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新婚旅行でアフリカ最高峰キリマンジャロ登頂を目指してみた 〜人生、酸素があればなんとかなる!


新婚旅行はアフリカに行ってキリマンジャロに登ろう。

そう言い出したのは妻の奏(かなで)である。

奏は2歳から4歳までの幼少期をアフリカのタンザニアで過ごしている。お父さんの肩に乗せられ、雪を頂き大きな虹を背負ったキリマンジャロを見上げていた風景が最も古い記憶だというのだから、これはもう第二の故郷と言ってしまったって決して大げさではない。

だから、新婚旅行の行き先としてこれほど相応しい場所はないと思われた。ただ、なぜキリマンジャロにも登ろうと言いだしたのか。

今となってはどれほどの本気度でそれを口にしたのか本人も覚えていないようだが、おそらくは気分よく酔っている時に言い放ったような気がする。

しかし、一瞬だけ、ふわっと居酒屋の宙に浮いたシャボン玉のようにはかない彼女の心意気を、この私が見逃すわけがなかった。奏とは一度だけ一緒に山に行ったことがあった。北穂高岳(3106m)の険しい道のりを飄々(ひょうひょう)と登る姿を見て、「この人なら、人生の山にも登れるぞ」と、結婚を決意した私である。


「キリマンジャロに登る」と口で言うのは簡単だが、標高は5895メートルもある。その高さへの到達が容易ではないと想像がつく。私自身も山登りが趣味というわけではない。若い頃に上高地周辺をいくつか登ったくらいだ。当然のことながら我々にはそれなりの準備が必要だった。体力づくりをしなければならないし、何より高山病への対策は絶対に不可欠だった。

酸素が薄くなると、まずは軽い症状として頭痛や吐き気を覚える。人によっては2500メートル付近でこの症状が出る人もいる。6000メートルを越えると、酸素は地上の半分になるといわれている。高山病の症状がひどくなると肺水腫の危険もあり、命を落とすこともあるのだ。以前、女子テニスの元名選手、マルチナ・ナブラチロワがキリマンジャロで肺水腫になりナイロビの病院まで空路搬送されたこともあった。だから決して侮れない。

我々のトレーニングは筑波山(877m)からはじめ、その後、きっちり3週間ごとに西穂高岳(2907m)、富士山(3776m)と徐々に高度を上げ、コンディションを整えていった。

アフリカに向かうエミレーツ機の窓から雲を眺める奏の横顔からは、自信と不安の濃淡が読み取れた。「やるだけのことはやった」という自信と、「それでも登れるのだろうか」という不安。まるで、最終調整を終えてオリンピックの開催地に向かうアスリートのような心境だろうか。これが新婚旅行だというのだから、なんだか笑いがこみあげてくる。


まずはアフリカの空気に馴染みながら、サファリリゾートで英気を十分に養うというのが我々の作戦であった。

8月7日朝、さっそくランドクルーザーでセレンゲティ国立公園を目指した。ここはケニアのマサイ・マラ国立公園と並んで世界的に有名なサファリのメッカだ。6時間くらいの道のりだった。国立公園に入ると、いきなり窓の外を巨大なゾウが通過していった。聞きしに勝る大迫力である。続いて、10頭くらいのキリンの群れがノソノソと横を通過していく。

まるで、映画『ジュラシック・パーク』の世界に迷い込んだような気になった。シマウマやバッファローの群れが目の前の草原を走り、ガゼルが身軽に道を横切っていく。地平線まで続く大平原のパノラマに、ふたりとも大いに興奮した。

途中、マサイ族の村も通過する。今どきのマサイは携帯電話を片手にナイキのスニーカーをはいていたりもするが、赤い服に身を包み、眼光鋭い表情で砂ぼこりの舞う長い道を黙々と歩いていく姿は、やはり想像していた通りのマサイ族の出で立ちだった。そういえば、結婚披露宴の「生い立ち紹介」で、2歳の奏がマサイ族に抱っこされている写真が投影されて、会場がどよめいたことを思い出す。


セレンゲティ国立公園の中心地であるセルネロに近づくと、ランドクルーザーの屋根を開け、そこから顔を出して周囲を観察する。そこには、大草原にアカシアの木々が点在し、様々な種類の動物の群れが草を食んでいるという、まさに清く正しいアフリカの風景が広がっていた。雲間から光が差し、ゾウの群れがシルエットとなって草原に浮かび上がる姿はとても幻想的だった。 


しかし、人間の慣れとは恐ろしいもので、最初はあんなに興奮していた目の前の動物たちが次第にフツーに感じられるようになってくるから不思議だ。いつしか奏は、「ゾウとキリンはもうたくさん見たから、ライオンが見たい。チーターやヒョウが見たい」とあからさまに口にするようになった。


8月8日は我々の入籍記念日である。1年前のその日、東京都中央区の区役所へ婚姻届を出したのだった。そんな記念すべき爽やかな朝なのに、なぜだか突然、私の鼻血が止まらなくなって、大笑いする奏を横目にしばし途方に暮れた。空気が乾燥していたのだと思う。


気を取り直してサファリに出かける。ガイドのニジェル青年はなかなか優秀な人物で、他のガイド仲間としきりに情報を交換し合っては、有力な目撃情報をつかむと、すかさずその場へ車を走らせてくれた。

目の前で口のまわりを血だらけにしてシマウマを食いちぎる雌ライオン、取った獲物ガゼルをご満悦そう木の上へ運ぶヒョウ、遠くの叢(くさむら)から慎重に周囲を伺うチーターの親子、池を埋め尽くす夥しい数のカバ、ランドクルーザーを取り囲む20頭以上のライオン・・、など。次々とお目当ての動物たちに出会うことができたのはラッキーだった。


最後に出会うことができたのが、雄ライオンだった。鬣(たてがみ)に包まれた顔は凛としていて、勇ましく迫力がある。と、人間の目には映るのだが、大きな木の下で必死に雌を口説く彼は、聞いたらこちらが恥ずかしくなるほど甘い言葉を投げかけていたに違いない。

ちょうどこの時期は、年に数日間しかないライオンの発情期なのだという。ガイドのニジェルは、「あの雰囲気だと、そろそろ交尾がはじまるぜ」と俳優エディー・マーフィーのような横顔でニヤリと笑ってつぶやいた。


新婚旅行でライオンの交尾を目撃できるだなんて、にわかに照れくさい話ではあるが、この上なくラッキーなことに違いないと確信し、我々はまさに固唾をのんで事の成り行きを見守った。

30分は経過しただろうか。彼らの距離はぐっと縮まってきている。頬ずりなんぞをしながら、トロンとした目で見つめ合ったりしている。その時は近づいているように思われた。しかし、先にしびれを切らしたのは、事もあろうか、当事者ではない奏だった。

「トイレに行きたい」

振り絞るような声で衝撃的な告白をしたのだった。朝、2杯目のコーヒーが余計だったのだという。

それから数分、私は遠くのライオンカップルと近くの奏を交互にくまなく観察し、ジリジリとした思いで重大な決断に迫られたわけだが、ついに奏の限界が近いとお見受けし、その場を離れることになったのだった。私が雄ライオンに感情移入していたわけでもないだろうが、随分と残念な気がした。


我々のランドクルーザーは砂ぼこりを巻き上げ、猛スピードでロッジを目指して疾走しはじめたのだが、大草原の彼方までを見渡しても建物の姿かたちを見ることはできない。「15分はかかるぜ」。バックミラー越しに語るニジェルの表情は硬い。隣の奏の表情はもっと硬い。車内に緊迫した空気が流れた。


「プリーズ・ストップ・ザ・カー」

意を決した奏の言葉は意外にもたどたどしい英語だった。ニジェルは車を急停車させた。「ここでします・・」。急に恥ずかしくなったのか、奏の言葉は、か細い日本語に変わっていた。もう我慢しなくてよいと思ったのか、どこか安堵の表情も読み取れた。

さて、ここはアフリカのサバンナである。どこまでも続く草原の空は高く、そよ風は爽やかに吹き、雲はゆっくりと流れていた。長く細い1本道に1台のランドクルーザーが止まっている。当面の問題は大きく2つあった。奏が屋外で用を足す姿はどこからでも見えてしまうということ。そして、いつライオンやハイエナが来てもおかしくないということ。

名ガイドのニジェルが出した答えは冷静だった。車の後部外側に備え付けてある予備タイヤの下にしゃがめば車内の男性陣からは見えないし、運転席からはバックミラーも駆使して360度を見張ることができ、危険な動物の接近も監視できるというものだった。奏は説明もそこそこに聞いて、いそいそと車を降りて行った。

ここで奏は決定的なミスをしてしまうのだが、そのことには触れない。人間どもの悲喜こもごもには全く興味のない様子で、アフリカの雲は相変わらず、ゆっくりゆっくりと流れていた。そんな記念日だった。


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翌朝、我々は少しばかり緊張した心持で、キリマンジャロの登山口で静かに入念なストレッチをしていた。ついに我々の挑戦がはじまるのである。

現地のコーディネーターが入山に必要な手続きを済ませると、ほどなくして、1人の男が近づいてきて我々に握手を求めた。ジェームスと名乗った。40代の後半くらいだろうか。6日間の登山に同行してくれるチーフガイドである。見るからに実直そうな人物だ。

ひと通りの挨拶を済ませると、我々は靴紐を締め、装備を点検して、ストックを手にし、さっそく山へと入って行った。

そこはキリマンジャロ登山で最もポピュラーなコースであるマラングルートの入り口で、標高は1800メートル程度。周囲は熱帯のジャングルである。バナナのような葉っぱの木が生い茂り、樹木は20メートル以上の高さがある。時おり、頭上でサルが嬉々とした姿を見せた。

よく整備された赤土の道を、一歩一歩、ゆっくりと登っていく。ガイドのジェームスによると、とにかくペースを乱さずゆっくり登っていくことが高山病の予防となり、それが登頂できる秘訣なのだという。彼は見た目だけでなく、実際にも厳格な教師を思わせるような性格の持ち主だった。これまで、70回以上もキリマンジャロの頂を踏んでいるという。そんな彼の言葉を疑うわけもなく、我々は地道な一歩を着実に繰り出していったのだった。

4時間ほど歩いて、標高2700メートルのマンダラ・ハットという森の中のキャンプ地にたどりついた。4人用のコテージに案内されると、我々の衣服や寝袋、飲料水などがすでに運び込まれていた。

実は、我々ふたりだけのために登山をサポートしてくれるスタッフは全部で7人もいる。専属のガイドやコックだけでなく、6日分の食料や水を運ぶとなるとそれくらいの人数が必要となるのだ。まさに「チーム楓間」である。


夕方、各登山隊のコックが夕食の準備をしているテントの調理場をのぞきに行くと、限られた設備の中で、驚くほど効率的に料理を進めていた。食事は食堂に用意される。

それぞれのテーブルにカラフルな色のテーブルクロスがかけられており、これから毎日、同じテーブルクロスを目印に席に着くわけである。食事は、スープやサラダ、炒めものなど、山の上とは思えないほど美味しいものだった。

30人ほどが入れる食堂の中には、様々な国の言語が飛び交っている。ドイツ人が特に多く、中高年の登山隊はいつもビールを片手に陽気に歌っていた。アメリカ、カナダ、フランスあたりから来ている人も多いようだった。我々とコテージが同部屋の登山者も素敵なフランス人のカップルだった。


翌日は6時間ほどかけて標高3800メートルのホロンボ・ハットを目指す。歩き始めるとすぐに、高い樹木は姿を消した。腰の高さほどの灌木が広がる草原の、なだらかな道を登っていく。途中、自分の背丈くらいもあろうかという大きな荷物を肩に乗せたポーターたちが、ものすごいスピードで我々を追い越していく。歌いながら登っている人も多く、とにかくみんな陽気で明るい。

キリマンジャロという山はとにかく裾野が大きい。だから富士山のように急ではなくなだらかな道をゆっくりと登っていけるのはありがたかった。ホロンボ・ハットは標高が3800メートルだからちょうど富士山の頂上と同じ高さとなり、いよいよ高山病の恐怖が頭をちらつきはじめる。富士山の頂上では軽い頭痛を覚えてバファリンを飲んだ。奏も同じだった。

我々は事前トレーニングの高度順応のほかに「ダイアモックス」という切り札も手に入れていた。予防薬としてすでに服用を始めていたし、実際に症状が出た時には治療薬としても活躍する。どうやら、どの国の登山者もこのダイアモックスを服用しているようだった。


3日目となるこの日は高度順応にあて、ゆっくり小屋で過ごした。昼前に4000メートル付近のゼブラ・ロックまでゆっくり往復したが、体調はよかった。奏はすっかりジェームスに気に入られたようで、スワヒリ語の歌をたくさん教わっては、楽しそうに歌っていた。なかには、「ほんとは誰にも教えちゃいけない秘密の歌」という謎めいたものまであった。

しかし、よくよく考えてみると、奏はキリマンジャロの麓のモシという町で育ったわけだし、「モシの一族に伝わる秘密の歌」を継承する資格を有していたのかもしれない。そういえば、奏と付き合い始めた当初から、酔って気分がいいと「ジャンボ、ジャンボ」と満面の笑みで路上を飛び跳ねながら歌う謎の光景をよく目にしていたが、それこそがタンザニアで最も親しまれている歌だと知った。


4日目。まずは標高4700メートルのキボ・ハットを目指す。ホロンボ・ハットの周辺にはサボテンのようなセネシオやロベリアが生えていて、その姿には愛嬌もあったが、次第に植物は消えていき、砂と石ころだけの荒涼な砂漠のような景色となる。正面にはキボ峰の雄姿を仰ぎ見られるはずだったが、残念ながら雲に覆われていた。どこまでも続く一本道をゆっくりと進んでいった。


キボ・ハットに着いたのは15時くらいだったか。雲が厚く、雨でも降りそうな天気だった。風も強く、ただでさえ荒涼とした景色の中で、厳しい自然環境が醸す寂寥感のような雰囲気をより一層強くしていた。

ここはコテージではなく、大部屋に2段ベッドが並んでいるつくりだ。仮眠している人も多く、昨日まで山小屋に響いていた笑い声や歌声はなく、皆、深夜の山頂アタックに向けて静かに来るべき時を待っているようだった。

私と奏のベッドは数メートル離れていた。さっそく我々も仮眠した。睡眠中は呼吸が浅くなるため、高山病の症状が出やすいという人もいるが、少しでも体を休めて体力を回復しておきたかった。夕食時に目を覚ましたときも、幸い、ふたりとも頭痛や吐き気などの症状はなかった。

夕食後にまた仮眠し、23時頃にガイドが起こしにきた。体調は悪くない。奏も珍しく神妙な表情をしていた。外はどれほどの寒さかと不安だったが、トイレに行くため外に出てみると、それほどでもなかった。月も出ていて明るかった。少し安心した。なんだ、こんなものかと思ったほどだ。同じ部屋の、カナダ人、アメリカ人、ドイツ人、スウェーデン人などのパーティーが続々と起きだして準備を進める中、我々も入念に装備を確認し、気持ちを落ち着けるためにまずはゆっくりと紅茶を飲んだ。

ヒートテック、フリース、ダウンジャケット、スノボ用のグローブ、ニットキャップ、ネックウォーマー・・。抜かりなく寒さ対策をし、いよいよ月明かりの中を出発した。山頂アタックにはサブガイドのグラキ青年も同行する。先頭にジェームス、続いて、奏、私、グラキの順。すでに先行する隊が山道に取り付いており、ヘッドライトの列が幻想的だった。


これまでとは一変し、かなり急こう配な山道に、まずはたじろぐ。酸素が薄く、呼吸が荒くなる中、火山灰の歩きにくい砂地にイライラする。そんな道をひたすらジグザグに登っていく。驚くことに、ドイツ中年合唱団は相変わらず陽気に歌っており、その強靭な精神と体力に敬服し、少し呆れた。

悪戦苦闘は続いていた。歩幅を小さくし、地道に進んでいくものの、2、3歩進んではストックに体重をあずけて呼吸を整えるということを繰り返した。目の前にそびえる暗黒の高い壁は、いくら登っても高い壁のままだ。いつしか月明かりも消えて真の暗闇となり、風の音に怯え、次第に厳しくなる寒さに、文字通り震えた。このつらい道のりに終わりはあるのだろうかと、しばし途方に暮れた。

奏は実に淡々と登っているように見えたが、実は心を完全に「無」にしていたのだった。実際に、何度か名前を呼んでも全く気づかない時間帯があった。

日頃から彼女の集中力はもの凄い。レースを編み始めたら2時間ずっと同じ姿勢で編み続けていたこともあったし、ひとたび餃子を作り始めたらそれが楽しくて仕方なかったのか、気づいたらとんでもない量の餃子ができていたりする。大学受験の際にも、集中しはじめたところで話しかけられるのが嫌だという理由で早々に予備校を辞め、いわば独学で第一志望の大学に受かったのだ。

その奏が、全身全霊の集中力を持ってして、何も考えず、あらゆる感情を排除し、完全に心を無にして歩き続けていたのだ。彼女にとっても終わりの見えない戦いがそこにあったのだ。


空が白み始めてきたころ、ようやく高い壁の終わりが見えた。岩場の傾斜はいよいよきつく、もうろうとする意識と緩慢な動作でズリズリと高度を上げていった。標高5690メートルのギルマンズ・ポイントという尾根に辿り着いたのは6時前くらいだった。ちょうど日が昇る直前だった。風が強く、とにかく寒かった。

首の寒さをどうにか調節したかったし、テルモスの熱い紅茶も飲みたかったが、そんな気力もなくへたりこんだ。富士山と同じように、このギルマンズ・ポイントから火口の外周をさらに歩かなければ、本当の頂にはたどり着けない。山の形から考えても、ここはもう立派な頂上だ。実際に登頂証明書ももらえる。もうここでも十分なのではないかと思ったりもしたが、やはりきちんと頂上を目指したい気持ちもあった。

ジェームスに「頂上までどれくらいか」と聞くと、「もうすぐそこだ」と口を濁す。もう尾根の上には来たのだから、さっきまでの険しい登りもないだろうと期待もし、「とにかく行けるところまで行ってみよう」と重い腰を上げた。


頂上までの標高差は200メートルあり、ダラダラとした登りが続いた。立ち止まって日の出を見た記憶はない。いつの間にか、背中に陽があたるようになっていたが、相変わらず寒くて仕方なかった。記憶も断片的だ。

下から見上げて、登り道の行く先が見えなくなるたびに、ジェームスは「あれが頂上だ。もうすぐだ」と言ったが、そこまで行くとまた次の登り道が見えてくる。そんなことを4、5回繰り返した。

後から考えれば、ああいう言い方をされていなかったら我々は途中で引き返していたに違いない。頂上から下ってくる人は口々に"almost there, almost there"と励ましてくれた。

突然、視界の左側に高さ20メートルくらいの巨大な氷の壁が見えてきた。頂上付近の氷河だ。朝日を浴びて物凄い色に輝いていた。先ほどまでの絶望的な暗闇と険しい登り道を思うと、その輝きは、力強さであり、優しさであり、文字通りの明るさだった。暗闇と光の対称は、過酷な登山のクライマックスにはこの上ない演出だった。


足元は一面、前日の雪で真っ白だった。人だかりが見えた。頂上を示す、木の標(しるべ)も見えてきた。構想から1年。トレーニングにも時間を費やしてきた。ふたりの思い入れが大きかった分、常に不安もあった。

何より、この数時間の登りがきつかった。思いがけず、ポロポロと涙が出た。隣では奏も泣いていた。大粒の涙が彼女の頬を伝っては、足元の雪に消えた。そうして、ついに我々は5895メートルの頂に立ったのだった。

私は気力も体力も限界に近かったのだと思う。「写真を撮ろう」という奏に「そんなのはいいよ」と言った。薄い酸素と疲労とで、しっかりした思考はすでになかったように思う。説得されて撮った1枚は、本当に貴重なものとなった。


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帰路は2日間で一気に山を下り、滑稽なことに、我々ふたりを迎えに来た車はランドクルーザーではなく、20人は乗れるくらいのマイクロバスだった。

実は我々にはもうひとつのプロジェクトが残されていた。キリマンジャロの麓、コーヒーの産地として世界的に知られるモシの町で20年前に奏の家族が住んでいた家を探し出すのだ。

当時も郵便物は私書箱に届いていたので、住所というのは無きに等しい。当時、徒歩で近くのインターナショナル・スクールに通っていた奏の兄・誠くんの記憶だけが頼りだった。グーグルアースで拡大した地図に、候補と思われる家は2つに絞られていた。運転手に英語で一通りの目的を説明し、地図の候補地を見せると、「あー、そこ行けばいいのね」という具合にバスを走らせた。

1つ目の目的地に着くと、「まあ、この辺かな」とでも言いたげにバスを止めた。どうもやる気が感じられない。そこで、3歳の奏が家の前で撮った20年前の写真を運転手に見せた。すると、ようやく彼は趣旨を理解したようで、急に目を輝かせてやる気光線を出し始めた。


人が通る度に窓から顔を出して写真を見せ、スワヒリ語で何やら嬉しそうにまくしたてる。「ここに写っている少女がそこに座っているレディなのさ。で、この家を探してるんだ」とでも言っていたのだろう。なぜだか関係ない人までバスに乗り込んできたり、途中で降りる人がいたりして、にわかに車内は活気づいた。

次の候補地に辿り着いたが、どうも家の形が違う。1ブロック先のまた別の場所に着いて車を降り、近くの家と写真を入念に見比べてみるが、やはりない。すでに建て替えられている可能性もある。すると、積極果敢人間に生まれ変わった運転手は、人の家にまで入っていき聞き込みを始めた。すると、8歳くらいのタンザニア人少年が「ぼくにまかせておけ」とでも言いながらバスに乗り込んできた。

期待に満ちたバスが少年の言う場所に急行したが、やはり違った。その家は形が似てさえもいない。「出た。少年特有の出しゃばりだ」と私は思った。少年はバツが悪そうにぶつぶつ言い訳を口にしていた。

すると、「今度こそ思い出した」と声を張り上げる。その時すでに少年の信用は急速に低下しつつあったので、奏と顔を合わせて「どーする?」と聞いてみる。何せ6日間も風呂に入っていないのだ。早くホテルに行って、真っ先にシャワーを浴びたい気持ちが強かった。しかし、いじらしく再度のチャンスを求める少年の言うことを信じることにした。

あきらめに近い気持ちもあったが、ついにその家は見つかった。今や同じレベルのやる気を共有している少年と運転手は粋なハイタッチを繰り返した。屋根の色は塗り替えられていたが、姿かたちは全く同じだった。アフリカにおけるかつての日本人駐在員の家は大きくて立派だった。当時は植えられたばかりだった木が20年分の成長をし、門や壁が新たに立派な構えとなっていた。

外から写真を撮るだけで十分だと思っていたのだが、もはや運転手のやる気は誰にも止められない。クラクションを鳴らしまくると、やがて門が空いた。使用人らしき人物に事情を説明していると金髪の凛々しい少年が2人、家から出てきた。その家に住む小学3年生と、彼の親友だった。アメリカ人だという。

聞けば、誠くんと同じインターナショナル・スクールに通っているのだという。誠くんの後輩なのだ。20年前の写真と今は大人の奏を指さして説明すると、少年たちも興奮気味に「スゲー、スゲー」と喚いていた。その横で、家探しに一役買ったタンザニア人少年も誇らしげに笑っていた。

その場にいる全員が笑っていた。旅先で出会った素敵な人たちとの、この上なく幸せな時間だった。



今でもキリマンジャロの登山を思い出すと、最も苦しかった最後の山頂アタックが甦る。暗黒の高い壁と、朝日を浴びて輝く氷の、あの劇的な変化が印象深い。

あの時、巨大な氷の壁は何色に輝いていたのか。私はずっとオレンジ色だと思い込んでいた。今になって奏にも聞いてみると、遠くを見る目で思い出しながら「あれはオレンジ色だった」と同じことを言う。しかし、山頂付近の写真を何枚か見てみると、氷は、青白く透き通っている。

もしかするとそれは、終わりの見えない夜に打ちのめされながらも高みを目指して歩き続けた我々の、胸のうちに灯る心意気の色であったのかもしれない。

夫婦で歩むこれから先の長い長い人生も、酸素と心意気さえあればなんとかなると、ふたりしてけっこう本気で思っている。



※note記事#43

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