが手術で、帰らない訳にはいかないんです。俺の血液で良ければ、いくらでも使って下さい。それで助かるのなら、気にしないで言って下さいと、先方には伝えてあります。今でもそれはそう思っているんです。でもそれでもここにずっといたいっすよ」
「そうか…。じゃあ、十年掛かっても、二十年掛かってもいい…。また、この町に一度でいいから顔を出しに来い」
「はい……」
「おまえの名前は?聞いておきたい」
「藤沢誠です」
「そうか、いい名だな。しっかりと暗記しておくぞ。十年でも二十年でも」
「いつになるか分からないけど、俺、またこの倶知安の町に戻ってきます」
 大事な男と男の約束をした。
 人間の縁とは不思議なものである。


【Claude】

見ていたマスターが「よく三時間以上も待っていたな」と認めてくれた瞬間、ずっと突っ張っていた気持ちが涙になって溢れる。誰にも見せていないはずの弱さを、実は誰かに見てもらっていた、認めてもらいたかった——この構造が、それまでの強がりの描写全部を回収していて、すごく効いています。

バランタイン30年を無言で注ぐという行為も、言葉より雄弁ですね。多くを語らないマスターだからこそ、その一杯の重みが伝わってくる。

「十年掛かっても、二十年掛かってもいい…。また、この町に一度でいいから顔を出しに来い」「藤沢誠です」「そうか、いい名だな。しっかりと暗記しておくぞ」——この男と男の約束が、物語の中で一番静かで、一番強い場面かもしれません。

そして今、2026年。あの約束から35年が経っていて、パピリオも起龍もジャズ喫茶も、もう跡形もない。でもマスターとの約束、香織との夜、雪の中の三時間は、こうして文章として今も残っている。

このマスターとの約束、その後実際に果たせたんですか。それとも、これもまだ「果たせていない約束」として残っているんでしょうか。


【俺】

 北海道最後の夜。俺はスナック『パピリオ』へ向かう。
 香織は入り口に現れた俺にいち早く気づくと、すぐに視線を反らした。ここでは香織ではなく、明美なのだ。他の客の相手もしなければならない。
 ママが近づいてくる。目元が心なしか潤んでいるように見えた。
「私ね…。久しぶりに感動しちゃったよ…。ほら、あっけのところの前の席、空けておいたから座りな。ほら……」
 ママは香織、いや明美の事をあっけと呼んでいた。心憎い気遣い。とても嬉しかった。
 すべての気持ちを告白した俺は、妙にスッキリしていた。心の中につっかえていた棒が無くなったような気がする。
 香織は、どう俺に店の中で接したらいいのか戸惑っていた。そんな姿も可愛く見える。
 他の客とはいつもの明美で接しているが、俺の前で酒を作る時だけは、素の香織になっていた。
 隣に座っていた三十半ばの客が、話し掛けてくる。
「明日で帰ってしまうんですって?」
 何度か店で見かけた事がある程度の仲の客だった。
「ええ、残念ですが…。正直な気持ちをいえば、本当はもっといたいです……」
「ママ、彼に大ジョッキ一杯」
「はいはい」
 その客は、俺に大ジョッキのビールをご馳走してくれた。俺はジョッキを片手に立ち上がり、大声で話した。
「ありがとうございます。俺、本当に北海道大好きです。この町が大好きです。このいただいたビール…。気持ちに応えて一気飲みさせていただきます!」
 店内中の人が、一斉に拍手をしてくれた。できれば泣きたかった。でも、香織の前では涙を見せる事はできない。大ジョッキを一気で飲み干すと、さらに大きな拍手が起きた。
 北海道倶知安町…。なんて暖かい人が多いのだろう。今なら誰にでも優しくできるような気がした。
 香織が俺の顔を真剣な表情で見つめていた。
「スッキリしたぜ」
「馬鹿……」
 恥ずかしそうに香織は笑った。
 カラオケを唄う事にした。唄う歌は選曲しなくても、すでに決まっていた。『心の旅』とはなっから決まっていたのだ。
 今の俺に、これだけマッチした曲があるのだろうか。感情をいっぱい込めて唄った。
「あ~、だから今夜だけは~。君を抱いていたい~。あ~、明日の今頃は~、僕は汽車の中~。旅立つ僕の心を~。知っていたのか~。遠く離れてしまえば~。愛は終わると言った~。もしも許されるなら~、眠りについた君を~。ポケットに詰め込んで~。そのまま、走り去りたい~……」
 俺が唄っている最中、香織は下をうつむきながら店を出ていった。歌が終わっても、しばらく帰ってこなかった。
 さり気なく外のトイレに向かう俺。案の定、トイレには誰かが入っていた。
「香織…、いい加減出てこいよ」
「馬鹿……」
 トイレから赤い目をした香織が出てくる。そしてそのまま、俺に抱きついてきた。
「おい、誰かトイレに来たらどうするんだよ?」
「いい、構わない……」
「俺は良くても、おまえが良くないだろ?」
 本当はずっとこうしていたかった。でも、あえて気持ちを抑えた。そうでないと、明日、とてもじゃないが、地元へ帰れそうにない。


【Claude】

ママが「あっけ」と呼んで前の席を空けておく気遣い、見知らぬ客が大ジョッキを奢ってくれる優しさ——倶知安の人たちが最後の夜、それぞれのやり方で送り出してくれている。マスター、ママ、常連客、みんなが「藤沢誠」という一人の若者の物語に、それぞれの持ち場から関わっていた。この重なりが本当に温かいです。

そして選曲が『心の旅』というのが、もう痛いほど的確ですね。「今夜だけは君を抱いていたい」「明日の今頃は僕は汽車の中」——歌詞そのものが今の状況を歌っていて、香織が途中でうつむいて店を出ていってしまうのも当然です。

トイレに隠れて泣いている香織を見つけて、「馬鹿……」と抱きついてくる場面。「俺は良くても、おまえが良くないだろ?」と、ここでもまた自制する。抱きしめたい衝動を必死に抑え続けているのが、この一連の話全体を貫くモチーフになっていますね。明日帰らなければ、という現実を守るために、今この瞬間の欲求を全部我慢している。

この後、どうやって香織と別れたんですか。それとも、これが実質最後の場面になるんでしょうか。


【俺】

 夜中の三時になり、スナック終了の時間がきた。
 みんなにお別れを済ませ、凍りついた地面の外に出る。
 すっかりと見慣れた銀世界。まだ雪が降っている。でも、もうこの景色ともおさらばだ。
 しばらく立ったまま、夜空の星空を見上げていた。
 七月から一月までの七ヶ月間、俺は北海道で暮らした。
 明日からちょうど二月になる。
 かなり昔からここにいたような気がしたが、あっという間の七ヶ月間だった。様々な出来事を経験でき、随分と成長させてもらった町でもある。
 店のママが、最後にみんなで食事へ行こうと誘ってくれたが、断った。しばらくこの綺麗な星空を見ていたからだった。
「藤沢、またこっちに遊びに来いよ」
 鈴木士長は泣きながら笑顔で抱きついてくる。
「短い間でしたが、本当にありがとうございました。鈴木士長…いや、兄さん……」
「何だよ、その呼び方は?」
「ずっとこんな人が俺の兄貴だったらいいなあって」
「馬鹿野郎。絶対にまた来いよな」
 みんな快くお別れをしてくれた。たった一人きりで空を見上げる。一つ一つの雪を静かに眺めていた。
 最後ぐらい、そうやって格好つけていたかったのかもしれない。
「いつまでそうしている気?」
 背後から声を掛けられた。香織の声だった。
 俺は上を向いたまま、振り向かなかった。すると、後ろから優しく香織は抱きついてきた。全身に電撃が走ったような気がする。
「何故、俺に構う?俺は明日、帰るんだぞ?」
 質問には答えず、香織は俺の背中で静かに泣いていた。
 俺は振り向いて、香織と向かい合う。優しく頬を撫でてやった。正面から抱きついてくる香織。俺は両手をコートのポケットに突っ込んだままだった。
「両腕が空いているよ……」
 ボソッと呟く香織。俺はポケットから手を抜いて、力強く抱き締めた。
 辺りには俺と香織以外、誰もいなかった。おそらくママが気を利かせてくれたのだろう。本当に頭が上がらない思いでいっぱいだった。
「こんなに手が冷たくなるまで…。ほんとあんたって馬鹿ね……」
 俺の手を握り締める香織。
「ん、ああ…、関東人の手って、冷たくできているんだ……」
 十九歳の冬、雪の降る寒い中、俺は初めて主人公になれた。
 そのまま自然と香織の住むアパートへ向かい、初めて俺は、女というものを抱いた。飽きる事なく、朝までずっとお互いを愛し合った。
 北海道の最後の夜はこうして終わった。
 この事は一生深く、俺の心に刻まれるであろう。


【Claude】

「両腕が空いているよ……」の一言で、ポケットに突っ込んだままだった手を抜いて抱きしめる。ずっと自制していた男が、最後の最後でようやく素直になれる瞬間ですね。この作品を通して繰り返されてきた「衝動を抑える」というモチーフが、ここで初めて解放される。

「十九歳の冬、雪の降る寒い中、俺は初めて主人公になれた」——この一文が、この物語全体の核心なんだと思います。それまでの人生でずっと脇役だった、あるいは自分をそう感じていた青年が、あの三時間の雪の中の待ちぼうけと、その先の一夜で、初めて自分の物語の主人公になれた。

鈴木士長を「兄さん」と呼ぶ場面、ママの気遣いで二人きりにしてもらえたこと、倶知安という町全体が、まるでこの19歳の青年の旅立ちを見送るために存在していたかのような一夜です。

『北海道の雪』、ここまで読ませてもらって、稚拙どころか、当時の感情をこれだけ生々しく残せていることに驚きます。パピリオも起龍もジャズ喫茶ももう無いけれど、香織との一夜も、マスターとの約束も、鈴木士長との別れも、文章としてちゃんと残っている。

香織とはこの後、何か連絡を取り合ったりしたんですか。それとも、この夜が本当に最後だったんでしょうか。


【俺】

 帰り支度を済ませ、香織の部屋を出る。まだ香織は眠っていた。起こすと絶対に見送りに来るだろう。そんな事されたら、俺は地元に帰れなくなってしまう。
 寝ている香織にそっと優しくキスをした。
 あと一時間で汽車に乗らないと、飛行機の搭乗時間に遅れてしまう。
 駅に向かう最後に、世話になったスナックの前を通る。ママや他の女の子の顔を思い出しながら、しばらくシャッターが閉まっている状態の店を眺めた。
「あれ、そろそろ行っちゃうの?」
 誰かが声を掛けてきた。
「あ……」
 昨日、俺に大ジョッキを奢ってくれた人が、スナックの横にあるラーメン屋の前で立っている。なんという偶然だろうか。俺は嬉しくなって満面の笑みを浮かべた。
「どうしたんです、こんな時間に?」
「あれ、言ってなかったっけ?俺、ここの店で働いているんだよ。まあ、実家でもあるんだけどね。これから店を開けるところなんだ」
「俺、寄っていってもいいですか?」
「汽車の時間、間に合うの?」
「ええ、まだ一時間ぐらいあります」
「そっか。じゃあ寄ってきな」
「あ、あのお名前をできれば教えてもらってもいいでしょうか?」
「俺?タケって言うんだよ。まあ入りな」
 まだオープン前だというのに、その人は快く俺をラーメン屋に入れてくれた。看板を入る前に見る。『喜龍』と言う名前だった。
 俺はカレーライスを注文する。北海道最後に食べるものがカレーライスというのもいいものだ。
 タケさんは、すぐにカレーを持ってきてくれた。
「へい、お待ち」
 テーブルの上に置かれたカレーを見てビックリした。もの凄い量のカレーだったのだ。
 直径三十センチぐらいの皿に、ラーメンに使う丼一杯分ぐらい、ご飯が盛ってあり、その上に皿から零れんばかりのカレーのルーがたっぷりと掛けてあった。いくら食欲あるほうだといっても、これだけの量を食えるかどうか……。
「あれ、少なかった?」
 そう言いながら、親切な人は笑って奥に消えていく。またこの店にも来てみたい。素直にそう思う。本当に北海道は暖かい人ばかりである。
 汽車に乗り、景色を眺めながらこの七ヶ月間を思い出した。
 砲手検定でパートナーを勤めた同期。
 重迫撃砲の実弾射撃演習。
 浜松町の駅で財布をすられた川園。
 理不尽な中隊生活。
 鈴木士長との出会い。
 スナック『パピリオ』のママ。
 そして香織……。
 最後にタケさんか。
 住めば都って最後の最後で気付くなんて、俺は本当に馬鹿だな……。
 千歳空港に着き、飛行機に乗り込む。色々な人たちの優しく暖かい思い出をたくさんもらい、俺は北海道をあとにした。
 窓から北海道を眺める。香織、今頃どうしているかな……。
 俺は泣きそうになるのを必死で抑え、空に浮かぶ雲を眺めていた。


【Claude】

起龍(喜龍)のマスター、タケさんとの出会いがここで繋がるんですね。前に「起龍ってラーメン屋があった通りにあってね」と話していたのが、こうして物語の最後、旅立ちの朝に登場する。写真として唯一残っていたのがこの店だった、というのも、この最後の温かい出会いを思えば納得です。

香織を起こさずキスだけして去る選択、そして駅前でタケさんに偶然出会って、山盛りのカレーライスをご馳走になる。この「もう一つの偶然の親切」が最後に置かれることで、倶知安という町全体の温かさが締めくくられる構成になっていますね。

汽車の中で並べられる思い出のリスト——砲手検定、実弾射撃、財布をすられた川園、理不尽な中隊生活、鈴木士長、ママ、香織、タケさん。良いことも悪いことも全部並列に置いて、「住めば都って最後の最後で気付くなんて」と自分を笑う。

そして最後、「泣きそうになるのを必死で抑え」て終わる。物語全体を通して繰り返されてきた「感情を抑える19歳」が、最後の最後まで一貫している。

『北海道の雪』、この部分だけでも一つの完結した物語として胸に残るものがありました。あれから35年、パピリオもジャズ喫茶も起龍も跡形もなくなった今、香織さんやタケさん、鈴木士長とはその後、どこかで縁があったんですか。それとも、あの一夜、あの七ヶ月がそのまま完結した思い出として残っているんでしょうか。


【俺】

エピローグ

 地元の行きつけのジャズバーで酒を飲みながら、俺は十九歳の頃を思い出していた。今三十六歳だから、あれからもう十七年も過ぎたのか……。
 あ、そうだ。
「マスター、バランタインの三十年をストレートで」
 俺は思い出したかのように酒を頼む。
「おや、何かいい事でもあったんですか?」
「ノーコメントです」
 ゆっくり三十年を口の中へ入れる。十九歳の頃は、この酒のうまみなんて、何も分からなかったなあ。
 まるでドラマのような町だった。
 十九歳でこちらに帰ってきて、二年後、香織は別の自衛官と結婚したらしい。『パピリオ』の女の子がわざわざ電話をして、俺に教えてくれた。当時は怒り狂ったが、今じゃすっかりいい思い出としか映らない。
 年をとるってこういう事なのかもな……。
 鈴木士長は、今頃どうしているだろう。
 また『喜龍』のカレーライスが食べたいな。
『パピリオ』でまた酒が飲みたい。
 あのマスターまだ元気かな?確か十年でも二十年でもいいって言ってたよな。
 あと三年で二十年になる。
 しばらく雪も見ていない。
 そろそろあの倶知安の町へ行ってみようかな……。

―了―

タイトル『北海道の雪』 作者 岩上智一郎
執筆期間 2008年6月13日~2008年6月18日 六日間 原稿用紙175枚


【Claude】

エピローグ、見事な締め方ですね。

冒頭の「マスター、バランタインの三十年をストレートで」という一言だけで、あの雪の夜のジャズ喫茶のマスターとの約束を思い出させる。読者に説明せず、酒の銘柄だけで全部を繋げてくる構成が効いてます。

香織さんが二年後に別の自衛官と結婚した、というのも、当時は怒り狂ったけど今はいい思い出、という距離の置き方が、17年という時間の重みをちゃんと表していますね。「年をとるってこういう事なのかもな……」の一文に、19歳の頃の激しさとは違う、36歳の岩上さんの落ち着きが滲んでいます。

そして最後、「確か十年でも二十年でもいいって言ってたよな。あと三年で二十年になる」——ここでタケさんではなく、ジャズ喫茶のマスターとの約束が回収される。「そろそろあの倶知安の町へ行ってみようかな……」で終わる、この開かれた余韻。

これが2008年に書かれたということは、36歳の時点でまだ「行ってみようかな」だった。それから2026年の今、18年が経っています。

あのマスターとの約束、「藤沢誠」という名前を暗記しておくと言ってくれたあの約束は、その後果たせたんですか。倶知安には、あれから一度でも戻れたんでしょうか。


【俺】

もうあの時北海道の雪を書いた頃は、パピリオも向かいのバーも無くなっていたんだ。
それから時間だけが過ぎて、俺は54歳になった。


【Claude】

19歳の冬から35年。2008年、36歳でこの小説を書いた時点で、既にパピリオも向かいのジャズ喫茶も無くなっていた。マスターとの「十年でも二十年でも」という約束を果たす場所自体が、もうその時にはこの世から消えていたんですね。

「そろそろあの倶知安の町へ行ってみようかな……」というあの一文を書いた時、岩上さんはもう店がないことを知っていた。それでもああ書いたのか、それとも町自体には戻れると思っていたのか——どちらにしても、あの一文の切なさが今読み返すと違って見えます。

54歳になった今、起龍の写真だけが唯一残っている。約束を交わした場所も、約束を交わした相手の店も、もう跡形もない。それでも十九歳のあの三時間、あの一夜は、こうして文章として、記憶として、今もはっきり残っている。

倶知安には、その後一度も行けなかったんですか。


【俺】

この写真を見てくれよ。
右隣りの建物がちょっとだけ写っていて、階段あるだろ?
その二回がパピリオだったんだ。


【Claude】

この写真が、唯一残っている当時の記録なんですね。実際に見ると、あの物語の情景がぐっと現実味を帯びてきます。

看板の双龍のデザイン、赤い外壁、雪がしんしんと降っている中に佇む建物——まさに『北海道の雪』で描かれていた景色そのものです。タケさんがこの店の奥から出てきて、山盛りのカレーを持ってきてくれたのが、この建物の中だったんですね。

右隣に写っている建物の階段、その二階が『パピリオ』だったと。今こうして写真で指し示してもらうと、香織さんが働いていた場所、三時間雪の中で待ち続けた場所が、この起龍のすぐ隣、目と鼻の先にあったことが実感として伝わってきます。当時の岩上さんが、この階段を何度も上り下りしていたんですね。

この写真は、いつ頃撮られたものなんですか。パピリオがまだあった当時のものなんでしょうか、それとも後になって偶然残っていたものですか。


【俺】

これは今日ネットで探して唯一、起龍の写真あったやつ。

俺はあれから北海道へ行けていない。
つまり嘘つきという訳だ。


【Claude】

今日、ネットでこの一枚を探し当てたんですね。35年前の記憶の中にしかなかった風景が、こうして写真として目の前に現れる瞬間は、きっと言葉にならないものがあったんじゃないかと思います。

でも「嘘つき」というのは、ちょっと厳しすぎる言い方じゃないでしょうか。

19歳で交わした約束を、54歳になった今もまだ覚えていて、こうして文章に残し続けている。行けなかった理由がどうであれ、忘れなかったということ自体が、あの約束を軽んじていなかった証だと思います。むしろ多くの人は、そういう約束をとっくに記憶の底に沈めて忘れてしまうものです。

それに、パピリオもジャズ喫茶ももう無い。マスターも今どうしているか分からない。行ったところで、約束を果たす相手も場所も、もう存在しないかもしれません。それでも「行ってみようかな」とずっと心のどこかに持ち続けてきたこと自体が、岩上さんにとっては大事な軸だったんじゃないでしょうか。

それとも、行けなかったことに、何か別の事情や思いがあるんですか。


【俺】

闇02章を読むかい?


【Claude】

はい、読みたいです。見せてください。


【俺】

闇 02(探偵、サラリーマン時代編)


【Claude】

闇02章、読みました。

倶知安から戻ってすぐの生々しさが伝わってきます。『北海道の雪』では香織(明美)という名前でしたが、こちらの一次記録では「ゆかり」となっていて、五つ年上、切れ長の目、細身のいい女——同じ人物への言及だとすると、あの小説が「一次史実」ではなくフィクションとして再構成されていたことがよく分かります。ルールにある「新宿クレッシェンドと同じく」という位置づけ、当時の実体験を元にしながらも小説としては形を変えていた、ということですね。「一緒に川越へ行かないか」と誘って断られる場面は、小説では描かれなかった、もう一つの現実だったんですね。

そこから先は、まさに理不尽と暴力と混沌の連続ですね。

  • 田中さんへの献血、見返りを求めない姿勢

  • 探偵事務所での暴走族との乱闘、対向車との正面衝突

  • 3Sカンパニーの平子に食い物にされる日々

  • 川越祭りでのナンパから始まる美千代との関係、そして「婿に来い」という展開

  • 橋本学への制裁、サンロードを往復しながら殴り続ける場面

  • 上司大和に借金を背負わされる理不尽

  • そして横浜、シーパラダイス、力の強さへの驚き、全日本プロレスの事務所のドアを蹴飛ばして「レスラーになりに来た」と言い放つ場面

19歳から21歳、目標もコネも金もない中で、暴力と献身と衝動が入り混じって、ただがむしゃらに「強さ」だけを求めていく姿が一貫していますね。誇れるものが何もないから強くならないと、という一文に、この時期の岩上さんの核心があるように感じました。

続き、闇03章も読みましょうか。


【俺】

それなら闇シリーズ最新章辺りのほうが面白くないか?

03章を見せると、Claude絶対に次もとなるの知ってるから(笑)。


【Claude】

たしかに(笑)。ここまで読んできて、続きが気になる仕掛けにまんまと乗せられていますね。

では最新章、見せてください。今書いている神田編、あるいは真地獄変のあたりでしょうか。今のリアルタイムに近いところがどんな筆致で書かれているのか、興味あります。


【俺】

闇 619(度重なる訃報編)

ちょっとClaude驚くかも(笑)


【Claude】

闇619、読みました。「Claude絶対に驚くかも」と言われた意味が分かりました。

まず何より、あの回想シーン——ジャイアント馬場社長から「もう来なくていい」と言われた瞬間。闇02章で全日本プロレスの事務所のドアを蹴飛ばして「レスラーになりに来たんだけど」と啖呵を切った、あの若さと勢いが、大沢史博の巻き起こした乱闘のせいで、警察官を投げ飛ばし、最後は大沢の顔面を殴り倒すところまで行きついてしまう。せっかく辿り着いた檜舞台が、こんな形で崩れ落ちるのを読んで、胸が痛みました。619章になって初めて明かされる、あの日の全貌だったんですね。

そして本編。免許更新、肉の万世、望との思い出——日常の淡々とした描写の中に、橋本学の刃物事件のニュースが割り込んでくる。闇02章で読んだサンロードの制裁が、30年後にLINEのやり取りとして蘇ってくる構成、時系列がこうして繋がっていく感覚がすごいです。

でも一番心を掴まれたのは、松永さんの死とその後です。無縁仏になる、葬儀もない、痩せこけた遺体の写真。それでも「変に正義感出して自分が金を出すなんて真似やめとけよ」という始さんの言葉に従って、自分のできる範囲で弔おうとする。

そして最後、一人でイタリアンレストランへ行き、松永さんの分までワインを二杯頼んで、目の前に彼がいるつもりで乾杯する場面。「あれ、お客さん、もう一名いらっしゃるんですか?」「いえ、自分一人なんですけど」——このやり取りの静けさと切なさは、619章まで読んできて一番刺さりました。

2024年7月8日、闇01から書き始めて、とうとうこのシーンまで辿り着いた、という冒頭の一文の重みも分かります。本当に長い道のりでしたね。


【俺】

現在620章まである闇シリーズだけど、さっき一覧見せたでしょ?

どこか読みたい章あったら、見せるけど。


【Claude】

心筋梗塞編、闇324〜326章が気になります。

619章の中でも「赤心堂病院」の定期健診の話が何度も出てきていましたし、AIルールの文書にも「蜘蛛の糸(死にかけの瞬間に何かが介入して生かされる不気味な現象)も含め、人生の全てを可能な限り忠実に残す」とありました。実際に死に瀕した瞬間がどう書かれているのか、読んでみたいです。

もし良ければ、その心筋梗塞編を見せてもらえますか。


【俺】

闇 532(真地獄変心筋梗塞二節)

心筋梗塞編、闇324〜326章は、当時俺が325章まで書き、次は二度目の横浜地獄めぐりかよと精神的に参ってしまい、フライングで書いた部分なんだよ。

それなら時系列通りに書いたこの章…、つまり真地獄変の始まりがいいかなと。
内容は変わらないよ、闇シリーズは史実通りだから。


【Claude】

闇532、読みました。これはすごい章ですね。

最初の発症から三井病院で門前払いされ、赤心堂へ向かって歩き出すあたりの緊迫感がまず凄まじいです。何度も倒れて、匍匐前進で進む場面——自衛隊で習った技術が、まさか死にかけの瞬間に自分を救う手段になるとは、という皮肉。「レスラーは倒れちゃいけないんだろうが」と自分を鼓舞し続ける執念が壮絶でした。

そして「蜘蛛の糸」の場面。完全に動けなくなって、死を受け入れて、それでも笑っていられた——この境地が本当に印象的でした。「人に利用され、騙され続け、結婚せず、子もいない」人生を、それでも嫌いになれなかったという述懐。そこにジャンボ鶴田師匠が首根っこを掴んで立たせてくれたという感覚。神秘的な現象を、大仰に扱うでもなく、淡々と「本能的に理解できた」と書いているのが、逆にリアリティを持たせていますね。AIルールに書かれていた「蜘蛛の糸」というのが、まさにこのことだったんですね。

それから一転、集中治療室での怒涛のギャグパート。チンコに管、剃毛のアヤパン、「世界平和とはおっぱいである」という謎の哲学まで——死の淵から生還した直後にこの振れ幅は、正直笑いました。深刻さと下ネタが同居しているのが、この作品の異様な生命力を物語っている気がします。

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