日本人の物語00635【鎌倉前期】承久の乱 完全降伏
承久3(1221)年6月15日。京に入った泰時のもとに後鳥羽上皇からの使者が院宣を持ってやって来ました。泰時が
「誰か院宣を読める者はいないか」
と尋ねると、藤田能国(ふじたよしくに)という御家人が名乗り出てこれを読んだといいますから、鎌倉幕府が創設されて30年以上が経過したこの時代でも、まだ読み書きのできる武士は少なかったようですね。
院宣の内容は驚くべきものでした。
「この度の合戦は、私の意志によって起こったものではない。謀臣が行ったものである。今後は鎌倉から申請された通りに全てを宣下することとし、武士を独自に召し抱えることもないようにする。洛中で狼藉を行わないよう武士たちを監督せよ」
あわせて上皇から、藤原秀康・三浦胤義への追討命令が下されました。
いやはや完全降伏といった内容ですが、これほど虫の良い話はありません。後鳥羽上皇は自ら戦を始めておきながら、トカゲの尻尾切りで済ませようとしているのです。院宣を読んだ泰時らの反応は伝わっていませんが、苦笑を禁じえなかったのではないでしょうか。
後鳥羽上皇の命で兵を挙げたのに、ほかならぬ後鳥羽上皇から追討命令を受けてしまった藤原秀康・三浦胤義・山田重忠らは、東寺(京都市南区)に立て籠もりました。それを取り囲んだのが三浦義村の軍勢です。
三浦胤義は兄の旗を見ると、死に場所を求めてその軍勢に斬りかかっていきました。兄の陣に向かって
「思い返せば何とも悔しいことだ。最後に姿を見せよ」
呼びかけたものの、義村は
「痴れ者に掛け合うても無益なり」
と言ってその場を立ち去ってしまいました。
三浦兄弟の性格は何とも対照的です。兄・義村は和田義盛を裏切り、実朝暗殺事件でも暗躍した謀略家なのに対し、弟・胤義は真面目で一本気な男だったのでしょう。
包囲軍とさんざんに斬り合い、深手を負った胤義は、西山木嶋(にしやまこのしま:京都市右京区太秦)まで逃げたところで自害しました。その地には、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)が建てられています。
一方、山田重忠も包囲軍を突破して落ち延びた先の嵯峨般若寺(京都市右京区)で自害し、藤原秀康も河内国において幕府軍に捕らえられ、処刑されました。
