日本人の物語00392【平安後期】悪左府頼長登場
大治4(1129)年7月7日。43年間に渡って院政を主導した白河法皇が、遂に崩御しました。76歳の長寿でした。ようやく白河院政が終わり、鳥羽院政が始まることとなります。
鳥羽上皇が最初に行ったことは人事の刷新でした。祖父・白河法皇への反感からでしょう。白河法皇が登用した多くの人材を放逐してしまったのです。
まず、白河法皇と良好な関係を築いていた藤原忠通を冷遇し、代わりに「保安元年の政変」で失脚し宇治に隠居していた藤原忠実が復権しました。
これにより、忠実・忠通父子はひどく険悪になってしまいます。白河法皇・鳥羽上皇という祖父・孫の間の怨嗟が、そのまま藤原摂関家の父子に引き継がれてしまったのです。
この頃、なかなか実子が産まれなかった忠通は、23歳年下の弟・頼長(よりなが:1120~1156)を養子としていました。しかし忠実は、長男と仲違いした以上、次男に自らの家督を継承したいと考えるようになり、忠通への当てつけのように次男・頼長をかわいがるようになります。
つまり「父忠実+次男頼長 VS 長男忠通」という構図です。この構図が、その後の保元の乱にそのまま引き継がれ、忠実と頼長が東軍に、忠通が西軍にそれぞれ属し、殺し合いにまで発展していきます。
さて、せっかく藤原頼長が登場したので、彼の性格についてもここで詳しく取り上げていきましょう。
藤原頼長は、こののち左大臣に就任し、「悪左府」の異名をとる人物です。「悪の左大臣」という意味ですが、当時の「悪」というのは「悪い」という意味ではなく、「才能が豊かである」という褒め言葉だそうです。そういえば、室町時代に登場する「悪党」も「悪い」という意味を持たない中立的な呼び名ですね。
慈円(じえん::1155~1225)が書いた歴史書『愚管抄』によると、頼長は「日本第一の大学生(だいがくしょう)」として同時代の人間から称えられていました。頼長本人の日記によると、1030巻の本を読み、儒学や漢学の知識については右に出る者はいなかったようです。この時代は、天皇の詔を起案するにも儒学など古典の知識が不可欠でしたから、頼長の才能は朝廷内でも重宝したことでしょう。
一方、兄の忠通は詩歌を得意とし、百人一首に
「わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの雲居にまがふ 沖つ白波」
が収録されています。しかし頼長は、「和歌が何の役に立つのか」と嘲笑していたといいます。兄弟仲の悪さを示すエピソードですね。
