語りを黙らせる者、聞き取る者――『名探偵コナン』における成熟の倫理
はじめに:再度、証言的不正義について考える
以前の記事「『名探偵コナン』に見る証言的不正義」(以下「以前の記事」)において、ミランダ・フリッカーの証言的不正義という概念を、『名探偵コナン』に適用して、読み解いてみた。今回の記事は、その続編であるが、また違った観点から、本作品における「語り」の倫理に迫ってみたい。
以前の記事に、証言的不正義の説明は載せたが、おそらく、まだ一般的に知られていない概念であろうと思われるので、本稿にも同じ説明を載せる。
アメリカの倫理学者ミランダ・フリッカーの著書『認識的不正義――権力は知ることの倫理にどのようにかかわるのか(Epistemic Injustice:Power and the Ethics of Knowing)』(勁草書房、2023)は、「知ること・語ること・理解されること」にまつわる不正義の構造を明らかにした画期的な学術書である。
彼女は、「正義を考えること」と「不正義を考えることは別である」と述べ、特に「語り手が誰であるか」によって語りの信憑性が損なわれるような現象を、“認識的不正義”という枠組みでとらえた。
この認識的不正義には、主に次の二つの形態がある。
・証言的不正義(testimonial injustice)
ある人物の発言が、性別・年齢・人種・階級などのステレオタイプによって、信頼性を不当に低く見積もられること。
例)警察官が、特定の人々を、その人々が黒人であるがゆえに信じない場合(同書、p,2)
・解釈的不正義(hermeneutical injustice)
語り手の経験を説明するための社会的に共有された語彙や枠組みが存在せず、その結果、語ることができず、理解もされない状態。
例)セクシャル・ハラスメントという、必要不可欠な概念がまだ存在しない文化において人々がハラスメントに苦しんでいる場合(同書、p,2)
どちらも、被害者の「語る力」「理解される資格」「認識主体としての尊厳」を奪う構造であり、決して理論的な抽象概念ではない。私たちの日常に根を張った、“見えにくい暴力”である。本稿では、この内、証言的不正義の概念を扱う。
第1章 語りをどう扱うかが、人格と成熟度合いを映す
誰かが何かを語ろうとするとき、それを「聞こうとする」か「黙らせようとする」か――、その応答の仕方には、語り手の属性に対する認識と聞き手自身の成熟度が、如実に現れる。
『名探偵コナン』は、推理漫画・アニメとしての側面だけでなく、この「語りをめぐる応答倫理」の縮図としても、読み直すことができる作品である。
本稿では、フリッカーの「証言的不正義(testimonial injustice)」の概念を手がかりに、コナンに対する登場人物たちの接し方を分析し、そこに表れる未成熟と成熟の倫理的差異を読み解いていく。
第2章 「ガキが何言ってんだ?!」:語りを封じる者の未熟
主人公・江戸川コナンは、見た目は小学1年生だが、実際には高校生探偵・工藤新一である。第1話で、ある組織の取引の現場を目撃したため、口封じに飲まされた薬のせいで、体が幼児化してしまった。この見た目は小学1年生だが、頭脳は高校生というギャップが本作品の根幹をなしている。コナンの最終目的は、自分の体を本来の体に戻し、黒の組織の活動を止めることである。そのために、幼馴染の毛利欄の父・毛利小五郎が運営する毛利探偵事務所に転がり込んで、日夜、様々な事件の解決に奔走している。
さて、コナンは鋭い観察と推理で事件を解き明かすが、しばしば大人たちに軽んじられたり、怒鳴られたりする。とりわけ顕著なのが、コナンの保護者である毛利小五郎の接し方である。
・「ガキが何言ってんだ!すっこんでろ!」
・「えらそうに語りやがって……調子に乗るなよ!」
・(そして)ゲンコツで黙らせる
これらの行動は、まさに語り手の内容ではなく、属性(=子ども)を理由に信頼性を否定する行為であり、フリッカーが定義する証言的不正義に該当する。
さらに、彼が選ぶ「暴力で黙らせる」行為は、倫理的・法的観点からも問題がある。元・警察官であるならば、憲法13条(個人の尊重)を擁護すべき立場であるはずだ。よって、児童への暴力的言動は、現代社会では明確な人権侵害とみなされる。
作中で、小五郎の行動は、「お約束」や「ギャグ」として処理されてきたが、現実に照らせば、自らの未熟さ・権威への執着・自己中心性を露呈した言動と言える。
第3章 聞き取る者たちの沈黙と節度:成熟の形
対照的に、コナンの語りに対して、決して暴力や否定で応じない登場人物たちがいる。
・赤井秀一(FBI捜査官)
・安室透(公安警察+黒の組織の潜入捜査官)
・ベルモット(黒の組織幹部)
彼らはいずれも、コナンの正体を知るか否かに関わらず、
・語られた内容そのものを検討する
・推理に耳を傾ける
・驚嘆することはあっても、言葉を封じようとはしない
という姿勢を貫いている。
特筆すべきは、彼らが皆、自らの能力を誇示しない点である。
・赤井は天才的スナイパーだが、常に沈黙と慎重を重んじる
・安室は三重スパイでありながら、節度と冷静さを失わない
・ベルモットは敵でありながら、コナンに畏敬の念を抱き、軽視しない
彼らの行動には、“語り手に敬意を払う”という成熟した姿勢が一貫している。それは「誰が言ったか」でなく「何を言ったか」で判断し、自らの力を必要以上に示さず、聞くべきことを聞くために、抑制された在り方を選ぶという倫理的立場である。
第4章 背景にある文化:赤井の“ステレオタイプ外部性”
前述の3人の中で、特に赤井秀一の特異性については、以前の記事で触れたが、再度、彼に注目したい。
赤井秀一は、日本人の父とイギリス人の母の間に生まれ、イギリスで育ち、アメリカ市民権を持っている。彼の倫理的成熟には、日本の年齢階層文化の外部に位置する育ちが深く関係していると考えられる。
・イギリスの教育文化:子どもであっても、意見を述べる存在と見なす
・アメリカの実務文化:合理性と証拠に基づく判断が重視され、権威や年齢に左右されない
これに対し、小五郎の言動は、日本のある年齢層の男性に特有の、狭量さ・自分本位・年功序列的思考・男尊女卑的態度を体現していると言えるだろう。
つまり、赤井と小五郎の対比は、単なる性格の違いではなく、文化的成熟度の差異が生んだ、語りの倫理の違いとして読めるのである。
第5章 聞く者の人格が、語りの価値を左右する
同じ語りが、「黙れ」と一蹴されるか、「聞かせてほしい」と受け止められるか。それは、語り手の力ではなく、聞き手の人格・倫理・成熟によって決まる。
コナンの推理が受け入れられるか否かは、彼の能力ではなく、周囲の人物たちの“認識的姿勢”に左右されているという構造こそが、『名探偵コナン』における深い社会的含意の一つである。
結びに:成熟とは、語りを封じないこと
成熟とは、語りに耳を傾ける力であり、それを暴力や権威で封じようとしない節度である。
・小五郎の暴言とゲンコツは、日本社会に残る“語りを支配する文化”の象徴
・赤井や安室の沈黙と傾聴は、“語りと共にある倫理”の可能性
語り手がどんなに鋭くとも、それを封じる社会では、真実は決して表に出ない。私たちは、自らが「語らせない者」になっていないか? その問いを、江戸川コナンの語りから突きつけられているのかもしれない。
虚心に考えてみるとよい。あなたがコナンのような子どもだったとして、小五郎と赤井のどちらに、自分の悩みを相談したいと思うだろうか。世の中についての自分の考えを口にしたいと思うだろうか。どちらが、最後までしっかり聞ききった上で、自分の自主性を尊重した提案をしてくれると期待できるだろうか。考えるまでもなく、答えは自明だろう。
※以前の記事は以下のマガジンに収録されています。
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