トロンボーンアンニュイ・1|掌編小説集「ゆうぐれドキ」#11
好きな子の前で出し抜けにトロンボーンを吹いたことがある。それは高校二年生の夏休み、学校の教室でパート練習をしていた時のことだった。
それは退屈な練習だった。まるで誰かに言いつけられて庭の雑草を抜くみたいな感じだった。やる気も向上心もない。
僕はもう少し真面目に練習したかったけど、仲間たちを説得するのも面倒で、別のことを考えていた。松見さんのことを。
彼女はクラスメートで、陸上部のクールな女の子だった。彼女は放課後になると、よく校舎の周りをぐるぐる走った。
時折、音楽室の窓から彼女の姿が小さく見えた。僕は毎回、美しい鳥が思いがけず目の前を通り去っていくときのような気持ちになった。
退屈な練習のだらだらと長い休憩時間に、廊下の方をなんとなしに眺めていると、ふいにあの子が教室の前を歩いているのが見えた。
彼女は体操服姿で、長めの髪を後ろに束ねていた。片手にスクイズボトルを握り、肌は汗で艶めいていて、耳が少しだけ桃色だった。
気がついた時には、僕は教室を飛び出して彼女の前に立ちはだかり、テナートロンボーンを構えていた。ちょっと自分おかしいなと思ったけど、構えてしまったからもう吹くしかなかった。
彼女は戸惑ったような呆気に取られたような顔でじっと僕を見ていた。エアコンの効いた教室に対して、廊下は暑かった。僕は制服の下で汗が噴き出るのを感じた。
僕はテレマンのソナタを吹いた。それは親友が去ってしまった後の静かな荒野を思わせる曲だった。僕の未熟なトロンボーンは夏休みのうら寂しい校舎に澄んだ音を響かせた。
演奏が終わると、彼女は少しだけ口をすぼめて、何かに気づかないふりをするように、僕から緩やかに視線を逸らした。その沈黙は、僕にとってチューバのように重く感じられた。
「素敵な演奏だと思う」と、彼女はつぶやいた。それはまるで夕立を合図する最初の一滴のような声だった。
「ありがとう」
僕は上の空で答える。彼女はそのまま、平然と僕の脇を抜けて去った。胸が痺れる。
〈了〉
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