日本人の物語01631【室町/西国/六角征伐】河野氏の内紛
何度か書いたことですが今回出てくる河野氏は河野と書いて「かわの」と読みます。「こうの」ではありません。四国では今も「かわの」が主流のようです。
続いて中国・四国を見ていきましょう。
中国の最有力大名である大内政弘は、前述のとおり文明9(1477)年11月に本拠である周防に帰国しました。政弘在京中に宿敵である少弐政資が周防に攻め込んできたため、政弘帰国後の初仕事はもちろん少弐退治でした。
文明10(1478)年8月末。大内政弘率いる軍は九州に渡海し、またたく間に豊前・筑前を制圧し、少弐政資はなす術もなく逃亡しました。満足した政弘は12月に周防に帰国しました。
翌文明11(1479)年には、四国伊予国でも戦乱がありました。この伊予の戦乱の原因はかなり前に遡ります。応永元(1394)年に守護・河野通義が26歳で急死した際、通義には間もなく子が産まれる予定があったので、
「産まれるのが男子なら、将来はその子に家督を返してくれ」
との条件の下に、弟の通之に守護職を継がせました。その後に男子・通久(みちひさ:?~1435)が誕生したため、通之は約束通り甥の通久に家督を譲りましたが、通之の子・通元(みちもと)がそれに不満を表明して通久・通元の従兄弟対立が発生しました。
その後時代は進み、
・通久の子の教通(のりみち:?~1500): 居城は湯築城(愛媛県松山市)
・通元の子の通春(みちはる:1421?~1482): 居城は港山城(愛媛県松山市)
の二人が対立する時代になりました。
1450年代、つまり畠山持国と細川勝元が交互に政権を担当していた頃は、教通が畠山派、通春が細川派として争っていました。しかし、何らかの理由で河野通春は細川勝元と険悪になり始め、応仁の乱が始まると通春は西軍に属するようになりました。一方の教通は、当初細川勝元と険悪だったため西軍に属していたはずが、これまた原因不明ながら遅くとも文明元(1469)年4月までには勝元と連携するようになって東軍方に乗り換えています。
その後も、東軍・教通と西軍・通春はたびたび争っていましたが、文明11(1479)年、内紛の混乱に紛れて阿波守護の細川之勝(ほそかわゆきかつ:後の細川義春:1468~1495)が軍勢を率いて伊予国に侵攻しました。細川之勝は当時12歳ですから、恐らく伊予侵攻を主導したのは之勝ではなく父の細川成之でしょう。伊予の内紛に乗じて領地を増やそうという魂胆と思われます。
これまで骨肉の争いを繰り広げていた教通と通春は、細川という外敵の出現をみて急遽手を結び、一致協力して細川軍を撃退しました。通春は西軍として討伐されることをかろうじて免れたのです。
なお、通春は文明14(1482)年閏7月14日に死去して子の通篤(みちあつ)が継ぎ、教通は明応9(1500)年1月20日に死去して子の通宣(みちのぶ:?~1519)が継ぎ、両者の冷戦状態は続くこととなります。
応仁の乱が終結した後も、地方では対立を引きずっている例があるようです。
