日本人の物語01073【南北朝中期】神南の戦い 戦闘開始
「神南」と書いて「こうない」と読みます。地元の人でもない限り読めないよなあ、と思って現在の地名を調べてみると「大阪府高槻市神内」となっており、読みやすく漢字が変化していました。
正平10/文和4(1355)年1月25日には河内にいた楠木正儀が男山に入り、京の南側の出口を押さえました。
一方、尊氏は近江国四十九院(滋賀県豊郷町)で北朝方に集結を呼びかけます。不思議なことに、形勢不利なはずの尊氏に土岐・佐々木・仁木義長といった武将たちが次々と集まり、2月4日時点で3万騎も集まりました。
焦ったのは義詮です。伯耆国の山名軍を殲滅せよとの指示を受け、7千騎を率いて播磨まで出向いたのに、結局山名勢の入京を防げなかったのですから。慌てて山陽道を上って京へと引き返します。
山名師義は義詮を迎え討つべく、山崎(京都府大山崎町)に陣を布きました。それを知った義詮は2月4日、神南(こうない:大阪府高槻市)に陣を布きます。
ここから、2つの戦いが平行して起こることとなります。
〇神南の戦い: 足利義詮・赤松則祐VS山名時氏・山名師義・楠木正儀
〇第六次京都合戦(文和東寺合戦とも呼ばれる): 足利尊氏VS足利直冬
先に神南の戦いから見ていくことにしましょう。
山名師義は、当初は山崎で敵を待ち構えようと考えていましたが、神南にいた義詮軍がさほどの大軍ではないことを知って、山を駆け降りて八幡にいた楠木軍と合流し、神南へと攻め寄せました。
北朝方の陣は3ヶ所に分かれており、
・西の尾根には赤松則祐、佐々木道誉ら2千騎
・南の尾根には細川頼之(ほそかわよりゆき:1329~1392)ら2千騎
・北の峰には義詮ら3千騎
が配置されていました。
戦闘は山名師義隊と赤松則祐隊との間で始まりました。山名師義ら2千騎が西の尾根へ駆け上り、どっと鬨の声を上げます。狭い場所に多くの兵がひしめき合って、互いに交わす矢は全て相手に命中するという混戦になりました。
赤松勢の後藤基明(ごとうもとあき:?~1355)という弓の使い手が、高い岩の上に登って大きな弓に矢を一杯に引き絞って放つと、山名勢は混乱に陥ります。勢いを得た佐々木勢からも次々と山名勢に斬りかかる者が現れました。
しかし山名師義は予想以上に戦上手でした。狭い地形を巧みに利用し、反撃に打って出ます。
