誹謗中傷と批判の境界線──俺の中での“線引き”
今のSNS時代、ちょっとでも強めの言葉を使えば「それ誹謗中傷じゃないの?」って言われる。 逆に、なんでもかんでも“優しい言葉”で包まないと叩かれる空気もある。
でもな、批判と誹謗中傷は、まったく別モンだ。
その線引きを、俺は自分の中でちゃんと持ってる。
【俺の定義:批判とは“公の発信”】
誰かの振る舞いを見て「これは違うだろ」と感じる。 それを、自分のアカウントやプラットフォーム上で発信する── これは俺の中では「批判」だ。
直接相手にぶつけにいってない。タグも付けてないし、リプでもない。
たとえそれが誰かを意識してたとしても、“発信の矛先”はあくまで“自分”の外に向けてる。
テレビの中の人間に対して「それはないだろ」って言ってるようなもんだ。
それは、俺にとっては“攻撃”じゃない。思考の整理であり、自戒でもある。
【誹謗中傷とは“ぶつけに行ってる”行為】
DM、リプライ──相手にダイレクトにぶつける行為。 これはもう完全に“投げつけ”だ。
たとえ「正論」だとしても、相手に向けて感情を乗せてぶつけた時点で、それは誹謗中傷。
なぜか?
“議論”じゃなく、“感情の処理”になってるからだ。
【俺が他者を見るのは「自戒」のため】
俺が他人を見る理由は、たった一つ。
「人の振り見て我が振り直せ」
誰かの発言、態度、行動。 それを見て「自分はこうなりたくねぇな」と思ったら、それは“自分のため”に活かす。
人を見て怒るんじゃない。人を見て整えるんだ。
【誹謗中傷してくる奴にも“他者”はいる】
「お前はこうだ!」「バカじゃねえのか?」 そう言ってくるやつ。
でもな──
その奴らにも、また“他者の目”がある。
結局、どこまで行っても“他者の目”からは逃げられない。
だったら、「誰かを見る視線」も、「誰かから見られる視線」も、全部“自分のために使え」。
【結論:感情でぶつけるな。自分を整えるために使え】
人に対してムカついたり、嫌悪感を覚えることはある。 でもそれを“ぶつける”か、“自分の肥やしにするか”で人生は真逆になる。
誹謗中傷は、相手にぶつける“感情のゴミ”。
批判は、自分を整えるための“思考の鏡”。
どっちを選ぶかは、自分次第だ。
他者の行動を見て怒るのは簡単。
でも、そこに学びを見出せる奴が、強くなる。
