闇 19(ゴマすり豚野郎追放編)
闇 19(ゴマすり豚野郎追放編)
2024/08/12 mon
2025/07/14 mon
前回の章
「何で急にピアノを始めたの?」
ピアニストが素朴な質問をしてきた。
演奏を聴いてくれた彼女ならいいか。
俺は春美との出会いから今までの事を簡単に説明してみる。
人に話す事で、随分と気も紛れるものだ。
「ふ~ん、そういう情熱があの演奏の裏側にあった訳ね」
「もうどうでもいいですけどね……」
「ピアノはもう辞めちゃうの?」
ピアノを辞める?
それは少し違うような気がした。
きっかけは春美。
しかし駄目になったからといって、ピアノを辞めるのか?
「う~ん、それとこれはまた別だと思うんです。素人だった俺が、ここまで弾けるようになったんです。ピアノを弾く楽しさ、面白さは分かりましたからね。自分を教えてくれた先生ってクラシック専門なんですよ。だから恩返しという意味合いでも、いつかクラシックの曲を弾きたいなあって思ってはいます。何か俺に似合って弾けそうな曲って何かありますか?」
グダグダ話しながら考えた。
おそらくピアノを辞めたくない言い訳を必死に探しているのかもしれない。
「そうね、ドビュッシーなんかいいんじゃないかしら」
今日、先生が弾いてくれた曲の一つもそうだった。
確か舞曲のスティーリー風だか何だか、フランス料理みたいな名前の曲だったっけ。
「ドビュッシー……」
「私、何か弾いてみようか?」
「え、いいんですか?」
「その代わり、ビール一杯ぐらいは奢ってよね」
「了解です。マスター、こちらの方にビールをお願いします」
ピアニストはニコリと笑い、ピアノへ向かう。
綺麗な音色が不規則なリズムで聴こえてくる。
俺レベルでも右手で主音を奏で、左手で伴奏をしているの分かる。
ザナルカンドみたいな左右の共同作業とは、まったく種類の違う複雑な曲だった。
俺の弾く曲は、右も左も同時に押すタイミングは同じで優しい弾き方の曲になるのだろう。
左手と右手が別々のリズムで奏でられていながら、それが複雑に交差していく。
強弱はちゃんとあるのに、すべての音色が一定の美しさを保っているように聴こえた。
今の俺には、どう足掻いても弾けないレベルの曲だ。
それにしてもどこかで聴いた覚えのある曲でもあった。
どこで聴いたんだっけ……。
ピアニストの演奏が終わる。
気付けば盛大な拍手を送っていた。
久しぶりに心の底から手を叩いていた。
得意げな表情でピアニストは、俺の横に座る。
「すごい上手いです。左右の手が別々の生き物のように思えましたよ。綺麗な曲ですね」
「アラベスクの第一番。いい曲でしょ?」
「ええ、本当にいい曲でした。俺じゃ絶対に弾けない曲ですけどね」
ドビュッシーの曲は、これで二つ聴いた事になる。
全然感じの違う曲同士だったが、俺は両方とも甲乙つけがたいぐらい好きになった。
「そうですね。マスター、そろそろチェックいいですか」
明日も仕事だ。
さすがに今日みたいな日はゆっくり休みたい。
春美の一件は俺の心をズタズタに切り裂き、絶大なダメージを与えている。
「あなた、仕事は何をしているの?」
「バーテンダーです」
また嘘をつく。
それは五年以上前の話だろうが……。
どうでもよかった。
「へえ、格好いいなあ……」
「ピアニストのほうが格好いいですよ」
怪しげな瞳で俺を見つめるピアニスト。
顔立ちは綺麗だが、少し酒に酔っているようだ。
俺は席を立ち上がる。
「もっと飲んで行きなさいよ」
服を掴まれた。
「明日に差し支えますから」
「大好きな子に振られて悲しいんでしょ? こういう時はヤケ酒もいいんじゃない」
ヤケ酒か。
確かに今日ぐらいグデングデンになるまで飲んでいたかった
「そうしたいのは山々ですが、今は一人になりたいんですよ……」
マスターからお釣りを受け取ると、席を立ち上がる。
「じゃあ、ピアニストさん。演奏、ありがとうございました。ビール、もう一杯分払っておいたので、ゆっくりして下さい」
店の外に出ると軽く伸びをした。
あれから春美の返事は何もない。
いくら謝っても取り返しつかないのかもしれないな……。
春美の事を思うと、やるせない気持ちになってくる。
ピアノを弾いている時は、このやるせなさを音に代えて表現できた。
これから俺はどうすればいいのだろう。
その時、背後でドアの開く音がした。
振り返ると、ピアニストが微笑みながら近付いてくる。
「本当に家へ帰るのかしら?」
二人の距離がどんどん近付く。
ヤバい……。
ピアニストは俺の首に両腕を回してきた。
息が顔に掛かる。
少し酒臭い。
女の匂いが鼻をつく。
嫌いな匂いじゃなかった。
密かに興奮している。
唇と唇が触れ合う。
俺はそのままの状態で立っていた。
不思議と春美に悪いという罪悪感はない。
このまま流されたら、どんなに楽だろうか?
口の中に女の舌が捻り込んでくる。
アルコール漬けの匂いを染み込ませながら、女の舌は激しく俺の口の中で動いていた。
気持ちがいい……。
長いキスを終え、ピアニストは妖艶な瞳で俺を見つめていた。
「ねえ……」
「……」
「あなたのピアノを分かる女のほうがいいわよ」
「どういう意味です?」
「あなたがどれだけ苦労して、あそこまでピアノを弾けるようになったのか。その努力を理解できる女のほうが、あなたにはいいんじゃない?」
その通りかもしれない。
何もない状態から、春美に聴かせたい一心で頑張った。
それなのに彼女は一度も聴いてくれない。
その事が一番悲しかったのだ。
今、俺はこの人から誘われている。
このまま流されたほうがどんなに楽な事か。
他の女を抱けば、春美を忘れる事ができるかもしれない……。
美人ピアニストを抱く。
悪くない。
「ね、そう思うでしょ?」
再びピアニストの両腕が俺の首に巻きつく。
この女なら俺を理解してくるかもしれない……。
その時、春美の悲しい顔が頭の中に浮かぶ。
ザナルカンドの悲しい音色が聞こえてくる。
咄嗟にピアニストを突き飛ばす。
「な、何すんのよ!」
俺の行動に女は醜く顔を歪める。
「これ以上、俺を汚すな…。ピアノを始めたんだって、一人の女に…。春美に聴かせたかっただけなんだ! それ以外の女に、俺の弾くピアノを分かってもらおうとは思わない。俺は努力なんてしてない。ただ、春美に捧げたかっただけなんだ……」
俺はいつの間にか泣いていた。
こんなにも俺は春美が好きなのだ。
自分が情けなかった。
「ふん、ばっかじゃないの。どうぞ、ご勝手に……」
ピアニストは不機嫌そうに店の中へ戻っていった。
家に帰り、布団に包まったまま泥のように眠る。
疲れていた。
朝起きると、まだ若干酒が残っていた。
春美から来たメールを何度も読み返す。
そして泣いた。
一つ、分かった事がある。
こんな状態になっても、俺は春美が好きでいる。
一心不乱にキーボードを弾く。
十時間以上ザナルカンドだけを延々と……。
そろそろ仕事へ行く時間だ。
赤い目のまま、駅に向かう。
初対面で会ったばかりなのに、いきなりキスをしてくるようなピアニストの女。
昔は抱ければ良かったから、ああいう女を好んだ。
顔立ちも綺麗だし、女としての魅力も充分に兼ね備えている。
春美と出会う前なら絶対に抱いていただろう。
春美と逢ってから、俺はおかしい。
春美だけが俺を簡単に癒し、簡単に傷つける事ができる。
俺は何故、こんな窮屈な恋を選んだのだろうか?
電車に乗って揺られながら、何度も春美からのメールを読み直す。
彼女はどんな想いでこのメールを打ったのだろう。
俺は何故考えてやれなかったんだ。
十歳も年が離れているのに、これじゃ何の意味もない。
まず彼女に謝ろう……。
『本当に君を傷つけてしまった。深く反省している。君の事を何故もっと思いやってあげられなかったのだろう。今、とても後悔している。本当にごめん。君に俺のピアノを捧げたいよ。 岩上智一郎』
春美へメールを送る。
酷く女々しい内容。
年上としての威厳もクソも無い。
プライドも何も無いどうしょうもないメールを送ってしまった。
もういいさ、送信してしまったのだから……。
しばらく何も考えずに、ボーっと景色を眺める。
電車は高田馬場に到着する。
次は新宿だ。
その間、春美からの返事はない。
電車のガラスに水滴がつきだした。
雨が降り出したのか。
『何度もメールをごめん。今の俺の心境を言います。正直に…。とても辛いです。君からの連絡がないだけで、とても寂しくせつない。でもどんなに辛くても、どんなに雨が降ろうとも、俺は仕事に向かわないといけない……。 岩上智一郎』
再びメールを送る。
祈るような気持ちだった。
電者は新宿に到着する。
どしゃ降りの雨が降っていた。
傘も差さずに道を歩く。
雨の冷たい感触が心地良い。
この濁った心の中を雨で全部洗い流してほしかった。
ズブ濡れのまま歌舞伎町を歩く。
今日もワールドワンで仕事か……。
溜め息しか出てこない。
いや、そもそもこんな男が春美みたいな子を口説こうとしていた事自体、大きな間違いだったのだ。
今の俺は単なる裏稼業ゲーム屋の従業員である。
こんな何の将来性もない男が、彼女を口説けたとしてどう幸せにするというのだ?
フラれてちょうど良かったのである。
こんな薄汚い世界にいる俺と一緒にいるなんて、春美には相応しくない。
自身を大いに恥じる。
この街に来てから俺は、ずっと裏稼業をしてきた。
ゲーム屋…、警察に捕まる可能性のある仕事。
仕事中、番頭の佐々木さんから呼び出される。
俺は三門、山下、伊藤に店を任せ、深夜喫茶の上高地へ向かう。
「どうしました、佐々木さん?」。
いつもニコニコしている佐々木さんの顔は険しい。
嫌な予感がした。
「岩上君…、大変申し訳ないんやけど……」
「な、何でしょう?」
「トップの中川さんおるやろ? あの人に最近変な取り巻き増えてね……」
耳の早い早番の吉田が、引き継ぎの時意味不明な事を言っていたのを思い出す。
吉田の言う事だから右から左で、まともに聞いていなかったが。
「ワールドワンの設定…。新しい石を作ったから、店のシステムすべて変わるようになるんや」
「例えば?」
「まず五万あったビンゴは一律で一万になる」
「え! そんな事したら常連さんたちからクレームの嵐になりますよ?」
「もちろんワイも散々反対したんや…。でも新しい石がOUT率八十パーセントの設定やから、客も納得すると……」
「そんなもんで、客が納得する訳無いじゃないですか! 閑古鳥が鳴きますよ?」
「うん、もちろんワイもそう思う……」
「ですよね?」
佐々木さんは下を俯いたまま口から煙をゆっくり吐き出す。
一本のタバコを吸い終わってからゆっくりと俺を見た。
「それと給料が…、みんな一律十時間で一万、責任者は一万千円に下がって、あとは店の歩合になると……」
俺の日払い額は一日二万。
いきなり九千円も下がるのか……。
「そ、それに不満あるなら辞めていいと……」
「……」
半分近く給料が下がるなら、辞めてもいいか……。
いや、俺は責任者なのだ。
苛立ちから独断で勝手に進退を決めてどうする?
「それと…、早番と遅番…、一人ずつ従業員をクビにしてくれと……」
「何ですか、それは!」
思わず大声を張り上げ、席を立ち上がっていた。
周りの客が不思議そうな顔で俺を見ている。
俺は気にしないようにして再び椅子へ腰掛けた。
「もちろんワイも片桐さんもみんな反対したんや…。やけどな……」
別に店の入客状況や売上が落ちた訳ではない。
オーナー中川に引っ付いてきた蝙蝠のような奴の意見で、ここまでシステムを悪変させたのが気に食わなかった。
「岩上君、辛いやろうけど、誰か一人クビにせんと……」
「誰をクビにしろって言うんですか? みんな真面目に仕事をしています。それが突然給料下がって店内のシステムも変わり、そんな状況で一人クビにする? 冗談じゃない! 誰を切れるって言うんですか……」
途中でテーブルの上に突っ伏して大泣きしてしまう。
悪い意味での感無量。
あまりにも従業員に対し小馬鹿にしたオーナーの中川。
これまでこの歌舞伎町に何軒の系列店を立ち上げ、身を粉にして働いてきたのだ。
悔しさとせつなさ、そして怒り、様々な感情がグルグルと身体の中を駆け巡っていた。
情けない男だ。
深夜とはいえこんな公衆の面前で大泣きする。
いや、少し違う。
春美との一件もあり、度重なる悲劇に対し疲れていたのだ。
流す涙の中に春美の件も混ぜながら俺は泣いている。
でもこの感情は、俺しか分からないものだ。
もういいさ、恥掻きついでに言いたい事は伝えよう。
泣きながら誰か一人クビにする件だけは断固断った。
シフト上、毎日誰かしら休みを取る形にして人件費的に変わりがないならそれでいいのではと必死に説得。
必死に懇願するような俺の姿勢を見た佐々木さんはグッときたのだろうか。
「岩上君、よく分かった。岩上君の気持ちはよく分かったから」
上からの命令で元々本意ではなかった佐々木さんも、了承してくれる。
俺はワールドワンへ戻り、みんなに最悪の条件を伝えた。
しかし店を辞める選択をする従業員は誰もいない。
辞めたところで他店舗でまた一から。
どんな悪条件とはいえ残るという選択肢しか俺を含め、みんな無いのだ。
普段何もしないくせに店長風だけを吹かす吉田。
給料が一律落ちた翌日、突然仕事へ来なくなった。
大倉の話では膝に水が溜まって動けないと連絡はあったようだが、そんな都合よく病気になるものだろうか?
嫌いな奴なので、中川と陰でつるんでいるのではと、つい疑ってしまう。
ほとんどの客は新しくなった店のシステムに対し、帰り際「店長…、何で店こんな風にしちゃったの?」呆れた様子で文句を言われ、ほとんどが来なくなる。
「大変申し訳ございません」
俺の立ち位置では客へ謝る事しかできない。
だからこうなると言ったのにな……。
常に満席で歌舞伎町で一番忙しいと謳われたワールドワン。
あっという間に閑古鳥が泣く。
給料は減らされ、こんな暇な店になり歩合もクソもない。
俺は早番、遅番全従業員を集め、意思の統一をした。
「こんな時だからみんなの意思は一つにしなきゃならないと思う。吉田の豚野郎はいきなり来なくなった。ひょっとしたら今回の一件で上と繋がっているのかもしれない。でもさ、そんな事よりも店をどう回していくか。それが俺たちには大切な事だ。豚が一人いない分、遅番と早番のバランスを考えてシフトも回るよう何とかする。みんなで協力してさ、もう一回この店を盛り上げよう…。いや、それはこんなシステムにしたんじゃ無理か……」
「岩上さん、今はとにかく堪えましょう。それでどうなるか分からないけど」
「俺たちは一心同体だ。抜け駆けも何もない。辞める時はみんな一緒に散ろう」
底辺の職場の中での意思統一。
クソみたいな言葉を並べただけだが、それでも人間の心はまとまる。
状況は違えども、自衛隊時代のあの理不尽さの中俺たち十名の班員は誰一人欠ける事なく前期教育を乗り切った。
あの時のまとまった感覚を思い出せ。
それを俺はこのワールドワンの従業員たちに教えたい。
あれ以来、春美からも連絡は一切無いままだ。
あれだけあったはずのピアノへの熱意も自然と薄れていく。
俺は先生に適当な言い訳をし、くっきぃずへ顔を出す回数が減った。
金銭的な余裕の無さは、心の余裕にも直結している。
無料券をあちこちへ配り一か月ほどで自滅したラーメン屋馬鹿一代。
その跡地が牛すじ屋に変わった。
気になったので中へ入る。
牛すじ丼一杯五百円。
メニューはそれしかなく、奥では馬鹿一代の頃にいた老夫婦、そしてアルバイトらしきホールの人間が二名。
老夫婦を見て、オーナーが変わったのではなく店をモデルチェンジしての出直しだと分かる。
前の時より従業員は半分になっていたが、それでもこのスペースで四名もいるのかと感じた。
最近になって牛丼チェーンの松屋や吉野家は牛丼一杯二百八十円と値下げして売っているこのご時世。
新規オープンの個人店が、牛すじ丼五百円などで客を呼べるのか不安でしかない。
ただ馬鹿一代の頃からの縁もあるので、俺は出前もするよう伝え、ワールドワンでも率先して宣伝はしてみた。
さらに牛すじ丼だけでなく、他のメニューも増やしてみたらどうかと、牛すじ屋へ通いながらアドバイスしてみる。
するとオーナーらしき老夫婦はメニューを増やすも、ヤバい増やし方をした。
牛すじ丼五百円、蕎麦五百円、かやくご飯二百円。
何故主食ばかり増やしているのか?
センスの無かったこの店は、予想通り数ヶ月で潰れてしまった。
ピアノも弾かずただ新宿歌舞伎町へ仕事へ行き金をもらう。
そんな日々が続く中、一通のメールが届く。
『元気かいな。最近連絡ないけど元気でやってるの? ミサキ』
妹代わりに可愛がっていたミサキからのメール。
元気かいななんて変な言葉を使う奴だ。
春美の事と店の件で頭が一杯で、すっかり彼女の存在を忘れていた。
思わず笑みがこぼれる。
給料も減らされ、店の問題も抱えていた俺は余裕が無い状況。
たまにはミサキと会うか。
久しぶりに食事へ行く。
「ねえ、何か暗い顔しているけど、悩みでもあるの?」
覗き込むように俺の顔を見るミサキ。
俺は彼女だけでなく、地元の知り合いにもすべてに会員制のバーで働いていると嘘をついている。
ゲーム屋で働いているという事に対し、未だ恥と感じている自分がいた。
なので愚痴を言いたいが、こぼしようがない。
それでもミサキの存在はありがたかった。
給料が半分近くなったって、二十歳そこそこのあの頃に比べたら、格段にいい生活できているじゃん。
それに俺がこんな裏稼業の悪条件程度で挫けるという事は、全日本プロレス…、強いてはジャンボ鶴田師匠の名を汚す事になってしまう。
プロレスラーって何をやられても避けちゃいけないし、壊れちゃいけない。
そうっすよね、鶴田師匠……。
今までトントン拍子に色々うまくいき過ぎていたのだ。
「あ、やっと笑うようになった! その方がいいよ」
俺の顔を見てミサキが笑う。
うん、色々あるけど俺って幸せじゃん。
暗い雰囲気に包まれた店内。
たまに来る客も変なシステムへ変わった店を見て、溜め息をついて帰る。
変わらないのはオープン当初から週に四、五回来る大倉さんだけ。
もう七十歳は超えているおじいちゃんなのに、金もあるし元気がいい。
基本的にいつも一晩中打って十数万の金を店に落としてくれる。
ダブルアップを叩き続け、一万を超える一気を飛ばすと「フォッフォッフォッ」と満足気に笑う。
大倉さんとはよく競馬の話をした。
いつだったか宝塚記念付近のレースで馬連十五万馬券が出た事がある。
「こんなの取れっこないですよね」
そう言うと大倉さんはポケットから一枚の馬券を見せてきた。
思わず目を疑う。
その馬券だけで総額五十万は超え、色々な買い方はしていたが、その馬連に九千円買っている。
十五万掛ける九十で、配当千三百五十万円。
見掛けは小柄な老人なので「本当に気を付けて帰って下さいね」と、靖国通りでタクシーを捕まえるまで送って行く事もあった。
いつも元旦の夜から一月二日の朝まで打つと、うちの店で二十万以上負けているのに「勝負らー!」と言い出す。
今までポーカーを散々やったのにまだ勝負?と思い聞いてみると、競艇だか競輪がこの日よりあるらしく、みすぼらしいボロボロのジャンバーのポケットから百万の帯付きを取り出す。
俺が呆気に取られていると、全部で五つ取り出した。
総額五百万円……。
いつも「一晩中遊んで二十万程度で済むんじゃ、タダみてぇなもんだよ」と嘯く大倉さん。
これを聞いた時、ワールドワンを気に入って来てくれているのが理解できた。
この人には本当に感謝しかない。
新体制から数週間経ち、あれだけ忙しかったワールドワンも本当に閑古鳥が鳴く。
佐々木さんから外で話せるか呼ばれる。
「岩上君…、好きなようにやってもらって構わない。だからもう一度店を流行らせてくれへんか?」
現状を見たオーナーサイドがとうとう白旗を上げたのだ。
早番の吉田は相変わらず店に出てきていない。
全従業員が不満を抱きつつも、俺の元に一致団結をしている。
それならもう一度ワールドワンを流行らせてやろうじゃねえか。
「まず機械屋と話してダイナミックの改造から始めたいと思います」
機械屋とはポーカーゲームの基盤や設定を決める石を作る業者。
まずダイナミックというポーカー台。

醍醐味を簡単に言うと、ダブルアップ中。
黄色の札が出て当てれば掛ける三倍。
緑色の札が出て当てれば掛ける四倍。
赤色の札が出て当てれば掛ける五倍。
ラブチャンスと呼ばれる札が予めめくれていて絶対にそれを叩けば当たる。

ストレートフラッシュ、ロイヤルストレートフラッシュもダブルアップできる。
これはダイナミックしか無い部分だ。
ならギャンブル要素をもっとあげたら?
赤の掛け五倍を七倍に……。
そしてダブルアップを叩き続け一万を越えると一気になって画面が赤くなり、自動OUTになるのをもう一度更にダブルアップできたら?
機械屋へ相談すると、できなくはないそうで俺はダイナミックのスペシャル版を作ってもらう。
基本ポーカーの設定は基盤に付いているディップスイッチで決める。
ダブルアップの叩きの設定。
零零が一番良く、一零が次に良く、零一これがだいたい普通の店の設定、一一は最低設定。
設定がいいほどダブルアップが当たる。
出目率も同じ。
これはゲームをプレイしていてポーカーの役がどれだけ揃いやすいかの調整だ。
掛ける七倍やダブル一気使用は石で調整してもらい、OUT率を何パーセントくらいにするかも予め決める。
OUT率八十パーセントの石なら、例えば十万円INしたら、八万円は出るという訳だ。
あくまでもこれは目安に過ぎない。
一ゲーム百円レートのワールドワンでも、ストレートに二十万円INして何も出ない事だって稀にある。
ロイヤル、ストフラはゲーム数。
五千回転、一万回転、一万五千回転、二万回転とこれもディップスイッチで決められる。
ズルいやり方をするなら、基盤にこれまでのゲームの細かい履歴は記憶されているので、データをクリアしてしまえば、回転数は零になり、ロイヤルストレートフラッシュは出ない。
詳しい人間がメーターを見れば、その辺は分かってしまう為、画面を客に見せる事はこの業界で御法度となっている。
俺は何度もテスト打ちして、リニューアルの為に日々時間を費やした。
A四の紙に『ワールドワン・リニューアル 脅威のダブルアップ掛ける七倍 一気のあとの更に一気』と文字をデザインし、下の方に草原を絵を描く。
昔よくやった宣伝方法電バリ。
電信柱に両面テープで貼る作業をする。
歌舞伎町内にでなく、一番街通り、靖国通りのみに十ヵ所程度。
店長の吉田は今でも出て来ない。
連絡一本無い状況だ。
なので早番と遅番の人数とバランス調整をしなければならなかった。
早番に大倉、山下、新人二人。

遅番はメインになるので俺、三門、伊藤、残り二人は新人から育てる。
伊藤は変わった経歴の持ち主で、ここへ来る前ニューヨークで生活していたようだ。

音楽のラップというジャンルがあるようでDJマスターキーという人の元、第一弾アーティストのハイタイムス(Hi-Timez)として音楽活動をしている。

ただまだ音楽じゃ飯が食えず、たまたまワールドワンへ来た。
形は違えど、俺も以前は全日本プロレスへ身を捧げた。
なので伊藤の気持ちや感覚だけは理解できる。
週末になると合同ライブで主に東北行くケースが多いので、その辺は俺も了承し、できるだけ彼のスケジュールを尊重した。
新人たちにはゲーム屋の基礎を教え、客がドッと来ても混乱しないよう教育。
準備はできた。
店内のビンゴも以前と同じように戻した。
あとは待つだけ……。
オープンと同時に大量の客が雪崩れ込む。
過激な設定は歌舞伎町の住民たちの心を掴んだのだ。
前のように活気が戻ってきた。
ゲーム屋は客さえ入れば自然と売り上げに直結する。
派手なダブルアップに客は一喜一憂した。
「あっ! 岩上さんじゃないですか!」
当時のゲーム屋の入口は鍵などせず、誰でも自由に出入りできた時代。
フリーで入ってきた客が俺の顔を見て声を出す。
「え、高橋さん?」
俺が歌舞伎町へ来て初めて働いた店ベガ。
そこの店長をやっていた高橋ひろしがたまたま客で来ての再会だった。
もうベガ自体店は潰れ、鳴戸や海野と連絡一つ取っていないらしい。
元々悪い事をしていた人間なので、金はかなり持っていた。
そんな高橋は中口という相棒も一緒に連れてきて、連日ワールドワンの新生ダイナミックへ一気にハマっていく。
オープン当初から通ってくれる大倉さん。
ベガ時代の同僚高橋ひろし。
そしてその連れ中口と店の核になる客たちが揃ってくる。
この二人はほぼ毎日来て、合計三十万は店に金を落としてくれた。
忙しさは余計な事を忘れさせてくれる。
春美にフラれたショックも、気付けば多忙な日々により気にしなくなっていた。
リニューアルして一ヶ月が過ぎた。
かつての活気を取り戻したワールドワン。
給料は下がったまま。
しかし店を盛り返したという自負が精神的に自分を満足させていた。
問題の売上に対する歩合はどうか?
番頭の佐々木さんから二十万の歩合が出ると言われる。
これは責任者の俺に渡すものだから、分配しようが自分で全部取ろうが構わないと伝えられた。
未だ店に出てきていない吉田を除く九名。
一人二万ずつ渡しても残り二万あるので、それも分配しようと俺は部下たちへ提案した。
「岩上さんが一番給料落ちて被害受けているんだから、もっと多く取って下さい!」
従業員たちはそう言ってくれるが、金の問題じゃない。
みんなで窮地を頑張って盛り返したのが嬉しいのだ。
だからとりあえず歩合はみんなで平等にしたいと気持ちを伝えた。
みんな誰だって社会に出て、一度は躓きこの歌舞伎町…、裏稼業へ落ちてきたのである。
そんな中で、一致団結する店が一つくらいあってもいい。
いい雰囲気は一瞬にして壊れる。
早番の店長である吉田がいきなり復帰した。
膝に水が溜まったという意味不明な理由で今まで一カ月以上休んでおきながら、歩合が出ると決まったら突然の復帰。
しかし俺たちも所詮雇われに過ぎない。
上が吉田をクビにでもしない限り、現状は変えられないのだ。
俺が夜になり出勤すると、早番の人間たちの表情が暗い。
状況を聞くと吉田は夜の八時で上がったが、仕事途中佐々木さんが来たようだ。
何を思ったのか、歩合の半分の十万を吉田が受け取り奥の休憩室で一人ずつ呼ばれ偉そうな事を言われながら金を渡されたらしい。
「本当は全部俺がもらっていいって言われたけど、大倉は二番手だから三万やる。山下は一万と言いたいところだけど、数年やってるから二万やる。新人は一万だ」と何一つ働いていないのに歩合の金四万を懐に入れたようだ。
俺は番頭の佐々木さんへ文句の連絡をする。
「いや、前にも言ったように責任者へ配当は渡すものだから、早番半分、遅番半分で渡したんや」
「佐々木さん! 早番と遅番、人数だって一人遅番の方が多いんですよ? それに吉田は何一つ何もしてないじゃないですか!」
「分かった。ごめん。ワイの配慮不足や。ワイが二万余計に払うから、それで勘弁して」
「佐々木さん! そういう問題じゃないんですよ。みんなで頑張って俺は等分に分けるって言ってたし……」
「ごめん…、岩上君。言いたい事は分かる。でもワイも上から言われてやった事なんや」
恩のある佐々木さんに頭を下げられると、俺もこれ以上何も言えなかった。
十万プラス佐々木さんの二万で十二万。
五人で一人二万四千円ずつの配当を渡す。
「岩上さん、これじゃおかしいですって!」
みんなが俺にもっと取れと言うが、平等に配らないと何故か納得できない自分がいた。
遅番はこれでもまだマシだが、早番の人間たちが気の毒過ぎる。
俺が全員に号令を掛け、頑張った結果がこれか?
歯痒さを覚えるが、これ以上何もできない自分の力不足に嫌気が差す。
翌日佐々木さんより立場が上の片桐が、番の引継ぎの時間帯にワールドワンへ来た。
俺の顔を見るなり表情を変えて怒鳴り出す。
「岩上! おまえが店の設定やってんだろ? 少し売り上げの事に気を囚われ過ぎだ!」
元々俺が売上欲しさにそうしたのではない。
本来もらえるはずの給料を半分も落とし、勝手に歩合だと決めたのは上の人間である。
それでも佐々木さんが店を流行らせてほしいと懇願したからこそ、俺たちはこれまで頑張ってきたのだ。
結果、いくら店を流行らせても結局ゴマすりができる吉田の評価の方が上。
本当に阿呆らしくなる。
都合のいい事を言い出したのはそっちだろと言い返したかった。
理不尽な裏稼業。
しかし望んで俺はこの業界にいる。
自棄を起こし辞めたところで、他に何も無いのだ。
不安そうな表情で俺と片桐を眺めている山下と大倉。
「おう、大倉に山下! オマエら困った事あったら何でも言って来いよ」
片桐は相変わらず偉そうに言い、店を出た。
着替えを終えた大倉と山下が、俺のところへ来る。
二人とも神妙な顔つき。
「ん、どうした?」
「岩上さん…、俺たち店辞めます……」
「何でだよ! どうしたんだよ?」
「言いたくありません……」
「オマエふざけんなよ?」
気付けば俺は大倉の胸倉を掴んでいた。
「もう辞めるんだからいいじゃないですか……」
「おい、このガキ…、俺に喧嘩売ってんのかよ?」
何だかんだ二年以上この店で共に過ごしてきたのだ。
辞めたいくらい嫌な事があったのは理解できる。
ただその訳すら言わずに去ろうとする姿に苛立ちを覚えたのだ。
周りの従業員が俺を制し、山下が代わりに口を開く。
「俺ら…、もう吉田さんについて行けません…。ほんと限界なんです……」
「何があったんだ? 言え!」
先日の歩合の一件だけでなく、それ以外にもボロボロ出てきた。
吉田の弟と腹違いの妹が結婚をする……。
それは俺にも言ってきたから知っている。
「ああ、そうですか。おめでとうございます」
吉田にはそれだけ言って終わりにした。
アイツの祖母が亡くなった時同様、俺から祝儀でももらえると思ったのか、吉田は唖然としていたっけ。
後日系列のチャンプの飯塚から連絡あり、吉田が仕事中わざわざ店に来て「岩上さんは酷いんですよ。うちの弟と妹が結婚するって言うのに祝儀一つくれない」と愚痴を零したと報告があった。
「そりゃ吉田さんがおかしいよ。会った事も無い人間に何で祝儀出さなきゃいけないんですって言っておきましたけどね」
それはそうだ。
従業員ならともかく、自分の身内が籍を入れるから祝儀なんて、吉田は本当に図々しい。
それに弟と腹違いの妹が結婚とか抜かしていたが、そもそも法的に許されるのか?
俺はその件で何の被害も受けていない。
だが、早番は違った。
「オマエら上司の弟が結婚するのに、祝い金も出せないのかよ?」
そう吉田に詰められたそうだ。
「祝い金って、いくらぐらい包めばいいんですか?」
「良識の範囲だと三万が相場だよ」
そんな感じで大倉、山下、新人の江角の三人は三万を強引に徴収されたらしい。
披露宴もせず会った事も無い人間を話しただけで、よくそんな真似をできたものだ。
大倉に関しては前に中野のキャバクラへ仕事後呼び出され、ドン・ペリニヨンのロゼを買って来させ、その代金すら払わず、そこの飲み代まで割り勘にさせられたという理不尽な対応を受けている。
しかも吉田は一ヶ月以上店を休んでいて、復帰した途端この暴君状態。
二年以上働いた従業員二人が同時に辞めたくなるのも無理はなかった。
俺はワールドワンに来てから今までずっと店を支えてきた。
それが吉田はオープンから店にいるというだけで所の次に年功序列で店長になり、勝手に店は休むわ、部下たちから金を巻き上げるわ……。
しかも番頭の片桐など権力者にはゴマすりが半端ではない。
こんな現状がまかり通っていいのか?
いい訳ないだろう。
俺はまず遅番の従業員全員に話をした。
「大倉と山下が辞める件。俺は吉田が納豆いかない。これから上に対してクビ賭けて行かせてもらう。オマエたちはどうする?」
「岩上さんについていきます!」
三門、伊藤、そして新人の岡本、望月も声を揃えて言った。
翌朝になり早番の従業員が出勤してくる。
吉田はまた遅刻した。
ちょうど良かったので、早番の従業員たちにも意思疎通を取る。
これで吉田以外の全従業員が俺の元一つになった。
一時間以上遅れて出勤した吉田は、「いやー岩上さんすみませんねー。目覚まし掛けて起きたんですけど二度寝しちゃって……」と理由にならない言い訳をしている。
俺は無視して店を出て、真っ直ぐ家に帰った。
今日の夜、出勤したらまず番頭の佐々木さんと話し合う。
次に片桐と……。
考えると憂鬱になる。
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