第1話 巫女歩きの のんのさま
♪ のんののんのん姐さと旅だ 山越え津渡り ののぅの野
近江の甲賀から岐蘇街道を歩いて、信濃は海野の里にたどり着いた旅装束の女連れは、しきりに啼く油蝉の声が染み入る大きな巌を焼くような暑い陽ざしの中を、そのまま祢津のお舘に入ると、庭の池を泳ぐ金色の錦鯉の光に涼やかさを覚えながら、奥座敷の広間に慇懃と正座した────時を尋ねれば天正四年(一五七六)、あの歴史に名高い長篠の戦いの翌年は晩夏の候である。
「千代女さま────ただいま戻りまして御座います」
一座の長だろう、中で一番の年増が、旅歩きで黒く焼けた表情に笑みを浮かべてそう言った。彼女の名を智月と言う。その後ろには四、五人の乙女らが同じように平伏しており、中にはまだ五つか六つとも思われる童女もいて、上座に座る千代女と呼ばれた虹色の上田紬を着た女は、少し憂い気な表情で彼女たちにゆっくり視線をめぐらせると、
「大儀でした。道中恙なく来られましたか?」
と聞いた。
「つつがなき旅でおじゃりました!」
と、すかさず声を挙げたのは一番小さな女の子。
「コレコレお花、お行儀が悪いですよ。千代女様の御前です」
慌てた智月は無邪気な花の言動を制したが、千代女は、
「よいよい、妾もここに嫁いだ時は、まだ丁度、この子と同じくらいの年でした・・・」
と、その少女に自分を重ねたような静かな笑みを浮かべた。
思えば────
千代女がこの信濃に来たのは五つの時だった。
まだ世間の何も知らず、物心がついた頃にはお家同士が決めた縁組に反抗することもせず、馬に乗せられこの信濃の海野の望月家に連れて来られたのだ。
今いる祢津家と望月家はいわゆる滋野三家と言って、もともとは同じ一族の、古からの深い親戚関係であるが、そのとき夫となった望月盛時と名乗る男はすでに五十路の壮年で、前妻との間に三人の子をもうけていた。しかし「女とはこのように使われるものなのだ」と疑いもしないまま月日を数えるうちに、望月家の属する甲斐の武田と越後の上杉が北信濃の領土争いをしている事を肌で感じ、その中で、次第にその調略活動において、自分は近江の甲賀忍びの人材確保のために嫁がされて来たことを少しずつ知った。現に彼女が嫁いでからというもの、頻繁に甲賀の里から見慣れぬ者たちがやって来ては家の男らと何やら話し合う姿を見かけたが、あれは忍びの者に違いないと後で気づくのである。
妾が初めてこの地にやって来たあの日も、ちょうど今日と同じ陽ざしのまぶしい日だった────
「お内儀様はきれいなべべを着ておるのぉ?」
とまた花が口を開く。その都度「お花!」と叱る智月は、まったくお喋りな女の子に手を焼くのであった。
「おお、のんのん様のお帰りだな。夷講にはまだ間があるが」
広間に姿を現わしたのは、もう五十路にもなろうとする屈強な顔つきをした一人の男である。千代女はその姿を認めると、どこまでも無機質な小さな声で、
「常庵様……」
と呟いた。
〝のんのん様〟というのは所謂〝神様〟の幼児語で、彼女達のように全国を旅して回る巫女達の事を言った。〝のんの〟あるいは〝ののう巫女〟とも呼ばれるが、いつからだろう? 祢津にはそんな巫女を生業として各地を巡り、呪術を行って口寄せ(神を身体に憑依させる霊媒)をしたり、舞や芸能などを披露したり、時には医療などを施して報酬を得る女性集団が存在している。科学がまだ未発達だった当時の事だから、彼女達が神々や先祖の霊と通信できると純粋に信じる者も多く、超自然的能力を持った特別な存在として尊ばれもし、また悩み事を聞いたり、いざこざの解決に一役買ったりと、何年かに一度どこからともなくやって来ては、庶民たちの困り事を解決してくれる民間の佳き相談相手として、その需要は古くからあった。
常庵と呼ばれた男は続けて、
「伊織はどこじゃ?」
と聞いた。
彼は祢津家の当主で名を常庵と言うが、伊織というのは、この旅帰りの彼女たちに付き添った神事舞太夫という職務の宮司の名で、姓を丸山と言った。
その声に目を向けた旅帰りの女たちは、彼の傍らにすましている品のある着物を着た十才くらいの童女の姿をとらえた。その目には、すました中にもどこか警戒の色を浮かべた不審感が見てとれた。
「丸山様は私たちをここに届けた足で、そのまま真田様のお屋敷に向かわれました」
その問いに智月が答えると、常庵は「そうか……」と呟いて、傍らに連れた童女を一瞥してから、
「お前たちの組に加えてもらおうと思って連れて来た。真田信綱様と於北の方様の娘で名を清音と申す。当面の間はお前たちと行動を共にさせようと思うから、巫女歩きのいろはを教えてやって欲しい」
と言った。
〝真田信綱の娘〟と聞いて、居並ぶ巫女たちの表情がいっぺんに憐みのそれに変わったのも必定だった。〝信綱〟といえば、昨年の長篠の戦いで戦死した真田家の当主であり、その壮絶な死に様はさることながら、弟の昌輝やその身内から、祢津家においては常庵の双子の弟神平の嫡子月直も、望月家の当主信永もまた、滋野三家の血を引く者たちはことごとく命を落としてしまったのだ。殊、信綱の話などはその中でも一層の悲壮感を帯びて伝え聞いていたのである。
清音は重い空気を掻き消すような声で、
「よろしくお頼申します……」
と頭を下げると、すかさず、
「よろしく頼まれた!」
と反応する花の言葉に一同ぷっと吹き出した。
「これ!」
と叱る智月に、池の錦鯉がチャプンと跳ねた。

さて、何から話せばいいだろう……?
先ほど祢津家と望月家は親戚関係にあると書いたが、祢津城のある信濃の海野の里はもともと滋野氏の領地である。
滋野氏の発生は古く、西暦八〇〇年代前半の歴史書等の記述には〝滋野朝臣貞主〟の名が見え、その先祖を辿れば〝天道根の命〟という神に行きつき、更には〝神結の命〟を祖とすると系図は示す。
滋野貞主は有能な文官だったらしく、彼には二人の娘がいた。
長女の縄子は第五十四代仁明天皇の女御(妃)となって本康親王を産み、次女の奥子も第五十五代文徳天皇の中宮(皇后)として惟彦親王を産んだ。また、彼の弟貞雄も滋野朝臣を称して国司を歴任し、その娘の岺子もまた文徳天皇の妃となって二皇子二皇女を生んだとされる。つまり滋野氏は、天皇外戚の名門中の名門の家柄である。
系図によれば貞主の前に家訳がいるが、家訳─貞主─貞雄と続いた次の当主が滋野恒蔭という男で、彼が平安初期貞観十年(八六八)に信濃介に任命されると、その二年後の貞観十二年(八七〇)には弟の滋野善根も信濃守に任じられ、つまり滋野氏と信濃の関係はそこから始まる。
彼らが移り住んだ海野の里は、険しくもなく平坦過ぎず、適度に凹凸の入り組んだ見晴らしの良い野原が広がり、特に馬の飼育にはもってこいの地形だった。この地で育てた馬を朝廷に貢ぐうち、その馬の評判が富に高まり、やがて平安時代を凌駕する超一流のブランドとして全国に名を馳せるようになった。これが所謂〝望月の駒〟であり、望月家の望月の名はそこから天皇に賜った。
一方、都に残った滋野氏族は、信濃から贈られる馬の駒牽を司る役人となり、毎年八月の満月の日は、駒牽と呼ばれる宮中行事が盛大に行われ、毎年、この行事が行われる少し前、信濃を出発する望月の駒は東山道を通って都を目指す。そして都の手前、近江は甲賀に至ると馬を休め、同時に朝廷に献上するため、馬に派手やかな装飾を施すのであった。
甲賀に残る望月姓は、つまりはこの際馬の世話に従事した滋野氏族の子孫であり、甲賀望月家と信濃滋野氏との関係は、実にこの頃にまで遡る。その後、平安後記から鎌倉に入って武家の力が大きくなると、世の中の乱れとともに都に近い甲賀の土民たちは、自ずと時の政略に巻き込まれながら独自の諜報技術を発展させた。これが後に〝忍者〟と呼ばれるものへと進化する。
すなわち千代女はこの甲賀望月家の娘であって、戦国の世の動乱に巻き込まれて信濃に送られた滋野氏の政略を担う犠牲者の一人とも言えた。今はまだ三十路にも満たない未亡人であり、彼女の夫望月盛時は、十五年前の武田と上杉との間で行われた川中島の激戦の渦中で戦死した────それはまだ彼女が十三歳の秋の出来事で、戦から戻った家の男どもが、
「見事な奮戦ぶりでござった! 盛時殿は上杉の簗田外記殿との並々ならぬ激闘の末、討ち死になされた」
と、涙を流しながら興奮しきりに話した様子を覚えているが、四十五歳も年の離れた夫の死を知ったところで別段悲しみの感情が湧くわけでなく、それ以前に夫婦とは名ばかりの、ある種の疎外感が自分の居場所の心配をしていたのであった。
武田信玄から〝甲斐信濃両国巫女頭領〟に任じられたのは夫の死から八年ほど経った頃だった。もともとののう巫女を抱える祢津の地域柄に目を付けた信玄の先見性ではあろうが、望月の未亡人を哀れに思ったか、それとも甲賀の出身という所に目を付けたものか、いずれにせよ名指しで彼女を指名したのである。
もっとも、これと同時に武田家臣団の中に〝甲陽流〟なる武田三ツの者の組織集団が結成され、その総責任者に抜擢されたのが常庵の双子の弟神平だった。彼のお膝元である祢津にあった古くなった舘を改修して〝甲斐信濃巫女道修練道場〟が新設されると、その親戚関係にあった望月の嫁なら何かと都合も良かったのだろう、断る理由のない千代女は望月の家から祢津の家に連れて来られた。
ちなみに〝三ツの者〟というのは武田家臣団の中で使われる〝忍びの者〟を指す言葉である。〝スッパ〟あるいは〝ラッパ〟、あるいは〝草〟などと蔑んだ呼び方をする者もあるが、少なくも神平は己の仕事に誇りを感じていた。
ところが────
いよいよこれからがその本領を発揮する時に至って、かの武田信玄が死んだ。元亀四年(一五七三)四月、信玄五十三年の生涯である────。
「時に、近江の安土の様子はどうか? 京はどうであった?」
と矢継ぎ早に常庵は智月に問い始めた。このころ〝天下布武〟を唱え始めた織田信長の動向は、なにはさておき押さえて置かなければならない関心事なのだ。千代女は話が政治的な匂いを醸し始めると、静かに立ち上がり、
「では、妾はこれにて────」
と言い残して室を出た。
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