空の青み
______ 夢見るために眠る
夢の窓を開け放とうとする手もとにまとわりついたのは、見知らぬ家を訪ねていると云う、鼻白む遠慮へのあらがいだった。
読めない音符には見果てぬ旋律が運ばれ、虹彩には澄みきった情景が待ち受けていたから。
それでも、あぶら蝉はすぐ近くに鳴いている。
遠い青空をたぐり寄せるまなざしが、私を按摩に変容させた。
ゆっくりと奈落に落ちる。分厚い綿布団。
いつか見た古い映画に登場する、女優によく似た奥さんが案内してくれた。
薄暗くかび臭い廊下の奥の客間らしき部屋へ通された。鈍重な襖、軋む空気。
不釣り合いな主人がいかにも横柄な態度で、あいさつとも了解ともつかない声を野太くあげた。
むろん私は盲目じゃない。
卑屈な感情を抱くまえに、気分を整えようとした。しかし奥の間の硝子はすでに開け放たれている。
その光景に過分な念いをぬりこめると、かわら屋根による映発だろうか、蒼穹の翳りが胸の底まで侵蝕したけれど、ひとときを曇らせたのち、晴れやかな気分に包まれてしまった。
「ずいぶん肩がこっておりますな」
とってつけたような台詞が奥部屋の淀んだ空気に溶け込む。
「ほう、あっ、いてて」
今度はか細い声が絞り出された。
「お召し物を少しばかり失礼」
主人の上布に触れるとひんやり、和紙のような張りが。
軒下からは盛夏を待つ風鈴がちりりん。
奥さんは何処へ、呼び水は銀幕へと。
昏き映画館、何時ぞやの。匂い残し。
禁断の映写室へと消えた影。
そして映像早送りの要領で、ここの主人が意外と見かけよりも温和な人柄であることを知り、安堵を感じながら、二階の欄干に面した書架に並んだ、うさぎの瀬戸物や、いかつい洋犬の写真、郷愁をまとってはいるけれど思い出せない人形、壊れてしまっている、しかし秒針の動きに幻惑される予感をはらんだ錆びた時計など、そしてシェイクスピアやポオの書籍を眺めていると、
「按摩さん、また来てくれるね」
乾いた声が耳のすぐそばでささやいた。
夏日の斜光は黄昏を演出する。
届かぬ明かりに満悦した部屋の調度たちは、見せてはいけない仄かな陰影を慈しむように鎮座したまま、帰途を不明にしてしまう。
一瞬の憧憬、書架の奥まったところで傾いた写真立て。面影知らず。
吐く息の温もりに驚く暇もなく、
「今度はもうすこしばかり力強くもんでもらえないか」
なんて、親しげな声色で話しかけてきたので、私は窓のそとに視線を落とし、いかにも恥じらいを含んだ表情をしめした。
感傷は季節をめぐるため、不用意に記憶が引き出される。
やがて奥さんの気配をうしろに覚え、何気に欄干に片手を添えたところ、ゆっくり稲穂が風に傾ぐように揺らいだのであわててしまい、
「この真下に見えるのぞき穴みたいな意匠の看板はなんでしょうか」
そう訊ねれば夫婦そろって、あれは地下鉄の入り口だと諭された。
欄干の向こうは晴れている。
「ほら、昔の女優さんが立っているだろう」
「見えませんけど」
「ひとが多いからですよ」
だが、いくらなんでもあんな小さな場所から、ひとの出入りがかなうはずはない。
それにしてもかわら屋根なんかどこにも見当たらず、狭くひなびた路地が横たわるだけで、野良犬の遠吠えすら消えている。
森閑とした空気は張り詰めることを放棄したのか、耳鳴りも訪れはしない。まるで針の穴に透けるような微弱な光景がどこか懐かしい。
この異様なほど安寧を約束している景観に、こころがそよぎだしたのはどうした加減なのか。
私は何度も目を凝らし、映写機の回転を脳裏に描いてみた。
「よくやってくれた。見えないものは見えない、上等だよ」
主人は満面の笑顔を浮かべながらそう言った。
「言われるまでもないさ」
冷たい息を欄干に吐く。枯葉散る。
映画館の客席を尻目に奥さんのうしろ姿が遠のいてゆく。
やはり私は空の光彩に惑わされているのかも知れない、そんな意識が指さきに鈍いしびれをもたらした。
あっ、そうそう、子供のころ誰かの母が安物の服を買ってきてくれた。
それを、ああだこうだと着まわす。ちいさな喜びは、隣家の窓から空へもれていた。










