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霊的識別と他者配慮の欠如:1コリ10章13節を読む

 「誤用された聖書解釈」の第3回目です。今回は、新約聖書第1コリントの信徒への手紙(以下「1コリ」)10章13節を取り上げます。なお、過去記事は以下で読めます。

 さて、まず、聖句を引用します。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

新共同訳新約聖書第1コリントの信徒への手紙10章13節

痛む人を斬る刃となるパウロの言葉

 これもまた、よく誤用される一節と言えましょう。特に、「もう苦しくて耐えられない」と呻いている人に投げつけられる時、パウロの意図を歪めた、著しく暴力的な刃に変貌します。私も、何度、これをクリスチャンから言われ、断崖絶壁から蹴飛ばされるような暴力と衝撃を感じたか、知れません。
 困窮や悲しみの最中にある人、苦しんでいる人を突き放し、断崖の外に蹴落とす言葉として、この聖句が誤用される状況が、残念ながら発生してきたし、今もどこかで起きていることでしょう。それは、パウロの意図を冒涜するものでしょうし、イエスの教え――隣人愛――とも一致しません。つまり、この聖句の誤用によって生じることもまた、過去2回の記事で扱ってきた聖句同様、霊的識別と他者への配慮の欠如によって引き起こされる暴力の典型例と言えるでしょう。
 これから、パウロの語りの意図、現代における誤用の構図、相手本位の欠如という観点から、この聖句について思いめぐらしたいと思います。それらを踏まえた上で、苦しむ人に寄り添う上で、望ましい態度について触れたいと思います。

パウロの語りの意図:過去の証しと神の真実性

 そもそも、パウロの意図は、時の終わりに直面している中で、厳しい試練に遭っている仲間たちを励ますことだったはずです。 「あなたがたの経験した試練で、耐えられなかったものはなかったはずだ。今、あなたが立っているのがその証拠だ。神は真実な方だから、今、どれほどの試練に遭っていようとも、必ず逃れる道を備えてくださる。だから、頑張ろう」、そういう意図だったはずです。
 より丁寧に見るならば、1コリ10:13の背景にあるのは、

「あなたが今ここに立っている」こと自体が、これまでの試練を乗り越えてきた証
「神は真実な方」という、信仰の中心的信頼の再確認
「逃れる道」があるという未来への希望

という、内的な励ましの連なりです。
 これは、苦難の中にある人に対して、「神は不在ではない」という確信を、共に涙しながら語る文脈で語られるべきものです。決して「お前はそれに耐えられるはずだ。四の五の言わずにがんばれ」という命令として差し出されているのではありません。

現代における誤用の構図:傷に塩を塗る「聖句」

 この聖句のよくある誤用の例には、このようなものがあります。

・「大丈夫、神様は乗り越えられる試練しか与えないから」と言って、放置・無視する
・「これにも意味があるんだよ」と言って、相手の痛み・苦悩に無関心になる
・「逃れる道があるって書いてあるんだから、がんばって」と言って、自分は何か良いことをしたと思い込む

 これらは、一見、「励まし」の形を取って言われているように見えますが、実際には「孤立した個人に苦しみを処理させる」言葉になりがちです。しかも、それが聖書の名を借りて語られることで、受けた側は「自分が信仰的に劣っているのではないか」と思い込んでしまう懸念すらあります。これは聖句を使った霊的ガスライティングの構図と言えるでしょう。ガスライティングとは、相手に誤った情報を与えたり、嫌がらせを繰り返したりすることで、被害者が自分自身の記憶や認識、正気を疑うよう仕向ける心理的虐待の一種です。この言葉は1938年にイギリスで上演された舞台劇「ガス燈」(1944年に映画化)に由来しています。ここで、詳しくは触れませんが、霊的に未熟な多数のメンバーによって構成される宗教共同体であればあるほど、この種の霊的ガスライティングが、当然の如く起きていて、それをする側が「信仰深い」「敬虔だ」と、多くのメンバーによって誤認されているように思われます。

相手本位の欠如

 この聖句が誤用される時に欠けているのは、「この困窮している人、悲しみに打ち沈んでいる人が、この聖句の言葉が内包する励ましの響きを聞ける状態にあるのか?」という相手を慮る視座です。ここに、霊的成熟と他者理解の核心があると言えるでしょう。
 けれども、この聖句を誤用する人々にあったのは、むしろ次のような見方だったと言えるでしょう。「自分にとってこの言葉は慰めだった。だから、この人にもそうだろう。聖句だし、大丈夫だ」、こういう自分本位な見方をする人によって、パウロの意図は歪曲され、多くの人が傷つけられてきたと言えます。
 また、こういうことが平気でできる人たちは、口先で神を愛しているに過ぎないようにさえ、思われます。なぜなら、イエスが最も重要な掟としたのは、「神を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」であり、この二つは不可分に結びついているからです。「神を愛する」と言いながら、隣人の苦境に目を向け、理解しようとしないどころか、聖句を語って終わらせ、限界状況にある人をさらに追い詰める態度は、隣人愛の真逆のあり方です。それは、結局のところ、神を愛してなどいないことを、露にしていると言えないでしょうか。
 相手の状況に目を向けることなく、安易にこの聖句を誤用する人々が見逃しているのは、人は、傷ついた時に「励まし」ではなく、「共にいてくれる存在」を必要としていることです。慰めの言葉は、沈黙のあとでしか届かないという原則を理解していないと、たとえ聖句であっても、暴力になり得ます

レヴィナスの提示した倫理

 むしろ、誰かがのっぴきならない困難にあることを訴えてきたり、重い病気に罹患し、さらに無理解に遭って辛いと訴えてきたりした時、まず「語りたい」「励まそう」という己の欲望を押しとどめ、立ち止まり、他者の苦境や重荷を気遣うことこそが、求められている倫理であり、美徳であるように思われます。20世紀のユダヤ人哲学者のエマニュエル・レヴィナスは『暴力と聖性』で、次のように述べています。

自己を気遣うよりさきに他の誰かを気遣うこと、他の誰かを見守ること、自己の責任を引き受けるよりさきに他の誰かの責任を引き受けること、こういった行いのうちにはたしかに聖性が認められます。人間性とはこの聖性の可能性のことです。

エマニュエル・レヴィナス『暴力と聖性』国文社、1991(1987)、p,134

 20代前半で初めて読み、そして、折々に読み返してきました。さらに、パウロが1コリ10:13の言葉を手紙に書いた時も、彼の心にあったのは、「自己を気遣うよりさきに他の誰かを気遣うこと」だったように思われます。おそらく、その視座で見た時にこそ、この1コリ10:13におけるパウロの意図は最も明らかになるのではないでしょうか。それは、イエスが述べ、生き、体現した、「神を愛し、隣人を自分のように愛する」と、強く深く共振する態度であることは、もはや疑い得ないように思われます。

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