戦国四君について
はじめに
こんにちは、諸葛鳳雛です!
今回はマンガ「キングダム」で知った戦国四君についての記事を書きたいと思います。
戦国四君とは、古代中国の戦国時代後期に、各国で強大な権力を握り、政治や外交で活躍した4人の貴族の総称です。
孟嘗君(もうしょうくん)、平原君、信陵君(しんりょうくん)、春申君(しゅんしんくん)の4人になります。
春申君以外は王族の出ですね。
私は、キングダムを読むまで孟嘗君しか知りませんでした・・・。
それでは、それぞれの四君を紹介していきたいと思います。
孟嘗君
孟嘗君は「斉」の国の人で本名は「田文」と言います。
斉の威王の孫にあたる人物です、父親は田嬰(でんえい)という人です。
斉と秦の2強時代に、斉の宰相として活躍しました。
孟嘗君が宰相をしていた時代斉は強国でした。
犯罪者でもゴロツキでも構わず食客(しょっかく:居候の者のことです)にしたため、その数は3000人にもなった、とのこと。
孟嘗君は四君の中で一世代前の人物になります。
孟嘗君のエピソードその1(鶏鳴狗盗(けいめいくとう))
秦の昭襄王(しょうじょうおう)に招かれ、行ってみると殺されそうになった孟嘗君一行。
このとき役に立ったのが普段鼻つまみ者にされていた孟嘗君の食客たち。
狗盗のエピソード:昭襄王にとりなしてもらうため、王の寵姫に賄賂を送ることにしました。
寵姫は狐白裘(こはくきゅう:白い狐の超高級毛皮)を私にくれるなら昭襄王にとりなすと言います。
しかし、狐白裘はすでに昭襄王に献上して宮殿の宝物庫に保管されていました。
そこで、食客の一人が犬の鳴き真似をして宝物庫に忍び込み、狐白裘を盗み出してくれました。
鶏鳴のエピソード:寵姫のとりなしで、釈放された孟嘗君一行。
急いで秦から脱出するため、夜中のうちに関所の函谷関を越えようとします。
しかし、函谷関は朝にならないと門が開かない決まりでした。
気が変わった昭襄王の追っ手が迫るなか、食客の一人がニワトリの鳴き真似をすると、つられて本物のニワトリが鳴き始め、朝が来たと勘違いした門番が函谷関を開けたため、孟嘗君一行は無事、秦から脱出できました。
このエピソードから「鶏鳴狗盗」の故事ができました。
意味は「つまらない特技やくだらない才能しか持たない者でも、いざという時には役に立つこと」です。
つまらないと思われる特技でもいざというときに役にたつんですね。
孟嘗君のエピソードその2(狡兎三窟(こうとさんくつ))
狡兎三窟のエピソード:孟嘗君の食客に馮驩(ふうかん)という人がいました。
馮驩は、孟嘗君の領地である薛(せつ)の住民から借金を取り立てる役を任されました。
ところが馮驩は、あえて借用書をすべて焼き払い、借金を帳消しにして住民たちに恩を売りました。
後に孟嘗君が斉の王に疑われて失脚した際、薛の領民たちが大歓迎で迎えてくれた迎えてくれたため命拾いしました。
さらに、馮驩は他国との外交を有利に進め、孟嘗君の地位をより強固なものにしました。
このエピソードから「狡兎三窟」の故事ができました。
意味は「すばしっこいウサギが危険を避けるために、3つの巣穴を持っているように、身の安全を守るためにいくつかの避難場所や逃げ道、または様々な策を用意しておくこと」です。
馮驩さんも思い切ったことしますね、普通な首チョンパされてるところでしょうに。
孟嘗君の黒歴史エピソード
孟嘗君にはすさまじい黒歴史のエピソードがあります。
秦から逃げ延びた孟嘗君一行が趙の国に入った際、天下に名高い孟嘗君が来たとあって、趙の民衆は「どんな立派な男なのだろう」と思って一目見ようと集まってきました。
しかし、孟嘗君は非常に小柄でした。
それを見た民衆の一人が「なんだ、孟嘗君は大層な男だと思っていたが、ただのチビではないか」と言って笑いものにしました。
それを聞いてブチキレた孟嘗君、その場にいたゴロツキの食客たちと共に、笑った本人のみならず、その場にいた住民たちを無差別に虐殺し始めました。
それだけでは飽き足らず、趙の国のその県の住民を皆殺しにし、街を丸ごと滅ぼしてから立ち去ったそうです。
やることがヒドすぎる・・・。
孟嘗君の本性はものすごく残虐なようです。
史記を書いた司馬遷は、この事件があった薛の地を訪れた際、このような言葉を残して嘆いています。
「最初は、孟嘗君が好んで客を招いたから、その土地には賢者が多いのだろうと思っていた。
しかし現地に行ってみると、乱暴で凶悪な若者が非常に多かった。
理由を尋ねると、孟嘗君が天下の任侠や犯罪者を3000人も呼び寄せたため、その悪影響が今も残っているのだという。
噂に聞いていた名声と、実際の評判は随分と違うものだ」
その後の孟嘗君
その後、孟嘗君は斉の宰相に復帰しましたが、あまりに権力を持ちすぎたため、ここでも王に疑われ失脚してしまいます。
そして、斉を離れた孟嘗君は魏の宰相に迎えられています。
孟嘗君は亡くなった後は、息子たちが激しい後継者始めてしまい、斉と魏の連合軍によって領地を攻められ、孟嘗君の一族は一人残らず殺されてしまったそうです。
中国では古くからこのことを、趙の地で民衆を虐殺した「因果応報」で、多くの命を奪った報いが、自分の血筋の断絶という形で返ってきたのだと語り継がれているそうです。
ですが、孟嘗君の子孫は完全に絶えたわけではなく、三国時代に呉に使えた薛綜(せつそう)という人がでたそうです。
平原君
平原君は「趙」の国の人で、武霊王の子で恵文王の弟です。
本名は「趙勝(ちょうしょう)」と言います。
平原君は四君のなかで最も無能だと言われています。
上党の割譲に賛成してしまい、長平の戦いの原因を作ってしまったことが原因のようです。
平原君のエピソードその1(嚢中の錐(のうちゅうのきり))
秦に包囲された趙を救うため、平原君が楚へ同盟の交渉に赴くことになりました。
その際、共の食客を20人選ぼうとしたものの、19人しか集まらず1人足りません。
そこへ、毛遂(もうすい)という無名の食客が「私を連れて行ってください」と名乗りでてきました。
平原君が「賢者は袋の中の錐のようなもので、すぐに尖端が突き出て目立つものだが、おまえは3年も我が家にいて何も聞かないぞ」と断ろうとします。
毛遂は「私は今日、初めて袋に入れてくれと頼んでいるのです。もっと早く入れてくれれば、尖端どころか柄まで飛び出していましたよ」と切り返し、
無理について行きました。
結局、毛遂はすさまじい弁舌によって楚との同盟を成功させました。
このことから嚢中の錐という故事ができました。
意味は「優れた才能を持つ人物は、どこにいても自然とその才能が外に現れ、やがて認められること」です。
人を見る目のなかった平原君でした・・・。
平原君のエピソードその2(百里を行く者は九十を半ばとす(の源流となるエピソード))
平原君は、一度国を救うための交渉で弱気になった際、食客から「物事は最後の詰めが最も難しい。九割まで来てようやく半分と考え、気を引き締めてください」と諭され、大業を成し遂げたといわれています。
意味は「長い道のりや目標の達成において、終盤が最も困難であるため、九十里まで来てもまだ半分だと思い、最後まで気を抜かずに努力するべき」です。
ただ、このエピソードが直接この故事の由来になったわけではないようです。
平原君もちゃんと食客の言うことに耳を傾ける気はありますね。
平原君のエピソードその3(祖国のために全財産をはたく)
秦に趙が包囲されて兵が全滅しかけた際も、部下から「あなたの家には数千人の愛妾や奴隷がいて贅沢しているのに、民は飢えて子供を食い合っています。全財産を投げ打って兵に尽くすべきです」と言われてしまいます。
そこで、平原君は即座に家財をすべて兵に分け与え、自分の家族も前線の炊き出しに向かわせました。
全財産を国のために使うとは、平原君もいいところありますね。
平原君の総評
平原君は基本的には「国の危機に私財を投げ打って兵を募る」など、愛国心に溢れた人物として描かれます。
しかし、歴史家の司馬遷は史記の中で、平原君をこう評価しています。
「平原君は世俗の評判に囚われぬ優れた貴公子だったが、大局を見る目が足りなかった」
その理由として、秦と韓の領土争いに介入した際、目先の利益に目がくらんで趙王に上党の地の割譲を勧めてしまい、結果として「長平の戦い」を引き起こす原因を作ってしまったからでしょう。
この誤りが平原君が四君の中で最も無能だと言われるゆえんだそうです。
平原君の子孫は、秦が趙を滅ぼしたときに共に滅ぼされた、とのことです。
信陵君
信陵君は「魏」の人手昭王の子で安釐王(あんきおう)の弟です。
本名は「魏無忌(ぎむき)」と言います。
信陵君は四君最強に推す人が多いようです。
魏や諸国をまとめ、攻勢を強める秦に対抗し続けた人物で、五カ国の合従軍を従えて秦を函谷関まで押し戻した実績があるからでしょう。
信陵君のエピソードその1(徹底して食客を礼遇)
・侯嬴(こうえい)は70歳を過ぎた貧しい門番でしたが、信陵君は自ら馬車の御者となり、街中で彼を上座に乗せて敬意を示しました。
・他にも、博打打ちの毛公や、味噌売りの薛公といった、世間に隠れた有能な人物を探し出しては交流しました。この「身分にこだわらず才を愛する姿勢」が、後に彼の命を救うことになります。
信陵君のエピソードその2(兵符を盗んで趙を救う)
秦軍が長平の戦いで大敗した後、趙の王都・邯鄲を包囲しました。
趙の平原君から救援を求められますが、魏の王は秦を恐れて軍を動かしません。
ここで信陵君は、前述の侯嬴の策を用いて一世一代の賭けに出ます。
王の寵妃・如姫(過去に信陵君が父の仇討ちを助けた大恩がある)に頼み、軍を動かすのに必要な兵符を王の寝室から盗み出させます。
そして、魏の将軍・晋鄙(しんぴ)の元へ向かいますが、疑われたため、侯嬴が送り込んだ怪力の食客・朱亥(しゅがい)に鉄槌で晋鄙を撲殺させ、軍の指揮権を奪いました。
こうして魏軍を率いた信陵君は、趙・楚の軍と協力して秦軍を大破し、趙を滅亡の危機から救いました。
ちなみに、この時、策を授けた侯嬴は、信陵君の成功を祈りつつ、国を裏切る策を授けた責任を取って自刃しています。
王に逆らってまで趙を救おうとする信陵君カッコいい~!
晋鄙さん悪くないのに殺されてかわいそうに・・・。
信陵君の悲劇的な末路
見事趙を救った信陵君でしたが、魏王の兵符を奪ったために魏に帰れなくなりました。
その後、信陵君は趙に10年間留まります。
しかし、秦が再び魏を猛攻すると、魏王は過去の遺恨を水に流して信陵君に帰国を懇願します。
信陵君が帰国して魏・趙・韓・楚・燕の五カ国合従軍の総大将になると、あの秦軍を圧倒し、秦の関門である函谷関まで追い詰めました。これが秦の天下統一を最も遅らせた戦いと言われています。
ですが、秦もさるもので、魏の王に「信陵君が王位を奪おうとしている」という流言飛語を流しました、反間の計ですね。
魏王はこれを信じてしまい、信陵君は前線から更迭されます。
秦はこういう謀略が得意だそうです。
失望した信陵君は病気と称して引きこもり、毎日浴びるように酒を飲み、美女と耽溺する生活を送り、すっかり堕落してしまいます。
そして、酒が元でなくなりました。
信陵君亡き後、魏は18年後に秦によって滅ぼされました。
始皇帝や、高祖劉邦も、信陵君を非常に尊敬しており、劉邦は魏の近くを通るたびに彼の墓に立ち寄り、祭祀を絶やさないよう守り人を置いたと伝えられています。
信陵君の子孫は、魏無知という人物が信陵君の子孫とされることがあります。
魏無知は劉邦の軍師として知られ、その能力を見抜いたことから、信陵君の血を受け継いでいると考えられています。
春申君
春申君は、マンガ「キングダム」にも登場するので、知っている人も多いと思います。
「楚」の人で本名は「黄歇(こうあつ)」と言います。
春申君だけ王族の出身ではありません。
考烈王の元で楚の令尹(れいいん:宰相)を20年以上もつとめました。
趙の龐煖(ほうけん)と連動して、秦に対する5カ国合従軍を率いて函谷関を攻めたことでも有名です。
ちなみに史実では、この合従軍に李牧は参戦していません。
春申君のエピソードその1(太子の身代わり)
当時、最強国だった秦に人質として送られていた楚の太子(のちの考烈王)に仕えていました。
楚の王が病に倒れた際、太子を帰国させるために黄歇(当時、春申君とは名乗ってませんでした)は太子の身代わりになろうとします。
「私がここに残り、太子の身代わりに死にましょう。あなたは御者に化けて脱出してください」
太子を無事楚に帰国させ、黄歇は1人秦に残り、別の公子を人質とすることを交渉し見事まとめました。
ちなみに代わりの人質となったのがキングダムで登場する昌文君(しょうぶんくん)で、考烈王が人質時代に秦の昭襄王の娘との間にもうけた子がこれまたキングダムで登場する昌平君(しょうへいくん)です。
その後、許されて帰国した黄歇は、この功績により楚の令尹となり国政を切り盛りします。
そして、春申君という称号を考烈王からいただきました。
春申君さん、ずいぶん勇気があるんですね、すご!
春申君のエピソードその2(四君としての全盛期)
・諸侯と結んで秦の侵攻を食い止め、滅亡寸前だった魯の国を併合して楚の領土を広げました。
・他の四君のように、春申君は有能な食客を数千人も養っていました。
他の貴族が「我々の食客はかんざしを金銀で飾っている」と自慢したのに対し、春信君の食客は「我々は靴に真珠をちりばめていた」という、張り合い話が残っています。
無意味な張り合いなような気がしますが・・・。
2度の合従軍に関わる
邯鄲の戦いにおける合従軍
・秦が趙の首都・邯鄲(かんたん)を包囲し、趙が滅亡の危機に瀕しました。
・ 趙の平原君からの救援要請を受け、春信君は楚の軍勢を率いて援軍に向かいました。
・また、魏の信陵君も軍を動かし、楚・魏・趙の合従軍が結成されます。
そして、秦を撃破し趙を救うことに成功しました。
このとき四君のうち3人が揃って秦と戦ったのですね。
蕞(さい)の戦いにおける合従軍
・巨大化する秦に対抗するため、楚、趙、魏、韓、燕の5カ国が同盟を結びました。
マンガ「キングダム」で山場として描かれた合従軍のモデルになります。
・この時、春信君は合従軍の総大将として各国の軍をまとめ、秦の首都・咸陽(かんよう)の目前である蕞(さい)まで攻め込みました。
・しかし、 秦の猛烈な防衛や、背後をつく斉の合従軍への不参加などもあり、最終的に合従軍は秦に敗北しました。
春信君はこの2回目の合従軍の失敗により、楚の考烈王からの信用を落としてしまい、両者の関係は冷えこんでいくことになります。
成功していたら歴史はどうなっていたのでしょうか。
春申君の悲劇的な最期
国政で実績を残した春申君ですが、晩年に痛恨の失敗を犯します。
楚の考烈王には子供がいなかったため、彼は食客の李園という人物の妹(すでに春信君の子を身ごもっていたとされます)を楚王に献上しました。
自分の子を次の楚王にしようと目論んだのです。
目論見通りその妹は男の子を産み、太子に立てられます。
しかし、秘密が漏れるのを恐れた李園によって、考烈王が亡くなった直後に春信君は暗殺されてしまいました。
さらに、彼の一族も皆殺しにされるという、あまりにも悲劇的な最期でした・・・。
史記を著した司馬遷は、春申君の前半生の功績を絶賛しつつも、晩年の失態について「老いぼれて判断力が鈍ってしまった」と嘆いています。
【補足】戦国四君の○○君とは何か
「戦国四君」などの「○○君」とは何か、それについても調べてみました。
○○君とは、王族や功績のあった者に与えられた「爵位(称号)」、あるいはその称号を持つ「主君・貴族」のことを指します。
当時、国のトップである王の下に、領地(封土)を持つ有力な貴族や王族がいました。
彼らは領地の地名などに「君(くん)」をつけて呼ばれました。
例えば、孟嘗君だと「孟嘗」という土地を領地として与えられた君、という意味になります。
彼らはそれぞれ数千人規模の食客を抱えていました。
食客たちから見た「主」「主人」という意味でも「君」と呼ばれます。
まとめ
戦国四君はそれぞれ特筆すべきエピソードがいくつかありました。
それぞれいいところがあるようです。
私としては、信陵君推しです。
王に叛いてまで趙の国を救おうとするがやっぱカッコいいです、しびれますね。
孟嘗君は無意味な虐殺が酷すぎるので、評価はガタ落ちです。
平原君はちょっと・・・な人ですね、いいとろこもありますが。
春申君は最初はよかったけど、最期が悪すぎました。
四君のエピソードからは「鶏鳴狗盗」とか「嚢中の錐」といった故事もできているんですね。
戦国四君のエピソードを調べていたらおもしろかったのですが、気合い入れて書いたら、なんか長い記事になってしまいました・・・。
書くの疲れましたね・・・。
以上です。
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