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日本人の物語01272【室町/義満期】准母問題 時子の前例

「朝型に切り替えたいなあ」と思っており、今後朝6時くらいにアップする日が増えるかもしれません。もし全然そうならなかったら、「ああ、朝型に切り替えられなかったんだな」と笑ってください。

 前述のとおり、応永13(1406)年12月27日、三条厳子が死去した直後に裏松康子への准三后・准母の宣下がなされました。その翌々日に当たる12月29日の義満と権中納言・広橋兼宣(ひろはしかねのぶ:1366~1429)との会話が、伝聞という形式で一条経嗣の日記『荒暦』に記録されています。
義満「平相国禅門(平清盛)の妻である八条二位(平時子)は准三后に宣下されなかったのだろうか。平家物語でも単に『八条二位』と呼ばれているようだが、どういうことだろう」
兼宣「確かに不審でございます」
 これはどういうことかというと、平清盛とその妻・時子は夫婦そろって准三后の宣下を受けています。そして義満はかねてより准三后であり、このたびその妻・康子が准三后となったので、平清盛・時子夫妻と同様の状況が生じたのです。平家のその後の運命を思うに、これは非常に不吉な状況です。
 義満は、もし時子が准三后に宣下されているのなら、この不吉を逆手にとって「この不吉な状況を打破せよ」=「自分に准三后より上の何らかの立場を与えよ」=「自分を太上天皇にせよ」との理由付けができるだろうと見込んで、こうした質問をしたようです。
 この義満の意図を理解した広橋兼宣は、応永14(1407)年1月4日、関白・一条経嗣を訪ねて次のような会話を交わしました。
兼宣「清盛夫妻が共に准三后の宣下を受けていることは紛れもない事実ですが、私はそのことを北山殿に伝えませんでした。その後、前大納言(坊城俊任)と会って相談し、『時子が准三后であったことは、決して北山殿には伝えてはなりませんぞ』と口止めをしました」
経嗣「(裏松康子を)准三后に宣下するのではなく、まずは従一位にすべきであった。あのときは気づかなかった。どうしたものか」
 公卿たちは義満を太上天皇に号することを避けるため、時子が准三后だったことを隠そうとしています。それほどに義満の一挙手一投足を恐れているようです。
 さて、義満が生前に自身の太上天皇宣下をも望んでいたことを示す状況証拠は他にもあります。准母問題が生じる1年半前の応永12(1405)年4月8日付けで、義満に仕える儒者・粟田口長方(あわたぐちながかた)から飛鳥井雅縁(あすかいまさより:1358~1428)に送られた書状が残されているのです。その書状にはこう書かれています。
「尊号の件は昨夜決着したのでしょうか。(略)私からは尊号は時期尚早なのでお待ちくださいと申し上げたところ、(来たるべき後円融院の十三回忌には)参加できないと仰せでした。式次第には(義満の役職を)『准三后』と載せようということになっています」
 つまり義満は「太上天皇になれないのなら、儀式をボイコットするぞ」と言い出したのを、皆で説得している様子が窺えるのです。わがままな主君と、苦労して諫言する公卿らの関係が実に生々しく見えてきます。

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