主権者としての行動を知らない日本人
序:国民主権の具体例リストの必要性
日本国内の人権侵害や社会問題を、憲法を根拠に分析し、言語化することは、本来、国民主権の正当な行使に含まれる営みである。これは、法治国家市民であれば、ごく常識に属する営みだ。だが、日本は、包括的憲法教育と主権者教育が不在のため、多分、少なからずの人々から、筆者の営みが奇異に映っていることが想像される。だが、その印象自体、日本特有のものであり、法治国家としてはあり得ないことである。
実際、憲法を読めば本来は「国民主権」の意味や、その行使の方法がわかるはずなのだ。多くの記事で引用しているように、日本国憲法は平易な文体で書かれており、中学生以上の国語力を持っていれば、誰でも理解できる。特に、日本国憲法の前文や第1条、第12条、第14条、第15条、第16条などは、主権者としての行動原理を明快に示している。
だが、それでも、「国民主権の具体例リスト」というものを作るべきではないかと、最近、感じている。これは、本来、他国の人――例えば、EU圏の市民――が聞いたら、絶句して、「それって必要?憲法読めば、わかるでしょ」と思うような営みである。
そもそも、なぜ日本では、憲法に明快に示された主権者としての行動原理が読み取られず、行動にも反映されないのか。それは、次のような構造があるためである。
第1章 日本では、なぜ「国民主権の具体例リスト」が必要になるのか?
第1節 抽象理解のまま教育が止まっている
多くの人々は、学校教育――社会科・公民等――で、「国民主権=国民が主役です」という説明だけ聞いて終わりになったのではなかったか。だが、ここには欠落がある。「では、その国民主権をどう行使するか」が語られないのである。そのため、多くの人々は、国民主権の行使方法として「選挙に行く」以外の行動が見えず、そこで思考停止する。
第2節 「主権者としての責任」の教育がない
次に、「自由はあるけど責任は?」という問いが、学校でも家庭でもほとんど問われない。そして、国民の多くが、主権を「抽象的権利」ではなく、「行使すべき義務」として認識できていない。これは主権者教育が不在であることによる、国家の明らかな不作為である。しかも、その状態は非常に長い期間にわたって放置されてきた。この点において、日本は法治国家としての根本に欠陥を抱えており、国家として危機的な状況にあると言わざるを得ない。
第3節 生活と結びついていない
憲法教育不在のため、憲法と国民の日常が乖離している。そのため、多くの人々は、「それが自分の生活にどう影響するか」の具体的イメージが持てない。その結果、「自分が国を変える主体である」という実感が持てない。
第2章 他国なら「それ必要?読めばわかるでしょ」となる理由
筆者が提示しようとしている「国民主権の具体例リスト」について、もしドイツの人々に「実はこういう試みを考えている」と言ったら、どういう反応が返ってくるか。
例えば、ドイツでは、学校教育で具体的事例を通して、主権者行動を実践的に学ぶため、次のような反応になるであろう。
「え?それって当たり前じゃない?そんなリストが必要って、何も学んでこなかったの?」
例えば、
* 環境政策への意見書を担当行政機関に出す
* 少数派の権利を守るために地方議会に声を上げる
* 教育改革にパブリックコメントを送る
* 政策提案を草案レベルで提出する
といった行動は、「常識的な市民行動」として体得されている。
これらは、小学校から高校までの段階を踏んだ包括的憲法・主権者教育によって行われている。単なる座学に留まらず、具体的ケースを想定した実践的なものである。だから、ドイツでは、ドイツ基本法と市民の精神的距離は近く、専門家だけでなく、市民も、「これは基本法に適っているか」「これは基本法のこれに抵触しているのではないか」という思考を、ごくふつうに行うし、必要なら専門家と市民の連携もなされる。専門家と市民の役割分担はあるが、判断の放棄はしない。少なくとも、日本のように「むずかしいことはわからないので、専門家に任せます」と言って、社会問題に、全く無関心を決め込むという発想はない。そういう発想は、国としても、市民としても未熟とみなされるだろう。
第3章 それでも日本では「リスト化」は意味がある
だが、それでも、リスト化は必要で、意味があると、筆者は考える。「民主主義と立憲主義がまだ定着していない社会においては、“当たり前”を丁寧に言語化する必要がある」ためである。
「憲法を読めばわかる」と他国で言われるようなことを、あえて可視化するリストを作ることで、学びと自覚の入口を作れるからだ。
そしてそれは、こうした効果を持つだろう。
* 「あ、これも国民主権の行使なのか」と思える人が増える
* 「こんなことしていいんだ」と実感し、声を上げやすくなる
* 「自分にもできることがある」と、無力感から脱却できる
結論 自明であるべきことほど、今は言語化する必要がある
「国民主権の具体例リスト」というものを作るべきではないのかという筆者の問いは、「常識を言語化する」という成熟国家への“橋渡し”の発想に基づくものだ。これは単なる啓蒙ではなく、文化的な変革の種を撒く行為でもある。稿を改めて、具体例リストを提示するが、どうか一人でも多くの人が、消費者・被支配者の発想から抜け出し、真に主権者としての自己認識を抱き、行動する市民となることを願う。
・主権者とは?
読者へのお願い
どうか皆さん、日本国憲法を読んでください。私が所持し、座右に置いている童話屋発行の日本国憲法は、文庫本の大きさで、厚さは0.3mmしかありません。どこにでも持ち運びができます。ここに、読みやすい字の大きさで、憲法全文全てが入っています。
特に、前文と第二・三・十章をお読みください。第三章は、国民生活に関わる全てがあり、とりあえずここだけ熟読しておくだけで大丈夫です。
なお、「教会での人権侵害」第3章第3節4で述べた、人権侵害を指摘・報告する文書の作成・送付は、第16条(請願の権利)の行使によるものです。これを行うのに、特別な資格は不要です。法律条文がわからなければ、AIに教えてもらい、自分で確認すれば、良いのです。
憲法は、政治家だけのものではありません。むしろ、本来は権力を縛るという点で、国民のものなのです。これを読めば、誰にでも“社会を変える力”が芽生えます。
※以下のマガジンに以前の記事があります。
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