日本人の物語00878【建武期】叡山合戦 千種忠顕戦死
後醍醐天皇が再び比叡山に逃亡したというので、尊氏、直義らは東寺に集まって合戦の仕方について協議しました。
「放っておくと義貞の軍勢が膨らんでしまう。今のうちに攻めるべきだ」
ということになり、延元元/建武3(1336)年6月2日、50万騎の大軍を比叡山に送り込むこととなりました。
比叡山側では、これほどまでの大軍勢が押し寄せてくるとは予想しておらず、防御は不十分でした。このとき足利方の大軍が一挙に山頂まで攻め寄せれば、後醍醐天皇方はひとたまりもなかったでしょうが、急に霧が立ちこめて足利軍の行く手を遮り、進軍が困難になりました。結局この日は遠くから矢を交わすだけで戦いは終了しました。
6月7日。足利軍は敵の備えが東坂本に集中しており、西坂本の方は守りが手薄であることに気づき、西坂本を中心に攻めることを決めました。西坂本を攻撃する担当は、高師直の弟・高師久(こうのもろひさ:?~1336)です。
高師久は
「この合戦で一歩でも退いた者は、たとえそれまでに手柄があっても領地を没収する。逆に、一太刀でも敵に討ちかかって見事破った者は、侍でないなら侍に取り立て、家臣なら恩賞を与える」
と宣言しました。これにより、師久率いる軍勢は大いに士気を上げました。
高師久軍が西坂本から攻め上ると、これを防ごうと300騎で対峙した千種忠顕軍は次々と討たれていき、遂に雲母坂(きららざか:京都市左京区)で大将・千種忠顕も戦死してしまいました。ちなみに雲母坂といえば、iPhoneのユーザ辞書にデフォルト登録されていることで知られる地名です。
こうして結城親光、楠木正成に続き、後醍醐天皇に仕える「三木一草」の3人目があえなく戦死を遂げました。『太平記』では三木一草の他のメンバーについては、その死に様がかなり詳しく書かれているというのに、千種忠顕については
「千種宰相中将忠顕卿、(略)攻め上る敵に後をまとわれて、一人も残らず討たれてけり」
とあるだけで、ひどく呆気ない描写です。そもそも太平記は千種忠顕について「莫大な恩賞を得て、日夜酒宴に明け暮れた」などと低く評価していることから、どうでも良い捨てキャラだと思っていたのかもしれません。
千種忠顕が戦死した雲母坂とは、叡山電車の終着駅である八瀬比叡山口(やせひえいざんぐち)駅から700メートルほど登ったところで、現在そこに「千種忠顕卿戦死之碑」が建てられています。『太平記』ではこき下ろされている千種忠顕ですが、後醍醐天皇に殉じた人物ですから、明治時代になってから顕彰されたわけですね。
