日本人の物語01524【室町/東国/享徳の乱】足利政知下向
やっと堀越公方が登場しました。室町時代は「○○公方」と呼ばれる人がやたらと多いです。
細かい時期は不明ですが、新たな鎌倉公方候補として五十子の陣に送り込まれてきた成潤は、早い段階で病没したようです。恐らくその死去の知らせを受けてのことでしょうが、幕府は新たな鎌倉公方候補者を関東に下向させることとしました。
といっても、4代鎌倉公方・足利持氏の血縁者は他に見当たりません。そこで幕府は将軍義政の近縁者を選びます。8代将軍義政の庶兄で、天龍寺香厳院で僧となっていた足利政知(あしかがまさとも:1435~1491)です。
長禄元/享徳6(1457)年12月19日。政知は京を出発し、ひとまず園城寺(滋賀県大津市)に入りました。御供を務めるのは足利庶流の渋川義鏡と、新たに政知の執事を仰せつけられた犬懸上杉教朝です。犬懸上杉教朝は反逆者である禅秀の子ですが、出家して京にいたところを、たまたま義教に気に入られて「教」の名を与えられて還俗した身でした。
政知はなぜか園城寺で長期間を過ごし、なかなか関東に赴こうとしませんでしたが、それでも成氏方には大きな動揺が走りました。成氏が鎌倉公方の座を追われるとあっては、家臣たちもこのまま成氏についていってよいのか迷いが生じます。
長禄2/享徳7(1458)年閏1月11日。成氏は腹心の小山持政に長文の書状を送り、功績を称えつつ「兄弟の契りを結びたい」とまで述べています。政知派遣によって生じる諸将への動揺を抑えようとしたのでしょう。
事実、3月27日には将軍義政から岩松持国への御教書が発出されており、岩松を上杉方に寝返らせようという切り崩し作戦が始まっていたことが読み取れます。成氏の懸念は敵中したのです。
5月になって、政知はようやく東国にやって来ました。しかしなぜか鎌倉に入らず、5月25日に国清寺(静岡県伊豆の国市)に入ります。一旦関東の戦乱を間近で観察し、安全を慎重に見極めようと思ったのかもしれません。ちなみに物の本の中には「政知は激しい戦乱により鎌倉に入れなかった」と書いてあるものが散見されますが、実際には鎌倉で大きな戦乱が起きているという事実はありません。
政知の下向にあわせて岩松家への工作が進み、山内上杉房顕と長尾景仲が必死の説得が功を奏して、8月24日に岩松持国は上杉方となりました。政知の関東下向が効いたものと思われます。
しかし岩松持国の子・成兼(しげかね)はこの寝返りに納得しなかったらしく、長禄3/享徳8(1459)年2月、父の陣から出奔して成氏方に向かい、成氏家臣となりました。父子で敵味方に分かれてしまったのです。
政知がなぜ鎌倉に入らなかったのか、謎なんですよね。
