見出し画像

永井龍男「朝霧」と謎の「横光利一賞」

 永井龍男は1950年に短篇「朝霧」で横光利一賞を受賞している。横光利一賞は他に前年に大岡昇平が長編小説『俘虜記』で受賞しているのみで、何故かというと主催していた改造社の経営が逼迫したため2回で終わったのである。

 「朝霧」は主人公のX氏にまつわる話である。

 受験学生のための註釈書を出版し、その印税でそこに家を求めてからも、判で押したような教師生活は七、八年続いたのだから、諸君の学校生活の歴史に於て容易に連想される、数々の人物と共々、氏の「毎日」は相当な永さを持って続いたと、云うことが出来る。それ故もし私が、類型的な古めかしい想像のX氏の上に及ぶのを恐れるとすれば、ー タイユ老人には娘が三人あった。アンナというのが、総領そうりょうだが、家の中では誰もアンナの名前を口にしないことになっていた。二番目の娘はローズといって十八、末娘のクレールはまだほんの子供で、やっと十五になったばかりだった。
 女房に先き立たれたタイユ老人は、ルブリュマン氏のボタン工場で機械掛りの職工長をしていた。人望があって、曲がったことが大嫌いで、口養生のひどくやかましい、いわば模範職工とでもいう律義者だった。一家はル・アーブルのアングーレーム街に住んでいた。ー という風に、これは手近にあったモーパッサンという人の、短篇小説の書き出しを利用したのだが、人物と環境をフランスなりアメリカの一小都市に持って行っていただいても、一向に差し支えないのだ。

『朝霧/青電車その他』p.200-p.201

 X氏の几帳面さを他の小説を利用して表現しているのであり、X氏は一度確立した自身の家族の形さえも変えたくないのである(因みにモーパッサンの小説とは「呪ひのパン(Le Pain maudit)」で『ロンドリ姉妹』に収録されている)。
 ところが話者の高等学校から大学を共にした友人でXの令息の良英が結婚するということになったのだが両親の反対に遭い、一週間程度「家出」をしたことからX氏はすっかり取り乱し「ラセラスは、余りに、幸福過ぎたので、ー 不幸を求めることになりました」と口癖のように唱え始めるのである。
 この小説の最後を引用してみる。

 杉林の中は、朝霧の名残りに青み、冷気はたちまち肩に染みて来た。私は久し振りに例の独白の文句を思い出し、二度ばかりそれをそっと繰り返して見たものだ。
「ラセラスは、ラセラスは、ー 余りに幸福過ぎたので、不幸を求めることになりました」
ー さて、幸い私は、こうして無事に帰還することの出来た一人である。ジャングルで、丘の上でさながら己が守護神であるかのよう如く、幾度かラセラスの名を呼んだことであるが、いまもって、ラセラスとは何者であるのかを、怠け者である私は調べてみたことはない。

『朝霧/青電車その他』p.224

 「朝霧」は昭和24年8月号の『文學界』に発表されたものだが、昭和23年9月に思索社から出版されたのが、朱牟田しゅむた夏雄の訳による『幸福の探求(ラセラス)』である。

 イギリスの文学者であるサミュエル・ジョンソンの唯一の小説である『幸福の探求』は日本においてはあまり評判が良くないのだが、これは「大人」が読んで判断しているからであって、このアビシニアという架空の王家の後継者で26歳のラセラスを主人公とした、形式的にはファンタジー風で内容はプラトンによって執筆されたソクラテスの対話篇のような感じの小説は「子供」のために書かれたのだと思う。200ページ内に49章だての小説はとても読みやすい。
 ラセラスは「幸いの谷(happy valley)」から詩人のイムラックと妹のネカアヤと侍女のペクアーと共に旅立つことになり、ペクアーが誘拐されたり、天文家の話や霊魂を話題にしたりした後に彼らはアビシニア(流暢に発音するならば「I'll be seeing you!」)に戻ることになる。
 訳者はあとがきで以下のように記している。

 妙なところに筆がそれたが、話をジョンソンにかえしてみると、ジョンソンは英文学のこういう傾向を身を以て具現しているような作家ではないだろうか。『ラセラス』の一篇、色恋のことは一字だって出て来ない。こんな小説がまたとあるだろうか。あれだけの人物をあれだけの場面に布置しているのだから、例えば遍歴中にネカヤア姫に恋人の一人くらい出来てもよさそうである。王子ラセラスにだってそうである。或いは本筋には出さないとしても、せめて侍女じじょペクアーがアラビア人に誘拐されて長い間彼らの本拠に監禁されるあたりくらいには、恋の花をちょっと咲かせても作家冥利みょうりに尽きるわけでもあるまい。いや、それだけではない。若い兄妹が世の中を見て廻っての所感の一つ一つが、何と老成した考え方ばかりであることだろう。畢竟ひっきょうこれこそまさに大人の文学の標本ではないだろうか。

『幸福の探求』p.239-p.240

 『幸福の探求』をプラトンの「対話篇」と見なすのならば本作に「色恋」は必要ないし、『幸福の探求』に新訳が出ないことで訳す価値が無いと見なしている人がいるが、朱牟田《しゅむた》夏雄による翻訳を読めば分かるように新訳を必要しないほどいまだに古びていない名訳なのだから、その訳の良さが分からないというのは文庫本をさかさまにして読んだとしか考えられないのである。

 ここからは筆者の想像なのだが、永井龍男は『幸福の探求』に感銘を受けて「朝霧」を書き、永井に賛同した他の作家たちによって「横光利一賞」を受賞したのだと思う。そうでなければ第一回受賞作が令和になっても文庫本が増刷されておりいまだに読み継がれている大岡昇平の長編小説『俘虜記』で、第二回受賞作が既に作家ともども忘れ去られようとしている永井龍男の短篇「朝霧」というのは辻褄が合わないのである。

 だから永井の代わりにサミュエル・ジョンソンの『幸福の探求』の再文庫化を提案したいと思う。「朝霧」の方ではないよ。