日本人の物語01669【室町/西国/六角征伐】千本の赤
これまた雑学として覚えておくと良い話です。日本で最初に確認できる被差別階層民の名前は「千本の赤」と「一本杉の松」です。
延徳2(1490)年3月。義政死去を機に徳政令を要求する土一揆が起こりました。この一揆は北野社(現在の北野天満宮)に立て籠もり、細川政元勢に鎮圧されましたが、戦乱によって北野社が焼失し、数十人の死者が出てしまいます。
死体を片付けなければなりませんが、この頃、死体の埋葬に係る仕事は「河原者」と呼ばれる被差別階層民が担っていました。河原者の歴史については多くの研究がなされていますがまだ分からないことも多く、主な仕事は「死体埋葬」「屠畜」「皮革加工」「井戸掘り」「造園」「芸能」などがあったといいます。芸能者は義満から、造園業者は義政から、それぞれ大いなる庇護を受けていたはずですが、その一方で多くの人から差別的な扱いを受けていたのです。
北野社は死体の片づけを一本杉の松(いっぽんすぎのまつ)と呼ばれる河原者に依頼しましたが、これに異議を唱えたのが千本の赤(せんぼんのあか)という別の河原者でした。千本の赤がいうには、
「寺の中での作業だから、肉食をしていない我々に任せてほしい。一本杉の者たちは肉食しており、この任にふさわしくない」
というのです。ちなみに、北野社の永禄3(1560)年の記録に
「死体を『しゃく』に処理させた」
という平仮名での記述があることから、読み方は「せんぼんのしゃく」かもしれません。
さて、千本という場所は現在も「千本通り」という通り名として使われていますが、この地域は室町時代には葬送地として使われ、死体埋葬に従事する河原者が多く居住していたようです。「千本の赤」はその中のリーダー格の人物だったと考えられます。
日本の歴史上、被差別民の個人名が登場する最初のケースであることから、「千本の赤」は多くの注目を集めることになりました。現在、千本通りには「ツラッティ千本」という京都市営の施設が建てられ、人権資料の展示施設として使われていますし、様々な職能を持った人たちが被差別民と位置付けられていた歴史を伝えるべく、『千本の赤』と題する絵本も作られました。
さて、延徳2(1490)年4月になって、日野富子は小川御所を政元に返還すると言い出しました。そもそも小川御所とは細川家の屋敷だったのを、義政が夫婦喧嘩を機に住み着いてしまい、そのまま細川家から譲り受けてしまったものでした。義政が死去した今、義政のわがままで奪ってしまった屋敷を元の持ち主に返したいというわけです。
ところが政元は、
「2代に渡って将軍御所だった館を、今更返していただくのはおそれおおい」
と言って辞退しました。富子は「それならば」と言って、4月27日に小川御所を清晃に与えました。この何気ない決定が、物議を醸すこととなります。
紹介しておきながら、「ツラッティ千本」にはまだ行けていません。行かねば。
