日本人の物語01584【室町/西国/応仁の乱】蓮如 寛正の法難*
法然、親鸞、日蓮と歴史上有名な僧の多くは迫害を受けていますね。
康正3(1457)年6月18日。蓮如が43歳のとき、父の存如が死去しました。ここで問題となったのが、大谷本願寺住持の座を誰が継ぐかです。本来ならば「譲り状」と称する遺言書を書いてから死去するのが当時の慣習だったのですが、存如は譲り状を書いていなかったのです。
蓮如の継母・如円はもちろん自らが産んだ子・応玄を擁立すべく画策し、存如の葬儀の全てを取り仕切らせました。
しかし、存如の末弟である如乗(にょじょう)が駆けつけ、一族に対して
「故人の遺志はあくまで蓮如への継承であった」
と説いて回り、蓮如の家督相続が認められました。怒った如円と応玄は本願寺の土蔵から金品を大量に持ち出してどこへともなく消えていきました。
本願寺を継いだ蓮如は、ようやく継母の虐待から自由になりました。
住持となった蓮如のエピソードとして有名なのは、叔父の妻に当たる勝如(しょうにょ)と絶縁したことでしょう。勝如がいつも様々な財物を本願寺に寄付してくることを蓮如はたしなめましたが、勝如はなかなかやめてくれません。やむなく蓮如は勝如と縁を切ったというのです。財物で極楽往生を買い取ろうとする姿勢が問題だというわけです。
本願寺が徐々に信徒を増やしていることに危機感を持った延暦寺は、寛正6(1465)年1月8日、本願寺と蓮如を「仏敵」と認定しました。さらに1月10日と3月21日の二度に渡って、延暦寺西塔の衆徒が本願寺を襲撃して建物を破却してしまいました。これを「寛正の法難」といいます。さらに応仁元(1467)年3月には、延暦寺が本願寺を「末寺」と位置付けて支配し、末寺銭を納めさせるようになりました。
49歳にして住居と布教の拠点を失った蓮如は、各地を転々としながら「御文」と称する念仏を書き留めたものを配りました。これが評判を呼び、日本全国で一向宗徒が劇的に増えていきました。
蓮如の旅は、まず金森(滋賀県守山市)、堅田(滋賀県大津市)、大津を転々とするものでしたが、堅田は応仁元(1467)年3月29日に延暦寺衆徒から襲撃を受け、堅田の一向宗徒は3年に渡って琵琶湖内の沖島(滋賀県近江八幡市)への逃亡を余儀なくされました。蓮如はさらに遠方へと亡命するほかありませんでした。
やがて蓮如は、文明3(1471)年4~7月頃に越前吉崎(福井県あわら市)に到着しました。
この吉崎を治める領主・大家吉久(おおいえよしひさ)は熱心な一向宗徒で、なんと一万坪を蓮如に寄進しました。この土地を得た蓮如は大々的な「吉崎御坊」を建設させ、そこで布教活動を進めていきました。これ以降、4年に渡って吉崎御坊が蓮如の布教活動の拠点となります。
蓮如は「御文」をかなり配りまくったらしく、全国に相当数残っています。


