【ショートショート 武の化身】
幕末。夏蝉が忙しく鳴く昼、久蔵は恒陽館という町人に向けて開かれた剣術道場に向かっていた。鼠色の着流しに剣術道具を担ぎ、一人肩で風を切って歩くその様は、飢えた狼が次の獲物を探すような獰猛さに満ち満ちて、道行く人々は自然、久蔵を避けて通った。久蔵がこうも猛々しくなるのには訳があった。
「恒陽館には武の化身がいる」
手合わせしてきた江戸の名のある剣士達が口を揃えて言うこの噂が、剣の腕で名を上げようとする齢十九の野心に火をつけたのだ。
久蔵が目的地に着いた。
長屋門。つまりは武家屋敷であり、この門をくぐれば件の恒陽館がある。門前では紅鼠色の小袖を着た二十半ばくらいの女が打ち水をしている。久蔵はこの女に声をかけた。
「他流試合がしたい、ここの先生はいるか?」
久蔵が低く威圧的な声で聞いた。しかし女は特に気にする様子もなく「あら、いい男」と垂れ目を細めて言うと、先生を呼ぶから付いてくるよう言った。
女の後ろを付いて歩く間、久蔵の目は魅力的な曲線を持つ女の尻に釘付けになっていた。
「いい尻してやがる」
久蔵は思った。
「武の化身とやらに勝った暁には、夜這いでもかけちまおうか」
久蔵の年相応で実に田舎臭いこの算段は、江戸に出てきてから負けを知らないが故の自信の現れでもあった。
土間に入って上り框を上がると、久蔵は小間に通された。
「これでも食べて待っててちょうだい」
女が握り飯三つと茶を出してきた。
「他流試合の前に」と久蔵は思ったが、礼を言って口にした。そして握り飯を半分程食べた頃、襖が開いた。
「これはこれはお待たせしました」
小間に入ってきた男が笑顔を伴って慇懃に言った。後ろには従者の青年を連れている。男は細身で上背は久蔵よりやや低く五.六〇尺程。整えられた月代と髷に糸目の涼しい目元、深い藍の着流しに白い肌が映えている。
「武士のお坊ちゃん」
乱れた総髪にこんがり焼けた肌の久蔵には、歳にして十程離れているであろう男がそう見えた。
「改めてお待たせしたことお詫び申し上げます。私が恒陽館が主、齊藤忠正です」
「武州の久蔵です。流派は天然理心流、本日は武の化身と謳われる先生に一手お教え願いたく参りました」
久蔵は慣例に従って丁寧に挨拶した。久蔵としては流暢に敬語を話しているつもりなのだが、その口調はお里が知れる程にぎこちなく、従者の青年はニヤつきかけて俯いた。
一方の忠正は額に右手を当て天を仰いでいた。溜め息をついた後、忠正は言った。
「申し訳ないのですが、お断りします」
久蔵は耳を疑って忠正の方を見た。忠正は続ける。
「時々いらっしゃるんです、あなたみたいな方が。どうもここら一帯の道場では手に負えない荒者が来ると、武の化身がいるだのなんだの言ってうちの方へ寄越すようになっているようで……」
忠正がさらに深いため息をついて続ける。
「私としても他の道場で手に負えない荒者とお手合わせするのは出来ればご遠慮させていただきたいので、今日の所はこちらでお引き取り願えませんか?」
忠正はそう言って黒い包みを久蔵の方へやった。包みの中には一週間飲み食いするには十分な金が入っている。
「せっかくご足労いただいたのですから、こちらの小間でよろしければごゆるりとお使いください。私は所用があるのでこれで」
忠正は立ち上がって従者の青年と小間を後にしようとした。それを久蔵が呼び止めるように言った。
「先生、この握り飯なんだけどよ」
久蔵の口調が普段の荒っぽい口調に戻っている。手には半分よりも一齧り分減った握り飯。一齧りした分の握り飯を右頬に追いやって話しているからか、久蔵の右頬は膨らんでいる。
「握り飯? ああ、妻のお絹は客人の方に振る舞うのが好きでして、美味しいでしょう?」
忠正がにこやかな表情で言った。だが、久蔵は咀嚼をしながら忠正とは相反する表情で言った。
「いや……、こりゃ……、まずいなっ!」
久蔵はそう言って、持っていた握り飯を上手で忠正の方へ投げつけた。握り飯は忠正の膝に当たって転がり落ちる。
「武の化身がいると聞いて来てみりゃ、先生はヘタレ。おまけに御新造さまの飯はまずいときた。しっかし、こいつぁひでぇ味だ」
久蔵はそう悪態をつきながら、残りの握り飯と茶も蹴飛ばした。蹴飛ばされた握り飯は忠正の足元に転がっていき、湯呑みは茶をぶち撒けながらガチャンと音を立てて倒れた。
「先生」
久蔵の挑発に従者の青年が辛抱ならんと前に出ようとした。忠正がそれを手で制止する。
「正吉君の出る幕ではありませんよ」
忠正は落ち着き払った声色で正吉に言うと、足元に転がっている握り飯を拾い、一齧りして言った。
「……妻の握り飯は私の大好物でしてね、それをこうもコケにされては私も黙ってはいられません」
忠政がカッと目を見開いた。
「いいでしょう! 恒陽館が主として受けて立ちます。ただし使うのは木刀、時間は無制限。どちらかがどちらかを斃した時、あるいは降参した時のみを勝利とする。それでよろしいですか?」
「構わねえさ、今のうちに骨接ぎでも呼んでおきな」
久蔵はしてやったりと言わんばかりに口角を上げて返した。
「挑発はうまくいった」
板敷きの道場で汗臭い防具をつけながら、久蔵は思った。百姓の出である久蔵にとって、米を粗末にし食べ物をこき下ろすなど蛮行以外の何者でものない。しかし、その蛮行を犯してでも忠正を己の土俵へ引きずり下ろしたかった。それほどまでに久蔵の野心は強かったのだ。
久蔵は籠手をグイと引っ張って、手に馴染むようにはめると木刀を持った。
「重い」
だが久蔵にとっては旧知とも言える重みで、久蔵の血を騒がせた。
「双方、前へ」
主審を務める正吉の号令が、張り詰めた空気の道場に響く。久蔵も忠正も一礼の後、三歩進んで蹲踞の姿勢を取った。向き合う二人の殺気は尋常ではない。
「始め!」
号令と共に久蔵は木刀を頭上に振り上げ上段の構え、忠正は剣先を相手の目の方に向けて正眼の構えを取った。
「嫌な間合いだ」
向き合って早々、久蔵は思った。間合いに入っているはずの忠正が遠く感じるのだ。久蔵が惑った刹那、大筒をぶっ放したような踏み込み音と共に忠正が面を放ってきた。
「疾い」
久蔵はかろうじて受けると、返す刀で胴を見舞うが受けられ、すぐさま忠正の小手が返ってきた。久蔵はこれを空かして面を打ち込むが、忠正は剣先で久蔵の一撃をいなし、淀みのない攻防一体の剣ですかさず反撃にでる。久蔵も負けじと打ち返し、とうとう二十合も打ち合うも、互いに決定的な一撃が決まらない。
「――ここからは実戦剣法だ」
久蔵は上段の構えから忠正の脛に向かって木刀を払った。だがこれも忠正に受けられた。忠正の反撃を察知した久蔵は咄嗟に距離を潰して鍔迫り合いに持ち込む。
「どうやら道場剣法だけじゃないらしいな」
久蔵が荒々しく言った。
「経験と言うやつですよ」
忠正が涼しく返す。
「ほう、ならこいつはどうだい?」
久蔵は膝を落として瞬時に忠正の懐に潜り込むと、すぐさま体を上昇させ、右の上腕で忠正の両腕をかち上げた。
忠正の胴がガラ空きになる。
片や久蔵は上昇の勢いを利用して上段の構えに戻り、斧で巨木を切り倒すかのように目一杯木刀を振った。
久蔵の剛力を伴った一撃によって、ぎりぎり受けに間に合った忠正の木刀は回転しながら吹っ飛んでいき、忠正の身体も胴の横っ面を思いっきり叩かれて、バチンという炸裂音にも似た音と共に、木刀と同じ方へ薙ぎ倒された。
久蔵は止めと言わんばかりに倒れた忠正に木刀を振り下ろす。
――ゴンという鈍い音。久蔵の両手が嫌に痺れる。忠正に躱された。忠正は背を向けて木刀が転がる道場の壁際の方へ走っていく。
走る忠正、追う久蔵。
追いついた久蔵は木刀を拾う忠正に向かって木刀を振り上げた――。
その瞬間、久蔵の首が跳ね上がった。忠正の突きが直撃したのだ。
久蔵には忠正が木刀を拾い、振り返りながら腰を回転させて突きを放つまで動きがまるで見えなかった。それ程までに忠正の一連の動きには無駄がなく、放たれた突きは最早美しいと呼べる程の代物だった。
天井を仰いだまま、久蔵は二歩三歩後ろへ退がる。そこへ大筒でもぶっ放した様な忠正の踏み込み音が聞こえた。
「まずい」
久蔵は前を見た。忠正は眼前、木刀の切先は斜になっている。
「胴だ」
そう思って防御の姿勢とった瞬間、久蔵の右顳顬から足の先まで電流が走った。久蔵は面を食らったのだ。
「効いた」
久蔵は膝から崩れ落ちそうになるのを堪えるも、足元は覚束ない。それでも闘志は衰えず、唸り声をあげふらつきながら忠正に向かって闇雲に木刀を振るう。しかし大振りも大振り、忠正には擦りもせず、逆に右手、左手と打ち始めに小手を打たれ、久蔵の両の手の感覚はなくなり始めていた。
「白旗を上げてもいいんですよ」
忠正が互いの間合いから外れた距離から、憐れむ様に言った。
「悪りぃな、生憎剣しか持てない性分でね」
久蔵が返した。
「でしたら、その剣も心も砕くしかありませんね」
「やってみやがれ」
久蔵は気炎を吐いて上段に構えた。久蔵の目に諦観の色など微塵もない。
なぜなら久蔵にはたった一つとはいえ勝算があるからだ。
忠正の猛攻が始まった。執拗な面打ち。久蔵は正面、右袈裟、左袈裟、角度を変えて襲い来る忠正の木刀を満身創痍で受ける。そこへ忠正の胴が久蔵の胸胴辺りに直撃した。
背中に突き抜けていく様な衝撃で久蔵の呼吸は一瞬止まり、よろよろと後ずさっていく。二人の間に距離ができた。忠正の踏み込み音が道場に轟く。
「突きだ、突きが来る」
久蔵には確信があった。人は窮地と好機に己の最も得意とする技を出す。ならば、窮地の時に放ってきた突きが好機の今、再び来ると。そしてこれが久蔵のたった一つの勝算だった。
果たして忠正から放たれたのは突きだった。久蔵は両の手の感覚が蘇る程に強く柄を握った。そして忠正の突きを肩で担ぐ様にして躱わしながら、万力の力を込めた一撃を忠正の木刀の峰の上を滑るように走らせ、忠正の面を撃ち抜いた。
鈍い衝突音と木刀が面にめり込んでいく様な確かな手応え。久蔵の一撃で忠正は道場の板敷きの上に叩きつけられ、大の字に倒れている。その忠正の右手が木刀を探して微かに動いた。
「まだやるつもりか」
忠正の動きに気づいた久蔵は止めを刺さんと振りかぶった。その時だった。
「やめて!」
叫び声と共にお絹が久蔵と忠正の間に割って入った。久蔵の動きが止まる。
「もうやめて、これ以上忠正さんを傷つけないで!」
お絹が目に涙を浮かべて訴えた。だが、久蔵は聞き入れない。
「女が男の勝負に茶々入れんじゃねぇよ。まだ終わってねぇんだ、退きな」
そう言って久蔵はお絹を足蹴にしようとした。しかし「忠正さん、忠正さん」と泣きながら、亭主を庇おうと覆い被さるお絹の健気さを見て興醒めしてしまった。
久蔵は舌打ちした後、構えを解いて言った。
「武の化身の肩書きは、今日から俺が使わせて貰うぜ」
そう言い終えて踵を返した時だった。
「待ちな!」
久蔵は呼び止められて振り返った。振り返った先にはお絹が立っている。その立ち姿は背後に仁王が見えるような迫力があった。
「武の化身はアタイの事だよ!」
お絹が怒りを顕に言った。
一方の久蔵は、お絹と武の化身という言葉がまるで繋がらず、呆気に取られるばかりだった。
そんな久蔵の様子が許せないのか、お絹の口調は烈火の如く激しくなった。
「間抜けな顔しやがって。こちとら小間の掃除をやらされるわ、忠正さんはひでぇ目に遭わされるわで腑煮え繰り返ってんだっ! 正吉ぃ! 薙刀持ってきな!」
その後、久蔵がお絹にこてんぱんにされた事は言うまでもない。二人はこの後も縁あって二度剣を交える事になるのだが、結果はお絹の圧勝であった。
お絹と剣を交える度に久蔵はひどい打ち傷を負うのだが、久蔵はその傷を他の剣士に尋ねられても女に負けたとはいえず、ぶすっとしたまま「恒陽館には武の化身がいる」と言うのみだった。
(了)
