【カトリック】子どもが少なくなっている教会に、子ども3人を連れて通い続けている理由
私は、クリスチャン(カトリック)の両親のもとで幼児洗礼を受け、子どもの頃からカトリック教会に通っています。
カトリック教会は(場所にもよりますが)子どもや若者がどんどん減っていて、少子高齢化が進んでいます。進みまくっています。
どうしても、結婚して出産して、教会に行きにくくなってしまうのが現実。
のんびりしたい日曜日の朝、9:30からのミサに間に合うように自分も子どもも支度をして、家を出るのがまず大変!
日曜日のミサは約1時間、その間子どもを静かに座らせておくのは、さらに大変!
まだ幼かった長男にっくんと次男はっくんが、私の膝の上を奪い合ってケンカをし、「やめなさい!」「静かにしなさい!」と叱りつけながら、イライラとミサに出ていたことがありました(当時、ほぼ毎週…)。
末娘くんちゃんが、ミサ中に泣き止まず、外に出て授乳しに行ったこともありました。
とにかく静かに座っていられるように、「いないいないばああそび」のしかけ絵本を必ず持って行きました(読んであげなくても楽しめる!ちょっとですが間が持ちます。オススメ!)
その週の聖書の箇所が書いてある「聖書と典礼」の紙にお絵描きしたことはもちろん、0歳の子どもに持たせていたらいつの間にか食べていた(!)こともありました。
神父様の話?えぇ、もちろん聞いてません。聞けません。
お祈り?できません。
ミサに心を向けたいのに向けられなくてイライラし、心穏やかな母になりたいのになれなくて、教会という場だから余計に自己嫌悪しました。
それでも、長男が生まれてから約14年間、用事や体調不良の時以外は日曜日のミサに通い続けてきました。
大変大変と言いながら、どうしてずっと通ってきたのかなぁ、と改めてふりかえって記しておこうとおもいます。
(前置き、長すぎ。)
子どもにも伝えていきたいと思える宗教だから
私にとって「神様」は、何があってもどんな時でも見守ってくれる存在で、
悲しい時、悩んだ時、何かにすがりたい時に、大きな支えとなっています。
小学2年生の頃、弟が病気になって「今夜が峠です」と言われたことがありました。
その日、友達と遊ぶ約束をキャンセルし、公園でロザリオを手に、ひたすら祈ったことを今でも覚えています。
自分の力ではどうすることもできない時、祈る対象がある。
そのことに、どれだけ救われたかわかりません。
一方で、嬉しい時、感動したとき、ありがたいなぁと感じた時、「神様ありがとう!」と感謝する存在でもあります。
ともすると自分の力で生きているような気分になりがちですが、人との出会いや、タイミングや、小さな外からの働きかけに、神様の存在を感じるのです。
子どもたちが生きていく上で、カトリックの信仰がきっと支えになる。
そう確信できるから、でも自分の口でそれを伝えるのには限界があるから、私は子どもたちを連れて教会に通い続けているのかもしれません。
夫が同じカトリックだったから
なぜ「通い続けているか」の理由として、正直、これが一番大きいと思います。
「通い続けることができた」のは、夫も同じ信仰を持っていて、家族まるごと一緒に教会に通えたから、というのが大きいです。
前述のとおり、小さい子どもを連れてミサにあずかるのは、本当に大変です。おとな1人で小さい子ども2人連れて行くとか、かなりの難易度です。
そして、日曜日の朝は家でゆっくりしたいorどこかに出かけたい、のが、世間一般家庭の当たり前です。
だから、この記事を書きながら幾度となく頭に浮かぶのは(実は何度も書いては消して、書き直しています。1つの記事書くのにどんだけ時間かかるのか…)
教会に通いたいけど通えない、いろんな事情でミサに行けないクリスチャンの知人友人のこと。
「私は通い続けてる。えらいでしょ!」なんて気持ちは全くなく、
我が家は偶然クリスチャン同士が結婚して、子どもたちが比較的おとなしいタイプで、家の近くに教会があったというだけ。
毎週ミサに通えていること自体、神様に感謝しなければならないことだと思っています。
教会のコミュニティは、他にはない素敵な場だと思うから
教会に毎週通っていると、信者同士の交流がうまれます。
特に小さい子どもを連れていると、おばちゃんたちが優しく声をかけてくれます。
「ミサ中ちゃんと座っていられて、えらかったねぇ」
「もうこんなに大きくなったのね!」
「子育て、がんばってるね」
1歳だった長男に、いつも飴チャンをくれるシスターもいました。(「まだ飴は食べさせてなくて」とは言えず、ありがたく私の口に…)
子どもが聖書の朗読をすれば、「上手だったね!」と取り囲んでほめちぎってくれるおばあちゃんたちも。
教会学校のリーダーや、中高生や青年のお兄ちゃんお姉ちゃんたちは、親とは違う立場から、子どもの心の成長を導いてくれています。
子どもたちも私も、教会のたくさんの人に見守られながら、ここまで大きくなりました。
学校や職場のつながりとは違う、老若男女のナナメのつながり。
そして、私たち家族のために、祈ってくれている人がいるというありがたさ。
もちろん、人が集まればいろんな問題も出てきますが、
私はこの教会の温かいつながりは、カトリック教会の魅力の一つなんじゃないかなぁと思っています。
心のリセットのため
白状しますと…
我が家、しょっちゅう、夫婦喧嘩をします。(おーい、クリスチャンの夫婦ー!!苦笑)
喧嘩をすると、相手を責める言葉や悔しい気持ちばかりが頭に浮かんで、イヤな気持ちでいっぱいになります。
それでも毎週日曜日にはミサに行く。
すると不思議なことに、今の自分にピッタリなお説教(※聖書朗読の後に神父様がお話することを「説教」といいます。怒られてるわけではないので誤解のないよう)が話されるのです。
えー?!神父様、今朝の夫婦喧嘩、見てた?!
と思うくらい(笑)
でも、お説教を聞くうちに、自分の中に反省すべき点が見えてきたり、相手をゆるす気持ちになってきたり…
精神的に未熟な私には、毎週のミサが大切なリセットの時間として必要です。
あ、もちろん夫婦喧嘩以外のことについても、ですよ!
通い続けると、日常になる
こうして毎週ミサに通い続けていると、「日曜日の朝は教会に行く」ということが、当たり前の日常になります。
日曜日の午前中=教会として、なるべく他の予定を入れないようになりました。学校や仕事のある月曜日の午前中に、他の予定を入れないのと同じように。
もちろん、最近は中学生の長男にっくんの塾や部活で、家族そろって教会に行けなかったり、習い事の発表会やイベントでミサに行けない日もありますが。
また、毎週通えば、子どももミサに慣れてきて、ここでは静かにしないといけないと学ぶし、ミサのこの部分でおじぎをするとか、毎回唱えるお祈りや歌を覚えてきたりします(唱えたり歌ったりできるようになったら、子どももミサに参加するのが少し楽しくなるようでした)。
そうこうしているうちに、子どもたちはミサのお手伝い「侍者(じしゃ)」の当番があったり、夫は教会の役をあてがわれたりして、教会に通い続けることになります。
これから、子どもたちが成長して、それぞれのフィールドで忙しくなったら、通い続けることは難しくなるのかもしれません。
私自身も、中学高校大学の頃は、部活やバイトでたま~にしかミサに行っていませんでした。
それでも、行けるときにはミサに行ってくれたらいいなぁ、神様とともに人生を歩んでいってほしいなぁと、願っています。
もしなかなか教会に行けなくなっても、神様はいつも、あなたを待っているよ、と。
もっとしっかりとした信仰生活を送っているカトリック信者の方が見たら、叱られてしまうような内容かもしれませんが。
教会と、信仰と、日常生活とのバランスは、本当に人それぞれ。
一人の子育て中のクリスチャンの話、としてお読みいただければ幸いです。
