置いていった後悔|#22
「聞かなかった」
あれから八年経った。
今は妻がいて、
息子もいる。
幸せかと聞かれたら、
幸せだと思う。
だからこれは、
人生をやり直したい話ではない。
ただ。
今でも時々、
思い出す人がいる。
離婚したばかりの頃だった。
何をしていても楽しくなかった。
朝が来ても嬉しくないし、
夜になっても安心できない。
そんな時期だった。
車のディーラーで働く女の子がいた。
別に特別なことはない。
ただ、
少しだけ親切だった。
それだけだ。
でも、
人は弱っている時ほど、
小さな優しさを忘れられなくなる。
点検の日。
車検の日。
乗り換えの相談。
会うたびに少し話した。
笑った。
救われた。
好きになった。
たぶん、
自然な順番だったと思う。
それから何年か経って、
僕は新しい車を買った。
納車の日。
少し迷ってから言った。
「最初に一緒に乗ってほしい」
今思うと、
変なお願いだ。
でも彼女は笑って、
「いいですよ」
と言った。
助手席に彼女が座る。
新車の匂い。
まだ慣れていないハンドル。
カーオーディオから流れる音楽。
ずっと覚えていたはずなのに、
何を話したのかは思い出せない。
思い出というのは不思議だ。
大事なことほど消えて、
たった一言だけが残る。
帰る時間が近づいた頃だった。
信号待ちだったのか。
駐車場だったのか。
そこは曖昧なのに、
その言葉だけは今も鮮明だ。
彼女は言った。
「あなたの気持ちを聞かせてほしい」
僕は黙った。
少し前に、
彼女には彼氏がいると聞いていたから。
困らせたくなかった。
迷惑をかけたくなかった。
そういうことにした。
そして、
何も言わなかった。
彼女もそれ以上は聞かなかった。
ただそれだけの話だ。
何かが始まったわけでもない。
何かを失ったわけでもない。
人生はそのまま続いた。
僕は今の妻と出会った。
結婚した。
息子も生まれた。
だから、
あの時告白していれば良かったとは思わない。
本当に思わない。
ただ。
ひとつだけ。
今でも分からないことがある。
あの時。
彼女は何を聞きたかったのだろう。
僕の気持ちだったのか。
それとも。
彼女の気持ちだったのか。
八年経った今も、
答えは分からない。
もう聞くこともできない。
確かめる方法もない。
人生には、
失ったものよりも。
分からなかったものの方が、
長く残ることがある。
もし振られていたら、
諦められたかもしれない。
もし笑われていたら、
忘れられたかもしれない。
でも、
何も知らないまま終わった出来事は、
心のどこにも置き場所がない。
だから時々、
思い出してしまう。
新しい車の匂いと、
あの一言を。
そして今でも、
少しだけ考えてしまう。
あの日。
僕が聞くべきだったのは、
自分の気持ちではなく。
彼女の気持ちだったのかもしれない、と。
あとがき
今回の物語はyuri_wada_musicさんが
置いていった言葉をもとに
書かせていただきました。
普段は尾道を拠点に音楽活動をされながら、
小説でも言葉を紡がれている方です。
「歌では描ききれない感情や風景を、
文章でも届けたい」
そんな想いで書かれているプロフィールが
とても印象的でした。
音楽も小説も、形は違っても誰かの記憶や感情に触れようとする表現なのかもしれません。
今回いただいた後悔も、
派手な出来事ではありませんでした。
ただ、八年経った今も答え合わせが
できない一言。
だからこそ、静かに心に残り続けて
いるような気がします。
もし結果が分かっていたら、
もっと早く忘れられたのかもしれない。
でも人は時々、叶わなかったことよりも、
分からなかったことを長く抱えて
生きていきます。
そんな後悔を物語として預けていただきました。
大切なエピソードをありがとうございました。
そして、音楽と言葉の両方で紡がれる作品も、
これから静かに楽しみにしています。
つむぎiwkn_note
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