日本人の物語00719【鎌倉後期】尊治親王の立太子
大覚寺統は、自らの陣営から皇太子を出せると知って大いに喜びました。
本来ならば、後二条天皇の遺児・邦良親王(くによししんのう:1300~1326)が立太子するのが自然のなりゆきのはずでした。しかし邦良親王は病弱だったため、後二条天皇の弟に当たる尊治親王(たかはるしんのう:後の後醍醐天皇:1288~1339)が立太子することに決まりました。
ここで、強い個性で南北朝時代を振り回した後醍醐天皇が初登場しました。この人物のエキセントリックな人間性については、後ほどじっくりと説明していきたいと思いますが、この尊治親王の親王宣下や立太子については、少々変わった経緯がありますので、まずはその話をしておきましょう。
尊治が親王となったのは正安4(1302)年6月16日のことでした。
尊治の兄(後の後二条天皇)は、誕生の翌年に親王宣下を受けているのに、尊治には親王宣下の話がなかなかやって来ませんでした。母の五辻忠子(いつつじただこ:1268~1319)は夫の後宇多天皇に嘆願しますが、なかなか聞き入れてもらえません。
この時代、大覚寺統の全権を掌握していたのは後宇多天皇の父に当たる亀山上皇でした。そこで忠子は、尊治を連れて亀山上皇の元へ嘆願に行きます。そこで亀山上皇は忠子を気に入ってしまい、なんと息子である後宇多天皇と離縁させて、自分の妻にしてしまうのです。
亀山上皇の下で養育されることになった尊治は、亀山上皇の手により親王となることが許され、15歳でようやく親王宣下を受けることができました。ある意味、忠子は息子を即位させるために舅に取り入ったわけで、あまりに露骨なやり口に思えます。
ところが、忠子と尊治親王にとって次なる試練が襲い掛かります。乾元2(1303)年5月9日、53歳の亀山上皇とその寵姫・西園寺瑛子(さいおんじあきらこ:1273~1336)との間に、恒明親王(つねあきしんのう:1303~1351)が産まれてしまったのです。「年をとってからできた子はかわいい」といいますが、亀山上皇もそう感じたらしく、
「次の皇太子は恒明親王とする」
と言い出し、忠子をやきもきさせました。
しかし、運命は忠子に味方しました。その亀山上皇が嘉元3(1305)年に崩御し、恒明親王の後ろ盾がいなくなったのです。瑛子の兄に当たる西園寺公衡は、恒明親王を皇太子にしようと必死に工作しましたが失敗し、結局、後二条天皇の決定により皇太子は尊治親王に決まったのです。
後醍醐天皇といえば、そのあまりのアクの強さで知られていますが、その性格は母譲りだったのかもしれません。
