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被害者責任論は非人道的態度につながる――憲法13条と人間の尊厳を礎に


序:なぜ今、問わねばならないのか

 犯罪・暴力の被害者は、その暴力に深く傷つけられるだけではない。さらに、周囲の人間から次のような心無いことを言われることもある。「被害者のあなたにも落ち度があったのではないか」「そんな状況にいたのが悪い」と。このような被害者非難(Victim Blaming)は、日本社会において決して珍しくない。とりわけ、無差別テロ、性暴力、通り魔、家庭内暴力、職場での各種ハラスメント、宗教施設内での暴力など、予測困難な被害を受けた人々に対してさえ、「自己責任」の名の下に向けられる視線と暴力的言説が存在している。
 しかし、こうした言説の根底には、「被害者が支援されるべき存在である」という根源的な認識の欠如がある。さらに言えば、それは人間の尊厳に対する無理解に根ざしており、その結果として、非人道的態度を社会に広めてしまう危険性がある。
 本稿では、「被害者責任論」がいかにして人間の尊厳を損ない、暴力の再生産を招き、さらには社会の倫理基盤を侵食するかを、憲法13条の視座から明らかにする。

第1章 被害者責任論とは何か

 「被害者責任論」とは、加害行為の責任を加害者に帰するのではなく、被害者の行動・服装・状況判断などに焦点を移し、間接的あるいは直接的に「被害者にも非があった」とする言説を指す。
 これは個々のケースでの問題に留まらず、以下のような構造的特徴を持っている。

・社会的弱者・女性・子ども・障害者など、既に不均衡な立場に置かれている人々に向けられることが多い
・「自衛の不足」「判断の甘さ」といった言葉で、被害を予防・予見可能なものと見なす
・加害者への責任追及がぼやけ、制度的支援の正当性を揺るがす

結果として、被害者は「支援を受ける権利」を剥奪され、「語ること」「訴えること」そのものを困難にされる。それだけでなく、被害からの回復にも、多大な制限がかかることになる。この被害者責任論の根底にあるものは何だろうか。次章で、さらに深く考察したい。

第2章 被害者責任論の根底にあるもの:尊厳意識の欠如

 犯罪・暴力の被害者からの訴えを聞くと、条件反射的に、こう思う人々がいる。中には、思った瞬間、すぐに口に出して、無自覚の二次加害者になる人も少なくない。

「あなたにも落ち度があったんじゃないの?」
「あの場所に行くから悪い」
「そんな服装をしているから、狙われるんだ」
「そんな人間関係を続けていたあなたも悪い」

こうした“自動反応”をしてしまう人は、「被害者の言葉や痛みを出発点としない思考構造」に囚われている。また、この自動反応から、発言者が、憲法13条の「個人としての尊重」「幸福追求権」という思想を、全く理解していない、あるいは日常判断に落とし込んでいないことが露呈される。
 憲法13条はこう規定している。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法第13条

これに照らせば、
■ 暴力を受けた被害者の身体的・心理的安全を最優先にすること
■ 被害者の語り・選択・沈黙・回復のペースを最大限に尊重すること
■ 被害者が二次被害に遭わないよう、社会・制度・他者の対応を整えること

これらは、「選択肢」ではなく「義務」であることは、明らかだ。だが、これを「義務」と思えない人が、今の日本では大半かもしれない。こう考える人は、憲法が内面化していないことを裏書きしており、法治国家の市民としては、非常に危機的な在り方をしていると言える。
 また、被害者責任論には、尊厳意識の欠如に加え、「予見可能性」信仰と“責任転嫁”の文化という構造もある。次章で、これらについて詳しく見ていこう。

第3章 「予見可能性」信仰と“責任転嫁”の文化

 「被害者にも落ち度があった」「あの場所に行くから悪い」「そんな服装をしているから、狙われるんだ」とみなす人々は、実際には 「自分は大丈夫でいたい」という不安の裏返しを、他者に転嫁している場合が多い。
 これは精神分析でいう「防衛機制」的作用であり、「被害者に非があるなら、自分は気をつければ被害に遭わない」という幻想の中に安住しようとするものだ。
 これは、結果として、

・被害の予測不可能性を無視する
・社会的暴力の構造(DV、性暴力、通り魔、ハラスメント等)を矮小化する
・支援の責務を放棄し、「自己責任」で片づけ、被害者を放置し、あるいは無関心になることを正当化する

という非人道的な態度に繋がる。
 だが、暴力・犯罪は、予測困難な事象である。ほとんどの人にとって、犯罪・暴力は、ある日、突然降りかかってくる天災のようなものだ。例えば、2019年に発生した池袋暴走事故で、妻と娘を失った松永拓也さんには、何の落ち度もない。被害者の妻と娘もである。だが、『犯罪被害者代理人』の第一章で、著者の上谷さくら弁護士が「松永さんに対する一部の心ない人からの誹謗中傷事件を担当したりするなどしています。」(『犯罪被害者代理人』集英社新書、2025、p,28)と記していることから、おそらく、故人や遺族の落ち度を責めたり、事実無根の中傷があったと推察される。これは、法治国家では、断じて許されない。
 あるいは、私自身、家庭・学校・職場・教会で、人権侵害を何度か受けたが、まず感じるのは、突然の、あまりにひどいことに対するショックと怒りと困惑である。自分がされたこと、相手と自分との関係性、これまでの経過、全てを、突然破壊される行為のため、すぐに、自分がどんな不正義をされ、どんなダメージを受けたのか、明確に言語化することはできないし、これは多くの被害者にとっても同様だろう。
 そこへ、「あなたにも非があった。落ち度があった」と、第三者が言ってくることが、どれほど暴力的・破壊的に感じられるか。「気をつけていれば、そんなことには遭わなかった」と言われることが、どれほどの怒りと絶望を惹起するか。
 およそ尊厳と日本国憲法第13条がわかっていたら、心身・経済・生活面・人間関係で、多大なダメージを受けている被害者を責めることはできないし、それが、どれほど非人道的かがわかるはずである。
 ところが、これまでの記事でも述べてきたように、不充分な憲法教育のため、国民の中に憲法の尊厳思想が根付いていないため、今も、暴力・犯罪の被害者は、周囲の心無い言動に傷つけられ続けている。しかも、やっている人々さえ、それがどれほど暴力的かという自覚に乏しい。「それは、二次加害です」と指摘しても、「そんなに硬く取るなよ」「ただの冗談だって」と逃げる人間も少なくない。だが、「「意図」の軽重に関わらず、人権侵害的言説は許されない」で指摘したように、この種の二次加害言説は、口にしただけで、強い非難に値するものであり、いかなる理由があろうと、免責されない。その記事で、「私たちは、発言の意図の軽重ではなく、その言葉が何を生み出すか、誰を傷つけ、誰の尊厳を脅かすかを基準に評価すべきである。」と述べたように、人権侵害言説や二次加害的言動を判断する基準は、「誰を傷つけ、誰の尊厳を脅かすか」であるべきであり、またそれが、憲法13条から導かれる一つの帰結である。

第4章 非人道的態度とは何か

 「非人道的」とは、単に残酷であるという意味ではない。それは、人間を手段化し、尊厳の根拠を剥奪し、苦しむ人を見捨てる構造的な姿勢を指す。
 この定義に照らすと、被害者責任論は次のような点で明白に非人道的である。

・被害者の不可侵の尊厳(dignity)を条件付きにし、状況・過去・言動に応じて評価する
・被害という現象の背後にある構造的・制度的要因を隠蔽し、自己責任という幻想へと転化する
・加害行為の非と暴力の重大性を相対化・矮小化する
・被害者に対して「語るな」「黙れ」「傷つく方が悪い」という沈黙の強制を働かせる

つまり、被害者責任論とは、苦しむ者の隣に立つことを拒否し、孤立させ、傷を広げる倫理的暴力そのものなのである。
 また、これは、言論の自由(21条)の埒外の言説であり、強い非難に値する言説であることは、これまでの記事でも、再三、指摘したことである。日本国憲法及び国際人権条項に照らせば、被害者責任論を許容する余地は、全くないことは自明である。

第5章 憲法13条からの照射

すべて国民は、個人として尊重される。

日本国憲法第13条

 この短くも力強い条文には、人間の尊厳が無条件に保障されるべきであるという憲法的倫理が込められている。尊厳とは、その人が被害者であるか否か、過去にどのような生き方をしていたかとは無関係に、存在そのものが等しく尊ばれるべきという原則である。
 しかし、被害者責任論は、この原則を覆す。「過去の行動によって尊厳を減じることができる」という思想が前提にあるからだ。これは、憲法13条に対する明白な違反であり、憲法精神への冒涜である。
 そもそも、全く予想外の暴力に傷ついたという点で、被害者には、責められる点は微塵もない。責任の所在と、支援の必要性は無関係であるべきだ。事故であれ、事件であれ、自然災害であれ、意図的であれ、突発的であれ、過去の行動履歴が何であれ、人間の尊厳は、「状態や経緯によって剥奪されない」という原則こそが、民主主義と法治国家の根幹である。

第6章 社会的結果としての倫理崩壊

 被害者責任論が蔓延する社会では、次のような現象が生まれる。

・被害を受けた人々が、委縮し、語ることをやめる(二次加害の恐れ)
・加害者が、責任を相対化し、行動を正当化し、反省・償いの必要を過小評価・無化する。さらに、自分の行為の暴力性を自覚していないため、高確率で、再犯の可能性が考えられる
・公的制度(支援、補償、保護)が、世論に流されて弱体化する
・教育現場で、「被害を避けよ」という指導のみが強化され、尊厳教育が置き去りにされる

これは、憲法の理念に基づいた支援や回復の道を潰すだけでなく、社会全体の倫理的免疫力を低下させる。結果、多くの人々にとって、ますます生きにくい社会になる。

第7章 回復のために必要な視座

 以上のことから、また憲法13条に立脚するならば、「被害者非難」ではなく、「被害者支援」が第一に来る社会でなければならない。そのために必要なのは、次の三つの視座である。

1. 構造的視座
 被害の背景にある社会的・制度的要因を見抜き、個人の責任に矮小化しないこと。

2. 人道的視座
 苦しみの中にある人にまず寄り添い、沈黙と証言に耳を澄ませること。

3. 憲法的視座
 人間の尊厳を絶対的価値とする憲法13条の原理を、社会倫理として育てていくこと。

結語

 被害者責任論は、表面的には「合理的説明」や「公平な視点」のように見えることもある。だが、その正体は、苦しみへの共感の欠如と、社会の倫理的責任の放棄である。
 誰もが明日、暴力の被害者になり得るこの世界において、私たちが守るべきなのは、尊厳の不可侵性である。
 それを忘れたとき、私たちは、加害者よりも先に、人間性そのものを損なってしまうだろう。


読者へのお願い

 どうか皆さん、日本国憲法を読んでください。私が所持し、座右に置いている童話屋発行の日本国憲法は、文庫本の大きさで、厚さは0.3mmしかありません。どこにでも持ち運びができます。ここに、読みやすい字の大きさで、憲法全文全てが入っています。

 特に、前文と第二・三・十章をお読みください。第三章は、国民生活に関わる全てがあり、とりあえずここだけ熟読しておくだけで大丈夫です。
 なお、「教会での人権侵害」第3章第3節4で述べた、人権侵害を指摘・報告する文書の作成・送付は、第16条(請願の権利)の行使によるものです。これを行うのに、特別な資格は不要です。法律条文がわからなければ、AIに教えてもらい、自分で確認すれば、良いのです。
 憲法は、政治家だけのものではありません。むしろ、本来は権力を縛るという点で、国民のものなのです。これを読めば、誰にでも“社会を変える力”が芽生えます。


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jacob_truth369 ( ´∀`)サポート本当にありがとうございます!!😭😭😭🥰🥰🥰 (  ・ ∀ ・)ご恩返しするためにも、今後も一生懸命頑張ります!!😊😊😊