日本人の物語00879【建武期】叡山合戦 義貞の転戦
西坂本が攻め破られると、比叡山の各寺院は鐘を撞いて山頂の僧兵たちに異常を知らせました。
足利方の数万の兵の中から一人、
「我こそは備後国の住人、江田源八泰氏(えだげんぱちやすうじ:?~1336)」
と名乗り出てまっしぐらに上っていく者がありました。これを見て、山神定範(やまがみじょうはん:?~1336)という僧兵が立ちはだかり、火花を散らして斬り合いました。源八は長い坂を上ってからの戦いのため疲れが見えてきたところ、定範は長い刀で源八の兜が割れんばかりに叩きます。
源八が兜をかぶり直そうと上を向いたところに、定範は刀を捨てて組み合いました。二人が組み合っていると、その重みで崖が崩れ、二人はそのまま斜面を落ちていってしまいました。
鐘の音を聞いた僧兵たちが次々と駆け付けるとともに、東坂本を守っていた新田義貞が6千騎で西坂本に駆け付けて来ました。義貞の采配は見事なもので、魚鱗の構えをとって攻めかかっていくと足利方の20万騎の兵たちは次々と谷へ追い落とされ、深い谷二つが死人で埋まって平地のようになったといいます。
こうして西坂本の合戦は新田方の勝利に終わりました。
翌日になって、西坂本の攻撃を担当する高師久は、本軍に使いを出し
「主だった敵は皆こちらにやって来ました。急いで東坂本の方から攻め始めてください。東坂本が攻撃されると西坂本の敵たちは前後どちらに行けばよいのか混乱するはずです。そのときを見計らって西坂本からも攻め上ります」
と述べました。
これを聞いた足利方の将兵たちは、18万騎の大軍で東坂本から攻め寄せます。
東坂本の防御を担当する新田方は、脇屋義助率いる6万騎でした。足利方が堀の前までやって来たところで、新田方は突き出した塀の中から雨のごとく矢を射かけ、足利方に3千騎近くが死傷する大被害を与えました。足利方が手にした楯に隠れようとしたところに、塀の中から新田方6千騎が門を開いてまっしぐらに攻めてきました。足利方は大軍ではありますが、山と海に挟まれた狭い道で敵軍に攻めかかられ、逃げ惑うばかりでした。
このように、比叡山延暦寺はなかなか落ちない名城でした。山上への道はいずれも急坂である上に狭く、攻め上るのも退却するのも難しいのです。
